『坐る』#164

椅子座に対する床坐として、あえて使うときに用いる「坐る」の字。常用漢字で義務教育課程で習う、一般的な漢字の「座る」に対して、意識的に人類学か建築学かあるいはそれかとにかく、人の生活を研究する分野に通ずる何かに触れることが無ければ見ることもないし使うこともないであろう漢字の「坐る」は個人的に好きな言葉の一つであると白状し表明しておこうと、大して誰も読みもしないこの場を使って残しておく。
そもそもの漢字の成り立ちが、見ればわかるように、人が二人、土の上に位置していて、土の縦棒は旗を見立てるのか柱を見立てるのかあるいは人と土との距離感を近づけるものとして伸びているのか、とにかくも人が二人、「坐する」様子が元になっているとわかる。それならばと、もう一方の漢字の「座る」はといえば、部首である「まだれ」がかぶさって屋根のように人と土とを覆っている。おそらくきっと、土の上に立てた支柱に寄って坐る2人を覆う屋根を持った空間を象徴しているのだろう、そこは室内なのだ。
そこで、室内ならば「椅子に座る」と「床に坐る」ことの差異って無いんじゃないか?と思う。そう思う。とはいえ、真実、歴史的な「座る」と「坐る」の区分は前者が名詞としての「座」、後者が動詞としての「坐る」で使い分けられていたのが常用漢字を編集する過程で「座」の字に動詞も名詞もまとめられたというもののようで、現状で「座」と「坐」を区分する意味は無いように思う。
じゃあ、意味がないと納得できるのかったらそうもいかなくて採り入れてきた知識の「情報」とか「歴史」を再編するのはできたとしても「情報」を構成するさらに細かい単位の「漢字」を編纂するのってすごく難しく感じる。『だって床座は「坐」だろ?椅子座は「座」だろ?!』ともう反射的に噛み付いてしまう。そして素直に納得して入れ替えるのも難しい。なにせ元の意味で納得してしまっているし、納得するだけの理屈があって収まっている心像を作り変えるのは大変だし。
床に坐り続けることにおいて好みはそれはそれとして、体勢の維持は私にとって苦しいものだ。腰回り脚回りの関節が固くて可動範囲がかなり狭い(正座をすると尻がうっすら浮く)。胡座をかいたり長座で足を伸ばしたりすれば骨盤は後ろに倒れ、横座りは骨盤を後ろに倒れることは避けられるが横への傾きが強くて腰が曲がる。踏まれて根元が曲がったにも関わらず天に向かって伸びるぺんぺん草のような、二次関数のグラフのような傾きを見せる。けれど、先日部屋の片付けをして床が見えてきて、部屋にはデスクチェアと1人がけソファとセブンチェアの3つの椅子があってただでさえ狭い部屋に座る場所はたくさんあるのにも関わらず、空いた床に坐ってソファにもたれかかって本を読み始めた自分にはなかなか驚いた。ピクニックも花見も好きで、レジャーの床坐を好んでいることは知っていたけれどまさか屋根ありの空間でもそうなのかと驚いたのでした。

#坐る #180531

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