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わたしの話は聞いてもらえない

人と会話をしていて、話の途中で話題をもっていかれたり、なにか意見を言ったのを否定されたりすると、わたしはすぐにこう思ってしまう。

ああやっぱり、わたしの話は聞いてもらえないのか…

いつからかこんな思いがわたしのなかに沈殿していて、会話のなかでこころが掻き回されたとき、どろっと底の方から浮かんできてはわたしを黒く濁らせる。



「わたしの話は聞いてもらえない」と感じた原体験をいくつか覚えている。

ひとつは、小学1年生のとき。
わたしは親の遺伝子を受け継ぎ、身長が頭ひとつ飛びぬけて高かった。「1年生!?大きいね~」と言われるたびに、「わたしはおかしいんだ、普通とは違うんだ」と感じ、背が高いことがゴンプレックスだった。

そんななか、同じクラスにいた背が低めの女の子Sちゃんのことを、「いつも”かわいいね”って言われてて、いいな」と思っていた。まわりより背が高い女の子に「かわいいね」と言ってくれる人はいなかったから。
背が低いことを卑下するつもりはなく、むしろ本気でうらやましいと感じていた。
しかし、友人に「Sちゃんってさ、小さくてかわいくていいよね」と話すと、「Sちゃんは背が低いこと気にしてるんだからそんなこと言っちゃだめだよ」と怒られた。
わけがわからなかった。身長へのコンプレックスはわたしも持っているから、気にしていることはわかるけど、「わたしはそれをいいなと思っている」と言うことのなにがいけなかったのか。みんな、わたしには「amちゃんは背が高くていいな」っていつも言ってくるくせに。


このときの孤独感、絶望感は、いまだに鮮明に覚えている。みんなは好き勝手なことを言うのに、「わたしの話は聞いてもらえない」のか…。意識がぐいっとうしろに引っ張られ、固まって何も言えなくなった自分の背中を離れたところから見つめていた。


別の原体験がある。母との会話だ。
母は自分の感じたことを、他の人もそう感じているものだと断定するような言い方をする。あるいは、母の主観でこちらの感じ方や捉え方を決めつけて話をする癖がある。

凶悪事件などのニュースを見れば、「なんでこんなことするのかね、ありえないわ」と自分の理解を超えたものを嫌煙し、考える余地を与えない。
わたしが「こういうことがあったの」と出来事を話すと、「それは~~ってことだよね」と自分の解釈で話を締めくくる。
わたしがどう思うかは聞いてもらえず、こころが置き去りのまま話が終わる。(もちろん、母なりにアドバイスや励ましの意図があっただろうことは理解している)

ここで「わたしの気持ちはそうじゃないよ」と主張できなかったのは、相手の感情を察してしまうわたし自身のHSP気質も大いに影響している。母は言い争うことを望んでいないどころか、わたしに「それは違う」と言われることを恐れている。その言葉は、母にとって、母の人格をまるごと否定する攻撃だからだ。それを察しているわたしは、自分の思いを主張するより、平和的な会話の終結を望んだ。



そんな体験を重ねながら、わたしのなかには「わたしの話はきいてもらえない」という思いが一滴一滴沈んでいった。
どうせ聞いてもらえないから、わたしは自分の思いではなく、まわりがわたしに求める意見・態度はなにかを必死に考えるようになった。
相手に、その場の空気に合わせて、笑ってうなずいて、とにかく会話が平和に進み、みんなが不快にならないように、気を張り続けた。

そうこうしてるうちに身体だけは大人になって、だけどこころは変わらずどこかに置いたままで、いつのまにか自分が何を感じ、何を思っているのか、わからなくなった。置き去りにしたこころに引きずられ、身体も動かなくなった。うつ状態になって、仕事を辞めた。
それをきっかけに、ようやく自分のこころと向き合うようになった。

そうして気がついたのは、
わたしが、わたしの話を聞いてあげてなかった、
ということ。

「自己対話」という言葉がある。文字通り、自分との対話だ。
わたしは、自己対話なんてそれまでやったことなかった。
頭の中では四六時中”だれか”が喋っていて、過去の出来事や自分の行動について、「なぜできない」「あのときこうすればよかったのに」「どうしてわたしはこんなにだめなんだ」と否定的な言葉を浴びせられていたけれど、そんな声と”話をする”なんて考えたこともなかった。

だけど、自分のこころを見つめ、自分の中にぐるぐると渦巻いていた思いをじっくりと聞いていくと、じわじわと、時に一挙に、こころがほどけ、軽くなっていくのを感じた。


わたしの話は聞いてもらえない ―――
わたしの話を聞いてほしい ―――

その虚しさや切望は、実は他の誰でもなく、
【 自分 】に向けられた思いだったのだ。


自己対話を始めてから約2年。いまだに話は尽きないし、聞けば聞くほど知らなかったわたしと出会う。話が堂々巡りになることもあるし、「これ前にも話したよね?解決したんじゃなかったっけ?」と思う話題が上がってくることもある。一筋縄ではいかないなと思いながらも、対話を重ねた分だけ、確実に、自分のこころが解放されていくのも実感している。
30年以上、閉じていたのだ。2年足らずでは語りつくせない思いが詰まっている。じっくり、気長に、これからもたくさん話を聞いてあげようと思う。

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