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スーパー戦隊シリーズにおいて、いわゆる「バカレッド」ってやつはどこから始まって、どんな風に細分化していったのだろうか?
『電磁戦隊メガレンジャー』の最終回と『星獣戦隊ギンガマン』の第一章を見ながら思ったのだが、スーパー戦隊の50年の歴史の中でいわゆる「バカレッド」がどこから始まってどう細分化していったのだろうか?
このことに関してタイムレンジャーの大ファンであるMC Yurika氏が『轟轟戦隊ボウケンジャー』で考察してくれている。
また、私がかねてより交流を持たせていただいているGMS氏も過去に戦隊レッドの系譜についていろんな角度からの考察をしてくれていた。
これらを元にすると、いわゆる「おバカレッド」「バカレッド」と言われるタイプの戦隊レッドの歴史自体は割と私がリアルタイムに生きていた頃からあったのだと知る。
代表的なところで言えば『電撃戦隊チェンジマン』の初期のチェンジドラゴン/剣飛竜、『光戦隊マスクマン』のレッドマスク/タケル、『超獣戦隊ライブマン』のレッドファルコン/天宮勇介など。
ただ、この辺りは「直情径行」というだけであって、本当の意味での「バカレッド」だったかというとそうではなく、やはりまだまだ「完璧超人型」の域からは脱却できていない。
その中で戦隊レッドの造形に大きな一石を投じたのが『鳥人戦隊ジェットマン』のレッドホーク/天堂竜であり、彼は「完璧超人を装った等身大の青年」という繊細なタイプだった。
1話の冒頭を見ればわかるように、竜がエリートでいられたのは常に葵リエという恋人がいたからであり、もし彼女と共にそのままジェットマンになっていたらあんなに正論を押し付けるキャラにはならなかっただろう。
その完璧超人を装った偽りの仮面が物語の中盤で完全に剥がれたわけだが、それは即ち戦隊レッドの系譜から言えばようやく「完璧超人」からの脱却を果たし、『恐竜戦隊ジュウレンジャー』以降の細分化へのきっかけとなった。
レッドホーク/天堂竜以降の戦隊レッドは昭和戦隊への先祖返り(原点回帰ではなく)を意図した『超力戦隊オーレンジャー』のオーレッド/星野吾郎を除けば、全員が良くも悪くも「欠落」をどこかに抱えている。
顕著なのは『五星戦隊ダイレンジャー』のリュウレンジャー/天火星・亮、『忍者戦隊カクレンジャー』のニンジャレッド/サスケであり、この2作は特に「戦隊らしくない戦隊」「レッドらしくないレッド」を志向した。
70〜80年代までの「エリート」「優等生」「完璧超人」「カリスマ」のイメージをまとった上品なレッドとは違い、亮もサスケも直情径行で仲間に頼らないといけないような情けない場面もそれなりに散見される。
特に亮は戦闘力が五人の中で一番高く餃子職人として頑張っているからまともそうに見えるが、道士がいなくなったら割と狼狽えていたし、サスケにしても後半は完璧超人っぽく見えるが、それでも完璧超人にはなりきれていない。
そんな試行錯誤を更に掘り下げたのが髙寺成紀が担当した初期2作『激走戦隊カーレンジャー』のレッドレーサー/陣内恭介と『電磁戦隊メガレンジャー』のメガレッド/伊達健太がそうだった。
髙寺Pはこの2作において志向したのがいわゆるサスケが担っていた「江戸っ子キャラ=べらんめえ気質」であり、特に健太はサスケの前半のダメダメでいい加減な部分を更に肥大化させた形で継承している。
しかし、そんな健太も戦いの中で成長していき、最終回では落ち込んでいたみくのことを「こらこら」と励ましていたし、「みんなのおかげで勝てたんだ」と言えるくらいに逞しい青年に成長した。
GMS氏も述べているように「カー」「メガ」の2作は「ジェット」がその先鞭をつけた「ヒーローである前に人間=等身大」、イギリスの音楽でいうブリットポップ路線をどこまでできるか?を志向したと言える。
ただ、当然ながらこの段階ではまだ「バカレッド」という概念は言葉としてもなかったし、作り手としてもそんな露悪的なレッドにしたというようなことは考えにくい、髙寺成紀は根っこ真面目だしね。
だから恭介・健太は確かに完璧超人でもないし優等生でもないし知謀も低いけれど、今日でいう「DQN」とは全く異なるタイプであり、人として必要最低限の礼節・常識は兼ね備わっていたのではと思う。
そしてそこに光を当てるように「完璧超人でもない」が「直情径行でもない」という、いわゆる「完璧超人に片足を突っ込んだ好青年」というのを確立したのが『星獣戦隊ギンガマン』のギンガレッド/リョウマである。
本格的にレビュー・批評を行う前にある程度前倒しで語っておくと、リョウマの特徴は「みんなから支えられるリーダー=フォロワーシップ型レッド」を1998年にして確立していたことだ。
彼自身は確かにチームの中心ではあるし戦闘力・判断力など非常に優秀なのだが、完璧超人の兄・ヒュウガと違ってリーダー風を吹かして「ついてこい」と偉ぶったり気取ったりするところが全くない。
嵐でいう大野智君タイプと言えるが(歴代でも屈指のスキルの高さを持ちながらも偉そうにしない)、00年代〜20年代まで見てもリョウマを継承したレッドはいくつか存在している。
次の『救急戦隊ゴーゴーファイブ』のゴーレッド/巽纏は演じる西岡竜一朗自身も述懐していたがいわゆる「パワハラ気質」の強い直情径行型であり、決して完璧なタイプではない。
何せ口癖が「気合だー!」だったし、他者への攻撃性もバンバン強い、描き方を一歩間違えるバカレッドになりかねない危うさを孕んでいるのだが、それでも社会人としての礼儀・礼節はきちんと備えている。
続く『未来戦隊タイムレンジャー』のタイムレッド/浅見竜也は脚本家の小林靖子氏の全盛期だったのもあり、ギンガレッド/リョウマの路線を更に現代っ子として捻った後継者と言えるキャラだ。
ここまででいわゆる「完璧超人型」に取って代わる戦隊レッドのニュースタンダード像は誕生していたと言えるが、やはり90年代までの戦隊はいわゆる「バカレッド」と呼ばれるタイプの戦隊レッドはいない。
そのように考えると転換点はやはり『百獣戦隊ガオレンジャー』のガオレッド/獅子走なのだろうか、とはいえ劇中の描写を見る限り典型的な「直情径行」というタイプには見えなかった。
演じる金子昇氏のビジュアルもあるのだろうが、自己主張をあまりするタイプではないし元獣医だからか意外とドライで割り切るところは割り切る達観したところもある。
そういう意味ではパブリックイメージとしての「バカレッド」が確立されたのは『忍風戦隊ハリケンジャー』のハリケンレッド/椎名鷹介からだろうか。
いわゆる「DQN=周囲の迷惑を顧みない馬鹿・言動や行動に品格や知性がなく粗暴・非常識で知能が乏しい」のイメージを最初に体現したのは間違いなく彼だった。
ここから『爆竜戦隊アバレンジャー』のアバレッド/伯亜凌駕、『特捜戦隊デカレンジャー』のデカレッド/赤座伴番、『魔法戦隊マジレンジャー』のマジレッド/小津魁まで「バカレッド」路線が続く。
思えば概念としての「バカレッド」が言葉と共に確立されたのはこの辺りであり、特に塚田英明が担当した「デカ」「マジ」の2作はその概念を完璧なまでに確立してしまったといえる。
そこからの脱却を図ろうとしたのが『轟轟戦隊ボウケンジャー』のボウケンレッド/明石暁と『侍戦隊シンケンジャー』のシンケンレッド/志葉丈瑠であり、久々に昭和戦隊に近い「完璧超人型」が帰ってきた。
とはいえ、この2作も決して真の意味で完璧超人だったわけじゃなく、チーフは冒険を目の前にすると理性が働かない冒険バカ、丈瑠は「殿様としての自分」以外にアイデンティティを持たない空虚な影武者である。
時代性の違いと言えばそれまでだが、こうしてみると00年代戦隊は全体的に作品自体もレッドの造形としてもそうだが、「空虚=中身がない」ことが最大の特徴だといえる。
言及しそびれた『獣拳戦隊ゲキレンジャー』のゲキレッド/漢堂ジャンと『炎神戦隊ゴーオンジャー』のゴーオンレッド/江角走輔も結局はその「空虚=中身がない」レッドだった。
まあこれが10年代の『天装戦隊ゴセイジャー』以降だともっと顕著になっていくのだが、ここからはギンガレッド/リョウマ路線かハリケンレッド/椎名鷹介、そしてボウケンレッド/明石暁路線のいずれかになる。
しかももっと細分化された挙句にもっと中身がなくなっており、もはや風船のごとくふわふわと宙に浮いていて、一陣の風が吹けばあっさりと吹き飛んでしまって残らないのではと思うぐらいに軽い奴らだ。
10年代に入るといわゆる「スピリチュアル」「予祝」「セミナージプシー」「好きを仕事に」とアベノミクスの影響もあったのだろうが、やたら変な浮かれ方を世の中全体がしていた。
そんな世の中全体の浮ついた10年前の空気が私は非常に居心地悪かったのだが、そんな世相は当然戦隊シリーズのレッドにも影響を与えていたのだろう、あの時期やたらに「被共感型レッド」が流行っている。
今風にいう「なろう系」のはしりみたいなもので、ストイックに頑張るのも嫌だけど気持ちだけはあるから、それを肥大化させて最初から最強スキルで無双します、というのが多かった。
もはや「バカレッド」という概念すら吹き飛ぶくらいに軽くなっていたが、そんな中で最後のバカレッドといえるのが『手裏剣戦隊ニンニンジャー』のアカニンジャー/伊賀崎天晴である。
ファンからは「自分が脳筋であることを自覚しているから他のバカレッドとは違う」と言っていたが、私に言わせればそれは同時に「頭脳労働は苦手なので最初からやりません」という「逃げ」にしか思えない。
また、初期は特にそうだがいかに自分が主役として目立ち他を引き立て役にするかしか考えていない浅ましいDQNの思考そのもので行動していたので、余計に不快感が増したのが正直な印象である。
まああれは下山健人なりにバカレッドをカリカチュアしたつもりなのだろうが、なるほどそう考えると「バカレッド」とはすなわち「DQNレッド」と言ってもいいのかもしれない。
何が言いたいかというと「非常識」「短所と向き合わない」「根っこが幼稚」「自分=主役で周囲=引き立て役」「難しいことを周囲に押し付ける」「他責思考」「自己主張の塊」みたいな「嫌なやつ」のイメージそのもの。
ここまで細分化して改めて私がなぜバカレッドが嫌いかがわかった、それは結局「うまくいかないやつ」の思考をそのまま体現した存在であり、それがまるで「理想」であるかのごとく描かれていたからだ。
しかし、そんな「中身のなさ」が許容されていたのも10年代まで、ここからは真に知性があって先をきちんと見据えて行動している人じゃないと生き残れないし、それは戦隊レッドもそうだろう。
思えば2020年代の戦隊はワーストこそ更新していて微妙な作品ばっかだが、いわゆる「バカレッド」を一人も見ていないのは、もはや勢いさえあれば許される時代じゃないからなのだ。
まあとはいえ、いわゆる次世代のニュースタンダード像といえるまでの作品並びに戦隊レッドはまだ登場していると言えないのだがね。
バカが野放図にされている時代は間違いなく終わった、だからもうバカレッドは今後余程のことがない限りは誕生しないだろう。