さみしさ

普段は、いつも笑顔だねと言われる。

争いも怒りのエネルギーも嫌いで
平和主義だ。

だけど、
ふっかけられた喧嘩は買うし
自分のその時の「大事」を貶されたり
それで傷ついたりしたら
怒るというより喧嘩をふっかける。

そもそも怒る回数も喧嘩の回数も
劇的に少ないので
怒ると喧嘩をふっかけるとの
違いがいまいちわからないのが
問題だとは思うのだけど。

ひとまず、怒りが爆発したとして、
そういうときは必ず
「そんなに怒ることないじゃない」
と周りから言われがち。

いやいや、普段怒らないですしね、
怒りたいときくらい怒らせてくださいよねぇ!?
と、そっちにも怒る。憤慨する。爆発する。

そんなことを繰り返して数年。

信頼していた人から発せられた一言に、

電話中やっていうのに
壁ドンならぬ
胸ぐらドンされたんちゃうか思うほど
痛いと感じたとき、

これまで共にした時間がまるで
嘘だったかのように崩れ去って
蟻地獄の砂と化したかのように
虚しさを感じたとき、

あれ。
どうするんだったっけな。
怒るんだったっけな。
あれ。
わたしって怒っていいんだっけ。

こういうとき
相手になんて伝えればいいんだっけ。

傷ついたって言えばいいの?

悲しかったって言えばいい?

うん、うん…

気づけば口数がトンと減っていて焦る。

だけど
相手は微塵も気づかずにずっと話している。

そうか。
言わなければいいのか。
我慢していればいいのか。

ちょっと喉に刺さった魚の骨だと思って
飲み込んでしまえばいいのだ。


そうだよね、ははは… えー!ははは…

そう、これでいい。

翌日

ほかの友達にポロリと痛みをこぼしたら
「それは痛かったね。さみしかったね。
でも、もしかしたら気づかぬうちに
自分も誰かを
さみしい思いにさせてるかもしれないね」

あぁ。
痛かったとばかり思い込んでいたけれど
私はさみしかったのか。

信頼し、信頼されていると思っていた。

私を私という人間として扱ってくれていると
思っていた。

だけど違くて。

「死んでる人間(病んでる人間)」
として扱っていたのだと、
私が必要なのではなくて
「そういう人間」が必要だったのだと。

そう言われたことが
その認識の違いが
さみしかったのだ。

さみしさが痛みだったのだ。


一緒に泣くほど笑っていた時は
すぐ隣に居たのに、

「お前とはちがう」と言わんばかりの
トゲトゲしい言葉で
笑みの残像だけをすぐ隣に残したまま、
冷たい顔をしていともあっさりと
距離を置かれたことが

さみしかったのだ。


男同士だったら
その場で喧嘩をするのだろうか。

口で済まなければ殴り合って
言いたいことを言い合って
喧嘩の後に仲直りをするのだろうか。

私は、どうすればいいのだろうか。


ひとまず飲み込んだ魚の骨はもう痛まない。

そっとしておけばいい。


そう思っていた矢先
また魚を食べさせられていた。


今、言うべきか。

言わずにまた
痛い思いをして小骨を飲み込むべきか。


でももう、あいにく
小骨の痛さの度合いを知っている。

もう二度とあんな痛みはごめんだと思う。


じゃあ。答えは1つだ。

傷ついた。さみしかった。


それを言うまで。

だけど、言ってどうなる?

謝ってもらって、
冷めた顔で置かれた距離は
もう一度縮めることができるのか?

ちっとも、できっこない。

みんなはどうしているんだろうか。

私はあまりに人間関係に
情も熱も入れずに、
これまでもたくさんの小骨を
目をつぶって飲み込んで
荒波を立てないように必死で
生きてきたんだろうか。


そして、
私もまた誰かに
チクっとする小骨を
飲み込ませているのだろうか。







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?