「プレッシャー世代=最後の昭和世代」の私が思うZ世代の”昭和礼賛”への違和感
最近、すっかりZ世代dis、もっと言えば「ゆとり以降の世代dis」の記事ばかり書いている私だが、だからといって決して手放しで私より上のバブル世代〜氷河期世代を賞賛しているわけではない。
むしろ私は「最後の昭和世代」として、そのいい部分も悪い部分も体感してきた世代だから、昭和世代の「いいところ」も「悪いところ」も両方味わっているわけだ(理屈ではなく感覚として)。
だから、私ははっきり言ってZ世代の多くが一周回って「昭和」をさも「美しい理想郷」かの如く、それこそ新興宗教の如く「伝説」として崇め奉っている感はどこか居心地悪いというか違和感しかない。
なぜこんな話をするかというと、私が直に絡んだことのあるZ世代のサブカルファンの人たちが一様に戦隊シリーズをはじめ、過去の名作をまるで原体験世代が如く高評価しているのが気になったからである。
それこそ、以前にある方と漫画版『ゲッターロボ』の解釈論争で揉めたことがあったが、私が漫画版ゲッターチームを「戦闘狂」と述べたことに我慢できなかったらしく猛批判していた。
その方はどの世代の方かは存じ上げないので間違っていたら申し訳ないのだが、少なくとも石川賢が原作を務める漫画版と上原正三がメインライターを担当する東映アニメ版も根本的には「イカれた3人組」としか思ってない。
それはいわゆるOVA版の「意図的に計算された解釈違いの狂気」とは本質的に異なる、もっと根深い「ナチュラルボーンマッドヒーロー」としか言いようがないものである。
それこそ、私よりも上の世代と思しき戦隊マニアのGMS氏が『ジャッカー電撃隊』の感想文にてこのようなことを書いていた。
実際これ、間違ってないでしょ?(苦笑)
少なくとも、今のZ世代が原体験世代でもなくその本質をろくに分かってもいないのに、やたら昭和世代の戦隊やロボアニメを諸手挙げて褒めちぎるよりは遥かに正しい忖度のない、それでいて戦隊愛の窺える評だと思う。
私はぶっちゃけ根本的に「冷め切っている」Z世代がさも分かったふりして頭でっかちな理屈を振り翳して盲目的に褒めるよりは、昭和世代の人たちが愛とリスペクトを持って貶してくれる方が遥かに信頼できる。
それを見ているからこそ私も思うこととして、昭和なんて根本的に「ごく普通に何かが狂っていた時代」なのであって、とてもじゃないが「三丁目の夕日」の山﨑監督みたいに「古き良き日本」なんて「美しき思い出」とは思えないのだ。
これと似たようなものをどこかで見かけたのだが、それこそ私がリスペクトしている(と同時に基地外だとも思う)蓮實重彦と金井美恵子の対談でそれに近いことが語られていた。
この雑誌で淀川長治の訃報を受けて、両氏は淀川氏が50年代のアメリカ映画は弱いし、溝口と黒澤、北野映画以外の日本映画には弱いのではないかということを語っている。
そしてその中で淀川氏が映画史を変えたゴダールを「映画史の戦犯」と評したことに関して蓮實は「合ってるでしょこれ。少なくとも今の若いのがよく分かりもしないのに「ゴダールは凄い」と持ち上げるよりも説得力がある」ということを語っていた。
誠に僭越ながら、このくだりを見て私は思わず「これだ!」と思ってしまった、Z世代が思い描いている「昭和」のイメージもこれに近いものではないだろうかという風に私は思ったのである。
要するに、Z世代は「モノの価値を本質的に分かっていない癖に分かったふりをする=賢者ぶっている」ところが昔から腹立たしくて仕方なかったのだと思い至った。
こうした「世代の違いによって理解できないもの」は存在するというのは、縁あって私が約8年ほど関わらせていただいていたラスカルにしお先生が『機動戦士ガンダム』評で語られている通りだ。
実際、「ガンダム」の原体験世代ではない私は「客観的には」ガンダムが凄い作品であることはわかるが「主観的には」凄い作品だとはわからないし、今でも本当にS(傑作)の評価を与えていいものかどうか迷っている。
そういう「綺麗事ではない汚い部分」を感覚的に肌で感じて分かっていないくせに、というか分かろうとしないくせに、いかにも上辺だけで「分かった気になっている」Z世代の昭和評はいかにも「群盲象を撫でる」ようで些か居心地が悪い。
ぶっちゃけ「ウルトラマン」しかり「仮面ライダー」然り、私から見た昭和のヒーローなんてロボアニメだろうが戦隊だろうが根本「狂っている=常人では考えられない思考・感性を持っている」からできたことだと思う。
まあ別にヒーローに限らないのだが、世にいう「成功者」と呼ばれる人たちはほとんどがどこかで「常人では考えられない狂ったことを当たり前だと思い実行している」からこそ「成功者」たり得るのだ。
だから、私が「戦闘狂」と評することは決してdisでも何でもなく、むしろ忖度なしにありのままを事実ベースで見て評価するならばそれ以外に言葉として形容しようがないという最大限の褒め言葉である。
逆にいうと、それ以外の言葉で評することはむしろ失礼に当たると思うし、いわゆる「愛」だの「正義」だのといった「綺麗事」は所詮それらを綺麗にラッピングして見せるだけの後付けではなかろうか。
正しい間違いは別として、私たちプレッシャー世代は良くも悪くも「狭間の世代」だからこそ、昭和・平成・令和の全ての時代において数学でいう「部分集合」で見てしまうところがある。
例えば「昭和のここはいいがここはだめ」という「部分肯定と部分否定」を内観として繰り返しつつ、だったら自分たちはいかにして中道を行くかということを考えてきた世代だ。
確かにここ最近Z世代の批判が目立つしこの記事もそういうものにはなっているが、だからと言ってZ世代の全てを否定しているというわけでもない。
彼らの根底にある「めんどくさいことやりたくない」「人間関係が煩わしいのは嫌だ」という価値観は一理あると思うところはあるし、なんだかんだ物事を解像度高く見る力はプレッシャー世代やゆとり世代より上だと思うのだ。
それでも、昭和についても平成についても上辺だけで直接にその時代を原体験として過ごしてきたわけでもないのに分かったふりして礼賛している様は見ていて非常に気持ち悪い。
そういうところが以前に述べた「叱ってもらえない」という部分ともある意味繋がっているのかもしれない、昭和や平成の「不都合な負の側面」を体験せずに避けて生きてきたのだから。
生まれた時からデジタルに囲まれて何不自由なく暮らしていけた、バブル崩壊やテロ事件、リーマンショックですら「対岸の火事」として生きてきたのがZ世代なのだ。
そりゃあ先人の苦労なんか知る由もなく、それにも関わらず残した成果物の上澄みだけはしっかりと吸って生きているのだから羨まし……くはならないな(笑)
都合のいい部分だけを取って苦労を知らない人間になるのだったら、叱られてでもいいからちゃんと痛みを味わって成長・進化をできる人間でいたい。