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スーパー戦隊シリーズの「王道」とは何なのか?『仮面ライダー』(1971)や『ウルトラマン』(1966)と『秘密戦隊ゴレンジャー』(1975)の違いとは?

先日の記事で王道・邪道・覇道に関する個人的見解を述べたが、これは親友の翔さんと話している中で私がふと浮かんだ見解だが、実はスーパー戦隊シリーズには明確な「王道」は確立されていないのではないか?という話だ。
これというのも、パブリックイメージとしての「戦隊もの」という概念と私が幼少期からの原体験も含めて見きてきたところの「戦隊」というものがまるで一致しないからであり、相当に深刻な問題である。
かつてX(旧Twitter)で子供向け特撮全般に関してざっくばらんに語り合っていた頃に出た面白い意見が「ライダー・ウルトラと違って「ゴレンジャー」の正統な後継者といえる作品は一個もない」というものだ。
言い得て妙である、『仮面ライダー』(1971)や『ウルトラマン』(1966)とは違ってスーパー戦隊シリーズには「第1作目こそが原点にして頂点」というような認識は作り手にも受け手にもない

これに関しては改めて私が掘り起こすよりもこちらで詳細かつ当時の雰囲気などを正確に理解した記事が書かれているので、まずはこちらをお調べいただきたい。

同じ東映特撮である、仮面ライダーシリーズと比較すると分かりやすい。『仮面ライダーストロンガー』(1975年)に出てきたタックルは、仮面ライダーではない。このことに解釈の余地はない。仮面ライダーというのは、東映特撮にとっての看板スターであり、石ノ森章太郎の代表作でもある。「仮面ライダーとはこういうもの」というイメージは作り手の側によるコントロール下に置かれ、ファン一人一人の解釈に委ねられたりすることはない。

特にこの部分が該当するが、戦隊とライダー・ウルトラとの違いはここにあり、『仮面ライダー』(1971)や『ウルトラマン』(1966)は明確に第1作こそが原典であり、一作目で強固な型が出来上がっている
ウルトラシリーズに関しては厳密に言えば『ウルトラQ』(1965)という最初で最後の白黒シリーズがあるのだが、いわゆる「ヒーローもの」という観点で見る場合の第1作目はやはり『ウルトラマン』(1966)であろう。
ウルトラマンは宇宙から飛来してきた神々しさを感じさせる異星人であり、元々は地球人ではないために価値観も行動基準もまるで違い、あくまでも「怪獣退治や異星人の侵略阻止」の目的で地球に来ているに過ぎない。
そして仮面ライダーは敵組織たるショッカーの裏切り者という抜け忍の発想から生まれたダークヒーローであり、バッタをモチーフとした「異形の怪人」という禍々しさがウルトラマンとは違ったヒーロー像を形成していた。

社会的評価も高いこの2シリーズは一作目からのコンセプトやカラーが明確な看板ヒーローであり、原典からの大きな逸脱をすることは許されておらず、だからこそ90年代までは何度も休止を繰り返していたし、何なら空白の期間の方が長い。
これに対してスーパー戦隊シリーズは一応のところ『秘密戦隊ゴレンジャー』(1975)を始祖としてはいるが、このフォーマットが全作品に共通しているのかというと決してそうではない
確かにダウンタウンの「ごっつええ感じ」で「ゴレンジャイ」というパロディができたり、映画泥棒のCMでもゴレンジャーのVの字型の名乗りがパロディとして使われているが、これはあくまで「ゴレンジャー」のみの要素だ。

ゴレンジャーの有名な名乗り
映画泥棒でのパロディ

キレンジャーの錯誤(キレンジャー=カレー好きのデブという特徴だけをもって戦隊イエローの全てがそういうキャラだと錯覚してしまうこと)」という言葉までできるほどにスーパー戦隊は「知ってる人」と「知らない人」での乖離が激しい

以前にも述べたが、何せ『暴太郎戦隊ドンブラザーズ』(2022)に関して宇野常寛とその一派がスーパー戦隊シリーズに関して無知な癖に的外れな雑語りをしていたという事実がその証拠だ。
また、白倉伸一郎や髙寺成紀などの平成ライダー初期作品(『仮面ライダークウガ』〜『仮面ライダー555』)を手がけた時期の東映特撮のプロデューサーもインタビューで戦隊を貶しライダーを擁護する発言が度々見受けられる。
特に高寺なんて『平成特撮の夜明け』(2018)とかいう最新のインタビューでもやたらと自分が手がけた作品の中で『星獣戦隊ギンガマン』(1998)を不本意な失敗作とこき下ろす一方で『仮面ライダークウガ』(2000)を褒めていた。
これは白倉も似たようなもので「アギト」の頃から一貫してスーパー戦隊や昭和ライダーなどを貶して自分が作り上げた作品ばかりを擁護し、如何に高尚な作品かを延々と語ろうとする「虎の威を借る狐」なポジショントークばかりをしている。

私が作品を評価する時にインタビューの発言や裏側のドキュメンタリーなどを考慮に入れないのはそういうことだ、「作家」と「作品」は別物であって世に発表された時点であくまでも別物として評価しなければならない。
しかし、他ならぬ作品の作り手が自社製品を無駄に下げるような真似をするのはまるで「あなたの子は素晴らしいですね。それに引き換えうちの子はダメなんですよ」と我が子を貶す醜いママ友の会と何ら変わらないだろう。
本気でそう思っているのであれば「じゃあそういう作品を最初から作るな」ということになるし、冗談というかポジショントークで言っているのだとしても品がなさ過ぎて話にならない、小学生のうざ絡みじゃあるまいし。
そういった毒親プロデューサーたちによって「ライダーがエリートヒーローでスーパー戦隊が落ちこぼれヒーロー」という誤ったレッテルを長年貼られ続けて来たのは事実だし、それを払拭しようという気概も年々失われていった。

だからスーパー戦隊シリーズのクオリティーが年々売上・視聴率という数字も含めて凋落して今日に至るわけだが、そんな荒地状態にあってはスーパー戦隊シリーズにまともな考察・批評をしようという気概が全体として起きないのもある程度はやむ無しである。
それこそ『ゴジラ-1.0』で描かれた「国に頼れないから自分たち民間の者たちで何とかする」「自己犠牲ではなく未来を生き延びるための戦い」というヒーロー像なんて目新しくも何ともなく、スーパー戦隊が90年代にとっくに通過した道だ。
むしろ「ゴジラ」はスーパー戦隊シリーズより30年以上も遅れて「自己犠牲の否定」なんてことをやっているのかと心の中で渇いた笑いしか浮かばなかった、「ゴジラ」ではどうやら「自己犠牲の壁」について格闘してこなかったらしい。
DAO(分散型自律組織)にしたって既に『未来戦隊タイムレンジャー』(2000)でフィクションとして描かれていたのに今更になって目新しいものだとやたらに騒ぎ立てる人達の何と多きことか。

話を戻して、スーパー戦隊シリーズには「5人一組で巨大な悪の組織に立ち向かう」「シンプルに敵を倒すだけの勧善懲悪」パブリックイメージとして確立されているが、その歴史の蓄積や作風の変化を正確に理解している人はどれだけいるだろう?
シンプルなように見えて実はライダーやウルトラ以上に「これ」という絶対の正解や規範となるものがなく、一作ずつ毎年莫大なエネルギーと発想力・思考力を持って作り上げてきたというだけでも物凄く大変なことをしている。
もちろんそんな美談・苦労話を評価はしないが、一方で純粋にスーパー戦隊シリーズはライダーやウルトラと違って明確な「これこそが絶対的イメージだ!」というものは意外とありそうでないものだ。
そしてそれこそが47作品も切らさずに続いてきた最大の原動力にして秘訣である一方で、スーパー戦隊シリーズそのものの考察・批評をより難しいものにしてしまっているのではないかと思えてならない。

なるほど、確かにライダーシリーズやウルトラシリーズにおける「王道(お約束・定番)とは何か?」と聞かれれば迷わず一作目を挙げて「これを基に以後の作品が作られています」とある程度の集約はできる。
しかし、スーパー戦隊シリーズの場合は「ゴレンジャーを基に以後の作品が作られているのでゴレンジャーが原点にして王道の全てです」などと安易に集約できるものではない
私が傑作に挙げている「チェンジマン」「ジェットマン」「ギンガマン」の3作にしたって「王道的」といえるイメージはあるが、同時に「例外」でもあるからこそここまで高く評価している。

これからは何となくのイメージで使われていた「王道」「お約束」「定番」といった言葉の定義も含めて、今までの見方や評価の仕方を見直した上で批評・考察を受け手が再定義していく必要があるだろう。
「ゴレンジャー」についてもまだまだ誤解の多い作品であり、そこを紐解いていくことが今後スーパー戦隊の熱心なファンやオタクを名乗る方々に求められることではなかろうか。

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