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「走って欲しい」と願うこと,「前向きな承認の環」のこと.

寒い.

冬隣 (2)

冬である.

ランニング習慣化アプリSTRAVAに表示される,当ランニングクラブ員の投稿が少ない.
正確には,寒さに強い人たち(ランニング求道勢)のランニング記録ばかり投稿され,ランニングエンジョイ勢の投稿が少ない.

「走って欲しい」と願わずに,居られない.
「他人」にである.
それは,少し気恥ずかしい言葉だが,おそらく「仲間」と呼称すべき関係なのかもしれない.

ランニングを始めたのは最近...9月くらいから.
その前から5年くらい,筋トレをしていた.他の人もやれば良いのに...とも考えていたし,通っている公営ジムで良く見かける人に,親近感を持つ事も有った.
しかし,顔馴染みでは有っても,名前も素性も知らない「筋トレ同級生」に対して,「トレーニングに来て欲しい」と思う事は無かったし,そして他人がトレーニング終えて去った後,「お疲れ~」と声をかける...そんな発想も無かった.

冬隣 (3)

ひょっとして,私が「走って欲しい」と願ってる...という事は,
...ひょっとしたら,逆からも,そうなのかもしれない.
誰かが私に,「走って欲しい」と願っているのかもしれない.
「自分が走る」という,たったそれだけの個人的な行動を,望んでいる他人が居るのかもしれない.

それは,臭く言えば,

「前向きな承認の環」の中に居るということである.


SNSは承認欲求のアプリ,と言われる.勿論それだけでは無く,色々な機能を持っているが,その一面は強い.
...近年では「承認欲求」は悪い意味で使われがちだ.
しかし,その人間の...いや,動物の頃からの「本能」は,上手く回れば,社会を良くする駆動力なのである.

悪い意味で使われがち...なのは,現状その欲求の場となっているFacebookやtwitterなどのSNSでは,その欲求と承認の循環が,上手く機能していないからだ.
例えば,今のSNS界隈では,誰かが自分にしてくれる「承認」の,有効期限が短か過ぎる.

100万いいね!を獲得しても,それは1日の事でしか無い.
明日には皆,忘れている.新しい事象に塗り替えられてしまう.
自分が伝えたい事は,往々にしてバズらず,気軽さを重視しての書き込みの方が,バズり易い.そして,バズった後に慌てて自分の本当に伝えたい事を,書く.
それを指し示す言葉は「本末転倒」,だ.

フォロワーは持続する.
しかし,1万フォロワーを持つアカウントでも,"書き込まなければ",その1万人のタイムラインには"何も表示されない".
そのルールには,どんな権力者も抗えない.
(例え世界最強の軍隊の司令官だとしても),毎日自分を主張し続けなければならない.おしゃべりさんばかりが得をする世界では,高倉健likeな「言葉の重みおじさん」を気取る事は出来ない.
結果「ネタ・即・tweet」のような精神性を持つ人が,「ドジっ子アピール」や「本日の悪人への大喜利揚げ足取り」や「存在をアピるだけの独り言」を速射する.それでは,人間関係だけでひな壇に座ってるタレントと同じようなムーブではないか...そのように私は感じる.
それに背を向け,硬派な書き込みをするのは自由だ.しかし,SNSのワイドショー化は既に完了している.
twitterはtwitter広告をクリックする人のお金で運営されており,今や,そのような人達に最適化されてしまったプラットフォームなのである.

冬隣 (4)

STRAVAは,走った(または歩いた,自転車に乗ったなどの)記録を共有出来るアプリだ.
現代人の健康に良いとされる「運動」をした時のみ,投稿する事が出来る.
そして,その投稿にフォロワーから,「kudos」(STRAVAにおけるいいね!)が付くという仕組みだ.

山脈めいたラーメン...コンビニスイーツ画像...そのような写真も投稿可能だが,しかし,それは「運動」後にのみ,添付する事が出来る.つまり,「+-0」の場合のみ,それが可能なのである.
だから我々は,若干健康に悪そうなラーメンにも,安心して「kudos」が出来る.

冬隣 (7)

この「前向きな行動」を介してのみ,他人と繋がる,承認し合う事が出来る...と言う設計は,twitterより,pokemonGoより,正しく進化している.
STRAVAをインストールし,そして,同じくランニングしている人をフォローする.知り合いならば,大体相互フォロー状態になるし,若しくはランニングクラブに所属しても良いだろう.
すると,スマホの向こう側で,「自分が健康に良い行動をするのを待っている人が居る」状態になる.
そのような「前向きな承認の環」の中に人間は身を置くと,その人間が「前向きな努力」をする確率は,有意に高くなる.それが,STRAVAの設計だ.

冬隣 (5)

twitterは間違えた.人間の承認欲求を甘く見積もっていた.
が,それ以上に,「人間の他人への優しさ」を測り間違えていた.
あなたが疲れて,ちょっと吐いた弱音や愚痴,つい食べてしまったスイーツ.そういうものにも「いいね!」は付くのだ.
人間は,他人へ,基本的に,「優しい」からだ. まして,知り合いなら尚更,そう.

でもそれは,自分に甘くしたいことへの裏返しでも有る.

テストの前に,「昨日勉強した?」と聞いてきて,「勉強した」と答えられないような雰囲気を感じたことは無いだろうか?
それが「後ろ向きの環」である.ここに捉えられた人間は,人生の「成功する楽しさ」を,味わうことも無いだろう.
成功する為の前向きな努力が,大っぴらに出来ないのだから.

冬隣 (8)

その書き込みに「いいね!」は付くだろう.
しかし,それは本当に「自分が承認して欲しい自分」なのか?
そうではない,「ダメな自分」にも"慰め"や”次頑張ろうよ"のいいね,が付いてしまう事がある.その人間の優しさを,twitterは理解していなかった.

たかが,ランニングである.それが世界を変える力があるのかは,解らない.
先進国の住人の,贅沢な悩みの,贅沢な解消法,かもしれない.

しかし,ここに,あなたの,家族でも,仕事仲間でもない,言ってみれば単なる他人が,「あなたの健康的な行動を待っている」という事実を忘れないで欲しい.
たったの1タップでしか無い.
が,私はそれをしたい,kudosしたい.
「頑張らないあなた」も,私は好きだ.
でも,「頑張ったあなた」が,私はもっと好きだ.

「kudos」の本来の意味は,名声,栄誉,威信,称賛,と有る.
現在STRAVAでは「kudos」と表記されているが,かつては「スゴいね」の表記だったと,ランニング部部長より,教えていただいた.

私は,こう思って,押している.一回一回,唱えるように押している...訳ではない.
単に気軽にタップしているだけだ.
しかしながら,私はいつも,こう思って(だけど気軽に)押している.

冬隣 (6)

(あなたが走ってくれて,私は)「嬉しい」
そう思って,押している.

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