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あぶら

 振り返ってみれば、小原はいつもぎこちなかった。ぎこちないというのは、主に立ち振る舞いについてだが、広義なら小原の生活そのものを指していた。大きく出っぱった額には、常に汗をじったりと滲ませて、それを隠すように長い髪を伸ばしていた。
 電車を間違えた、と連絡が来る。僕は改札の前で待つのをやめて、駅に併設する小さな本屋に入った。新刊のコーナー、文芸書、建築雑誌を眺める。本屋への興味が尽きかける瞬間に、小原はのそのそとやってきた。小原は歩くのが遅いから、僕の方から彼に近づく。
 財布を無くした。それが第一声だった。くたびれた顔をして、僕たちは三秒ほど見つめ合う。その交わった視線には、ぴりぴりとした悪意はなく、無言の湿った応酬がある。それを受け止めてやるのが僕の役目であり目的だった。
 いつ無くしたか覚えてないの、と尋ねたが小原はなにひとつ覚えていなかった。その日は映画を観るのをやめにして、新しい財布を探すことに決めた。小原は両耳を赤くして、またのそのそと僕の後ろを着いて歩いた。
「もう随分使ってくたびれていたから、無くなっても構わないよ、大した金額も入ってないし」
 小原は半分諦めたような顔をして、申し訳なさを隠すために笑った。自分のミスで集合時間に遅れたこと、財布を無くしたこと、予定を急に変更させたこと、僕に時間を使わせること、全てが彼のストレスの要因になっていて、積み重なるごとに顔が歪んでいく。
 僕は小原が好きだった。人付き合いが億劫だからと出不精な彼が、唯一自分の誘いには乗ってくれた。髪で隠れているが、くるりと睫毛が上向きに反っていることを知っていたし、しわがれた声を恥ずかしく思っているところも好きだった。

「雄平くん、お化粧してる」
 小原はつぶやいた。うん、してるよ、とそっけなく返事をすると、小原は電池が切れたアンドロイドみたいにその場に立ちすくんだ。
「なに?」
「いや、なんでもない」
「大丈夫?」
「大丈夫、だと思う」
「大丈夫じゃないんじゃん、どうしたの」
「どうもしてないよ、ごめん行こう」
 小原は進み出そうとしたはずみに、思い切り右足で左足を踏んだ。ぎゅっ、と間抜けにソールがこすれる音がして、右斜め後ろに倒れた。髪の毛のいくらかが額に張り付いていて、通り過ぎる人を見つめかえしてしまわないように強く目を閉じている。身体が強張って小刻みに震えていた。
 僕は、この時なぜ小原が好きなのかわからなくなるのと同時に、無性に愛おしくなった。自分とは違う回路を持っている彼が、僕を見てどう思うのか知りたかった。
 小原を肩から引き上げて、何事もなかったかのように腕を掴んで歩いた。ただ彼に触りたかったのだとも思う。
 駅の構内を過ぎる。人混みをするすると抜けていこうとすれば、小原は足を乱して人にぶつかった。弁当屋の店員が僕らを見て吹き出す。小原となら笑われても構わなかった。そう思うとき僕はとても気持ち悪い顔をしていた。
雄平くんが、と涙交じりに小原が話し出す。僕は、うん、うん、と聞いていることを示しながらスピードを上げて歩く。
「雄平くんが、雄平くんの時間なのに、僕はなんなんだろうね。映画も碌に見れなくしてしまって。君がお化粧をしている時間を、費やしてくれた時間を、僕は返してやれない」
 僕は小原と会う時にしかメイクをしない。それを、入念に伝えていた。そうすることで、彼にまた圧力をかけてやれるからだった。多くの場面で、僕は小原に申し訳なく思わせる行動を取った。小原のぎこちなさを利用した。そうして、二人の間に膨らんでいく借金のような、依存関係を熱烈に求めていた。
ごめん、ごめんね、と小原が何度も謝る声を聴きながら、母親の口紅を始めて盗んだ日を思い返した。仮病で学校を休み、誰もいない家の中でドレッサーを開けたときの恍惚。鏡の前で自分の中に膨らむものを感じた。小原、もっと謝ってくれないか。
 僕は立ち止まってマスクを外し、小原に顔を向けた。発色のいい唇を突きつけてやりたかった。
「してるよ。40分かかったよ。小原のために、小原と会うためにした。なるべく美しいまま小原に会いたかったんだよ。でも申し訳ないなんて思わないで。これは僕がやりたくてやっていることだから。」
 小原の目はぎゅると方向を変えて、向かい合っているのに絶対に直視したくないという意志が見えた。小原にしては器用だなと思った。額から垂れてくる脂汗が、眼球の動きだけ滑らかにしているようだった。小原は浅く息をして、口から小さい音を立てた。一度舌打ちのようになって、慌てて手を口元に持っていった。マスクがぐしゃぐしゃになって、鼻までずり落ちた。僕はまた穏やかな気持ちになって、小原の顔は青ざめていた。感情は負債のように重なり、とうに限度を迎えている。小原は、もう僕の告白を受けるしかなかった。
 首から走り出した、ように小原は上半身から一つずつ組み立てて逃げていった。途中、左足首がぐねんと曲がって、小原が倒れかけた。ほら、と思った。また僕はとても気持ち悪い顔をしている。僕の周りに円形の空間が生まれて、そこから逃げ出す小原の跡が線状に伸びていく。
 小原の腕は右往左往しながらちぐはぐな弧を描く。僕はおかしくておかしくて、涙が出た。拒否感は好意と紙一重だ。小原は、なぜこんなに僕が怖いのか、感情を支配されているのかわからないから走っている。僕は顔を拭いながら小原に迫る。小原はその気配に近づいて、振り返って僕を見る。口から涎が垂れていた。小原は全て諦めたような顔をして、どんどん普通の人になっていった。分からないけれど、彼が人混みに馴染んでいく。ネジや歯車が組み合っていくように、規律を守る群れの一部になるように、飲み込まれた。僕はおかしくておかしくて、涙が出た。
 振り返らない小原に、いつものぎこちなさは微塵も感じ取れなかった。僕の手の腹には拭ったメイクがべったりと固まって、唇は固く乾燥していた。駅から離れ小原の財布を側溝に捨てて、唾を吐いて被せる。路地に溜まった虹色の液体が、醜い僕の顔を情けなく照らした。

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