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期待されない50代・瀬戸際の40代・仮想現実に生きる30代・親の脛齧りの20代・創造性が求められる10代
『ドラゴン桜』のドラマ版の方だが、龍山高校の説明会で矢島と水野が親子連れを見た印象を桜木弁護士から聞かれて、こう答えている。
矢島「親ばっか真剣で、子供はみんな退屈そうだな」
桜木「なぜだ?」
矢島「みんなどこの高校入っても一緒だと思ってんだよ」
桜木「なぜだ?」
水野「まだ自分の人生に真剣じゃないから」
桜木「じゃあなんで自分の人生に真剣じゃねえんだ?」
水野「多分、実感が湧かないからだと思うな」
桜木「何の実感だ?」
水野「「いつか親が守ってくれなくなる」っていう実感。親が真剣に考えてくれてるから、自分は真剣に考えなくていい。困ったことがあったらきっと親が助けてくれるから心配しなくていい。みんなきっと心のどこかで、そんな風に甘えてるんじゃないかな」
実際、SNSを見るとゆとり世代以降はこの傾向が露骨に顕在化しているのだが、特にZ世代と呼ばれる90年代末〜00年代初頭に生まれた子たちは余計にこの傾向が酷くなっている。
こちらを見て欲しい。
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これがどうやらZ世代と呼ばれる、これから日本の将来を背負う若者の働きたい会社とのことだが、これも結局のところは「親の脛齧り」思考がとんでもないほど伝わってくるだろう。
実際、私がかつて絡んだことがあるZ世代の特撮・アニメ・漫画のファンたちはみんなそういう子ばかりで、彼らの紡ぎ出す言葉・思考・行動がほぼ全て「親の脛齧り」が根底にある。
学生ないし社会人なのに恐ろしいほどに物を知らない、本を読まない、勉強しないで漫然と自分の好きなものだけを見てイタズラに時間と労力を費やすだけの日々。
そんな彼らが口では平然と「ヒュウガ・クロサキみたいになりたい」「ヒュウガ・クロサキを追い越したい」と心底思ってすらもないことを言う姿に辟易していた。
それも今更になって思うのではなく、スペースで彼らと出会って彼らの話を聞いてやり取りした第一印象からずっとである。
その中の一人が私が書いた『地球戦隊ファイブマン』の記事に関してこんな呟きを投稿していた。
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あまりの認識・温度感の違いに呆れる他はないが、どんな自意識過剰のナルシストでもこんな勘違いをする人は世の中なかなかいないのではなかろうか。
これに対する私の所感はこれしかない。
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私が「ファイブマン」のシドンの花に関してこのようなことを書いたのはたまたまタイミングが被っただけであって、こんなXの低レイヤーに対する逆張りとして書いたわけではない。
そもそもメガボイジャーの記事を書いた時から私は一貫して「考え方」=脳のOSと「力」の関係を述べてきたわけであり、その視点から考えればシドンの花が何だったのか?の定義を問い直すのは必然だろう。
当人はこれに関して星川夫妻→星川兄弟→学校の教え子という「愛の連鎖」の方が大事だと述べているが、そんなのは所詮こいつが作品を見たお粗末な感性と少ない経験値の中から決めつけた印象論に過ぎず中身がない。
だったらその「愛の連鎖」とは何なのか?を厳しく問い詰めていくと定量化できずにボロを出すし、そもそも「愛」「平等」「自由」「人間性」「個性の尊重」といった耳障りのいい言葉は薄寒過ぎて吐き気を催す。
そんな曖昧な主観の話ではなく、具体的な事実から定義や定量化が可能な客観の話をこちらはしたくて書いたのであって、それを曲解して自分にクソデカ感情を向けられてると勘違いする救いようのない衆愚の典型だ。
こういう人はいわゆるアイドルやアーティストのライブを見に行って自分にファンサービスしてくれただけなのを「自分に意識を向けてくれた」などと一方的に舞い上がっている頭のおかしいファンと大差はない。
だが、この人のそれ以上に恐ろしいところは自分の人生に対して真剣じゃないところであり、調べてみたところ、どうやら来年の頭には大学卒業するらしいのだが、働く意欲が全く湧かないらしい。
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働きたくないというのであれば大いに結構、しかし労働が嫌なら嫌で1から投資や資産形成を学んで6%の仲間入りを果たそうという気概すらもないのである。
以前にも述べたが、自分の人生に真剣ではない親の脛齧り精神で生きてきたデジタルネイティブのZ世代の思考が根底にある発言を平気でしているのだ。
これが冗談であろうが本音であろうが、どちらにしても自らが発する言葉選びをきちんとできない時点で94%のone of them(その他大勢の一人)であるのは言うまでもない。
もっとも、これはこいつだけに特有のものではなく、Z世代、もっといえば「ゆとり世代」と呼ばれる「親が甘やかしている世代」に育った子たちの大半がこうなのだろう。
小さい頃からデジタルに囲まれて育ち、小学生や中学生の頃からパソコンや携帯電話に当たり前に触れて当たり前にYouTubeを見てそれをプラットフォームとして育ってきた。
そのおかげでキャッチアップは昔より速くなり合理化された思考・言動・行動を小さい頃から身につけている反面、自分で頑張って努力して何かを獲得する修練を積んできていない。
本当に、苦労しても報われない日々を過ごしてきた氷河期世代とその氷河期世代の背中を見て育ってきたプレッシャー世代とは埋め難い大きな溝があるのではないだろうか。
しかし、そんな氷河期世代とプレッシャー世代ももう人生の瀬戸際と呼ばれるところに差し掛かっている。
この記事では「期待されない50代」「瀬戸際の40代」とあるが、それ以後を続けるなら差し詰め「仮想現実に生きる30代」「親の脛齧りの20代」「創造性が求められる10代」だろうか。
それぞれを「期待されない氷河期世代」「瀬戸際のプレッシャー世代」「仮想現実に生きるゆとり世代」「親の脛齧りのZ世代」「創造性が求められるα世代」と置き換えてもいい。
これから会社員にとってはきつい時代に突入する、物事の本質を見抜いた上で上位6%に入ろうとしない者は容赦無くAIによって淘汰される未来が待ち受けている。
そんな中で「自分には関係ないから」と無関心を貫こうとすればどうなるか、それはもうコロナウイルス以前からすでに始まっている問いかけなのだから。
コロナウイルスが始まる3年前の2017年の段階から「2040年までにはAIの台頭によって今ある仕事の8割はなくなる」ということが識者の間では言われている。
昔は10年かかって行っていたことが今ではAI使ってたった3日で出来てしまうのであり、悠長に構えていたらあっという間にお終いなのだ。
あらゆる単純労働作業はAIに置き換えられている、飲食業界ですら今ホールスタッフが必要なくなりロボットが料理を運んできてくれる。
私自身も派遣で働いて知ったことだが、特に工業地帯にある大手の倉庫はもはや現金使用不可能のキャッシュレスな支払いの仕組みが出来ているほどだ。
だから、既存の価値観・思考・ルールはもはや通用しなくなり、未曾有の危機の中で高度な立ち居振る舞いを身につけていく必要がある。
一流の考え方を学んで脳のOSを書き換え、今までの自分のやり方を捨ててでもそちらに行かなければ、ここから先は生き残っていけない。
そういう思考・言動・行動をするようになってから、私自身の思考も感情もあらゆるものがクリアとなり、最適化された現実が現れるようになってきたし運気も向いてきている。
「負けない」note術もその一環として発信しているものであり、私は私の目的・目標の元に必要な戦略・戦術を組んで行動を取っているだけだ。
だから、私が発信している文章をどのように解釈しようがそれはその人の自由、私自身は強制をしていないので反発するも共感するも、勘違いするも全てその人次第である。
全ては日々の思考・言葉遣い・行動が必要な現実を作り出す、だから上位6%に入るためにはその根幹から書き換えて自分を最適化していくことが肝要だ。