モーツァルト!を観劇した感想
ずっと違うサイト使ってたけど、noteが主流(?)になってきてたから初めてnoteで観劇の感想書いてみる!
モーツァルト!に狂わされている私
モーツァルト!2024、主演が古川雄大さんと私の自担こと京本大我さんで、大我くんがしたいと思っていたヴォルフガング役を、そしてあの帝国劇場の0番に立つ大我くんを絶対この目で見なければ、、、と思い2024年を過ごしてきた。FCのチケも当たり飛行機のチケも予約しあとは行くだけ、、というところで台風のせいで待ち遠しかった帝劇での観劇が叶わなかった8月。
この出来事が私にとってターニングポイントで、悔しさの反動から、地元に近い博多座には絶対に通ってやるという必死の思いでチケットを獲得した9月。帝劇行っていたらこんなに必死になって一般でチケット取ってなかったかも、、。
そして月日は流れ11月、やっと博多座でモーツァルト!の幕が上がった。
待ちに待ったモーツァルト!、予想を遥かに超えてくる物凄い作品で、初日はその凄さに思考が停止し何も考えられなかった。パンフレットもHPもじっくり読まずに観劇し、内容が100%理解出来ていたとは言えず、初日は具体的に何が凄いとは言えなかったが何も考えられなくなるくらい心に食らってしまったものがあった。とにかく、「すごい」しか頭になかった。
必死な思いでチケットを取ったかいがあり、幸いにも複数回モーツァルト!を観劇できる機会を作れたため、この物語の本質は何なのか?考えながら観劇してきた。
ストーリーと登場人物の関係性について整理してみる
ストーリーに則って、登場人物がどのような関係なのか、またその関係性やストーリーの流れから見えてくる根本的な部分を考察してみた。それを文字に起こしていこうと思う。
ヴォルフガング
この物語の主人公。幼少の頃から才能を開花させ、ヴォルフ自身も音楽が生き甲斐という。縛られることを嫌い、自由を求める。また、音楽においては貴族と同等と考えており、領主であるコロレドとも対等に渡り合おうとする。
レオポルト
父親は早くに息子の才能に気づき、私の誇りになって欲しいと才能を磨きあげている。一方で、自分の息子の無分別さに気づいており、そのまま大人になり才能をダメにしてしまうことを危惧しており、息子をなかなか手放すことができないようだった。また、それが自分の存在価値であるかのようにも感じられる。
そんな父親に対して、ヴォルフは自由になりたがり、そのままの自分を見て欲しい、愛して欲しいと願いようになり、結果2人は分かり合えずに父親が亡くなってしまう。
コロレド
コロレドはヴォルフの才能、それに心底惚れており、皇帝の前でヴォルフが演奏することを裏から手を回し邪魔するなど、その才能を独占しようとしていることが見受けられた。自由を求めるヴォルフはそんなコロレドにもちろんNoを突きつけており、この2人も分かり合うことがなかった。
コンスタンツェ
コンスは初めて会った時にヴォルフに一目惚れする。しかしその時ヴォルフは姉のアロイズィアのことが好きだったようで初めはそれに嫉妬するだけであったが、プラター公園で再会したときに”純粋なこのままのあんたが好きなのよ“と想いを伝えることによりヴォルフと仲を深めていく。ヴォルフもありのままの自分を愛してくれるコンスに惹かれていき、婚姻関係となる。しかしヴォルフが成功していくことによってだんだんとすれ違いが生じてしまう。自分の夫は芸術家であるため、そんな夫を支え、そしてインスピレーションを与えたいと思っているが、その願いは叶わない。“才能より愛される妻にはなれない”と最後はヴォルフのもとを去ってしまう。
ナンネール
自らも“奇跡の子”と言われながらも、女だからという理由で音楽の道を諦めている。だからか弟には成功して欲しいと思っているが、弟のために自分が我慢することが多い(結婚相手や、金銭面等)。ヴォルフはナンネールに対し気持ちがないわけではない(結婚の際には祝儀を贈ろうとしていた)が、自由に生きすぎることによって蔑ろにしているよう(結局祝儀を送らずに友人に渡した)にも感じられた。
こう見ると、ヴォルフは結局誰とも上手く関係を築くことができなかったし、誰も幸せにならない、そして自分も幸せを求め自由に生きてきたが、その自分すらも幸せになることができなかった。ヴォルフはこれを才能=アマデのせいだと考えるようになったように思える。
アマデとは
アマデ=才能の化身であり、ヴォルフだけに見え、ヴォルフに付き添っている。白い羽根ペンと楽譜、そしてある箱を常に持ち歩いる。曲を書いている時もあれば、ヴォルフのことを監視するように見つめる時、またヴォルフのそばからいなくなっている時もある。
そして、この違いを曲を書いている時=インスピレーションを受けている時で、ペンが止まっている時や楽譜を閉じたりその場から消えている時=インスピレーションを受けていない時であると考えた。コンスとのシーンやレオポルトとの2人のシーンなどの時には曲を書いていないことが多く、それはヴォルフ自身の感情=肉体の感情が優先されているとも考えられた。しかし、アマデは肉体の感情を優先して行動することを許さないかのように感じた。(愛していれば分かり合えるのあとにセシリア夫婦を呼び寄せたり、母の死のシーンでは死ぬ瞬間に楽譜を渡したり、、、などなど)
才能が宿るのは肉体なのか?魂なのか?
この作品の深遠なテーマである。私の結論はこうである。
才能が宿るのは魂であるが、それは肉体と一心同体である。肉体が死ぬならば、魂=才能も死ぬ。しかし、魂と肉体それぞれに感情がある。
1幕、コロレドから解放されて自由になったヴォルフが次に歌う曲が“影を逃れて”は、アマデの持つ白い羽根ペンをヴォルフの腕に突き刺し、ヴォルフの血でアマデが曲を書いているシーンで幕を閉じる。このシーンから肉体がなければ魂=才能は働かない、才能を働かせるには肉体が必要であることを意識づけられた気がした。
この考えをもとに2幕のラストについて考えてみた。まずあらすじとしては以下の通りである。
レオポルト(と思われる人物)がヴォルフの前に現れ、「自分の力で書くのです」とレクイエムを作曲するよう依頼する。ヴォルフは遠くからヴォルフを見つめているアマデに赤い羽根ペンを差し出すが、アマデはそれに反応することなく遠くから見つめたまま、ヴォルフ自身が曲を書き始める。しかし、ヴォルフはレクイエムを書けないことを悟り、赤い羽根ペンを自分の腕に刺す。そこにアマデが近づき、白い羽根ペンを差し出し、アマデの手ごと握りしめ、自分の胸に突き刺し、アマデと共に亡くなってしまう。
また、ヴォルフは父が亡くなった時に、「お前が家族を壊した」とアマデに対する怒りの感情や憎悪のような感情を露わにしている。このことから、アマデ=才能が原因で家族やコンスなど周りの人間との関係がうまくいかなかったと感じているように思えた。そのため2幕の”影から逃れて“は、そんな憎悪の対象である自分の影=アマデから逃れたかった歌のように聴こえた。ヴォルフ自身は自由を求め自分の思うがままに生きていたようであるが、家族やコンスと分かり合いたかったのだと思う。しかし結果として誰とも幸せになることができず、アマデを恨んでしまう。
そんな状況の中レクイエムの依頼が来たが、「自分の力で」と言われたセリフ通り、アマデの力ではなくヴォルフ自身の力で曲を書こうとするが、書けない。音楽の才能はアマデがいてこその力であり、アマデから逃れて自由になりたいと思ったが、アマデと共に生きてきた自分は逃れられないことを悟り、自ら死を選んだのではないかと私は考えた。
おわりに
見るたびに頭がパンクしそうで言葉にして自分の中から出さないと苦しくてしょうがなかったのが文章にしたことでスッキリした、、、。あくまで私の解釈であり他の人の意見もたくさん聴きたいところです。
しっかしこの作品、誰も幸せになっていなくて見るたびにいろんな登場人物に感情移入して辛かった〜〜〜〜!!!!!!!!でも私喜劇よりも悲劇が大好物で尚且つ考察しがいのある作品大好きだから好みの作品でした。なんと初演から22年も経っているということで驚き。今回大我くんが出演するから見た作品だったけど、古川さん回も奇跡的に1回観劇することができて、大我くんの演じるヴォルフと全く違う演じ方やアプローチで見ていて本当に楽しかった。モーツァルト!もっと前に出会いたかったし大我くん、古川さんだけでなく他の方のヴォルフ役も見てみたかった〜。こんなに作品自体にのめり込んだの初めてというくらいのめり込んだなあ。
東宝さん、ぜひ円盤化よろしくお願いします、、、。