見出し画像

私小説:「 #おはようVtuber 」

 夜を過ぎてもなおも引き下がる様子を全く見せない暑気と湿度が、「おはよう」という、キーボードを8回たたくだけのことにさえ、そのささやか過ぎる負荷へのためらいを与えてくる。

 「 #おはようVtuber

 少なくないVtuberが朝にするツイートである。このハッシュタグを検索している人も多い。ちょっとしたツイートでも安定していいねがつき、自分という存在を知ってもらうきっかけになるし、自分にとっても新しいVtuberを知る機会となる。Vtuber、とりわけ個人Vtuberはこれをするものなのだろうだと思い、ほぼ毎日数分の時間を消費して、時候のあいさつなどを添え、タイムラインに言葉と画像を流している。自分のイメージにあったロゴがなかなかないので、たまに探すようにもしている。
 もともと配信や執筆を急に中止してしまうことも少なくない自分としては、珍しくよく続いている習慣だ。「おはよう」と打つために寝坊も減ったので生活リズムを保つのにも貢献しているだろう。

 しかし、本当にこれは必要なのだろうかと、そう思うこともある。
 自分の「おはよう」を見てくれる人は少なからずいる。しかし、そのうちの何人が自分の動画を、配信を見てくれるのか、と。
 どこかで、自分はこの「おはよう」についているいいねの数を見て満足してしまっているのではないか、それは今後の発展にとっていいことではないのではないか、と。

 背中に薄く残る汗が、昨日の寝苦しさと夜中のサムネイル作りを思い出させる。この時期は、ついつい夜遅くになってからの作業が進んでしまう。昨日も、最後は空が明るくなっていた。それは作業が終わってからついついゲームをしてしまっていたという面もあるのだが。
 夢は見ていない。Vtuberになってから夢を見る機会が減った気がする。疲れているから夢を覚えていないのか、それとも、この今の状況が自分にとって夢と相違ないものだからかもしれない。3年前の自分に、今の自分の状況を伝えたら「僕がVtuberになるとか嘘言うな馬鹿」と返すだろう。
 なんとか体を起こし、布団のそばのデスクに置いてあるノートパソコンのキーボードに両手を置く。メインのゲーミングPCの前まで行く元気もないし、どのみちすぐに家を出なければならない。
 私が眠るまでYoutubeをかけていてくれたブラウザがタイムラインを表示する。いつも通りだ。みんな「おはV」をしている。
 いつもやりとりをしていて、そろそろ「友達」や「仲間」という言葉を使っていいのかな?と内心探っているVtuberや、初めてその姿を見た準備中のVtuber、そして顔が好みだったのでフォローした何人かのVtuber、さまざまなVtuberがそれぞれに朝を告げ、いいねやリプライがついている。その様子を見ながら、自分も義務感にかられたように指を動かし始める。親指でスペースを押す癖は一向に直らない。

「おはようございます🍊📖」

 その文字を打った瞬間、背中の汗の気持ち悪さや、今日の一日の忙しさと、これからあまり会いたくない人に会うことになることへの不安が消えたように感じた。というより、そのような不安や不快さを抱いていた私が奥へと引っ込んで、その空いた空間に、自分の眼前のPNGファイルに描かれる書生服を着た日向日影が現れたような感覚が現れたのだ。その自分の感覚の中の日向日影は、淡く光っている感じで、肌ツヤもよく、書生服もまるでおろしたてのように感じる。そのフレッシュな姿は「起床」というより「新生」の方が似合う。今日のための日向日影が生まれてきたかのようだった。

 「おはようVtuber」
 それは、私にとって儀式のようなものなのかもしれない。
 毎日、毎日、その儀式を通じて改めて「文化系物書きVtuber」になり、新しい一日の活動をする、そういうものなのだと思うと、少し納得がいった。
 
 朝のメッセージは打ち終わっていた。無意識に投稿ボタンをクリックするためにマウスを動かしている。居間からはテレビがいつものように暗いニュースを流す音が聞こえる。それでも、一日は始まるし、始まるべきだ。

「おはようVtuber」
 今日も私はタイムラインの先にいる視聴者に、同業者に、そして私自身に、そう呟く。

さあ、今日も僕はVtuberだ。では、一日を、始めよう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?