「3年B組金八先生」第6シリーズで露呈した「学園ドラマ」と「教育ドキュメンタリー」の両立の限界
金八先生というシリーズを語る時、本作程単品での評価が難しい作品もないだろう、というのも本作は明らかな「第5シリーズ・パート2」というニュアンスが出た作品だからである。
本作を語る時に「名作だけれど歴代最高ではない」という評価になってしまうのは前作の圧倒的な完成度の高さがあるからだが、それ以上にやはり前作のキャラに多くを依存しすぎていたのも問題だ。
この点他の第1シリーズ・第2シリーズ・第3シリーズ・第4シリーズ・第5シリーズ・第7シリーズ・第8シリーズは完成度に差はあれどそれぞれが単品で他のシリーズに依存せず独立したシリーズとして見られる。
だが、第6シリーズだけはそこが他と違っていて、少なくとも前半は物語の尺の半分近くを前作の健次郎たちと幸作の闘病記友情物語が締めてしまい、肝心の鶴本直たちの物語が圧迫し霞んでしまった。
幸作の闘病記がひと段落してやっと6の生徒たちにスポットが当たるようになった後半に至っては、金八先生が取り組むべき課題や乗り越える試練が個人の力量を超えるものになってしまう。
成迫政則が抱える報道と人権、鶴本直が抱える性同一性障害、更に他の生徒も出会い系サイトの闇や想像妊娠、薬物問題、そして「金八アンチ」のカリカチュアとして出てくる毬栗頭の千田校長。
味方と言える味方が同僚となる先生たちと第5シリーズの健次郎たちしかいない中で次々と降りかかってくる難題に必死こいて取り組む金八先生の姿はもはや見ていて可哀相になってくる。
武田鉄矢はこの第6シリーズを「もうスペシウム光線を打っても効かない老化したウルトラマン」「独特の乗り切り方をするシリーズ」と評していたが、言い得て妙である。
本作はそういう意味で脚本・演出をはじめいろんな点で良し悪しというか賛否両論なシリーズだが、その中でも私は「学園ドラマ」と「教育ドキュメンタリー」の両立の限界について語ってみたい。
世代の特徴はないが、時代性に負う社会的な問題は多かったシリーズ
本作においては前作に見られたような「プレッシャー世代の内面から迸る狂気」のような世代の特徴はそこまで描かれていない、前作の健次郎でそのテーマについては描き切ったからである。
もちろん本作においても今井儀やミッチーのような内面に狂気を孕んだ生徒は出てくるが、これもあくまで健次郎が持っていた「悪」を分散させて描いているに過ぎない。
またそれは成迫政則や鶴本直に関しても同じであり、政則は後半の健次郎が見せていた「哀愁」の部分、そして鶴本直は健次郎のミステリアスさに桜田友子の男前ぶりをハイブリッドしたキャラだ。
更に江藤直美が持っていた芯が強い不登校キャラも前作の篤の発展型という感じで、生徒のキャラ付けや構成に関してはほとんどが前作パート5に寄せた作りになっている。
わざわざここまで前作のテイストに寄せる必要があったのか首を傾げたが、しかし本作は敢えて前作に酷似した構成にすることで社会的な問題を多く扱うことを可能にしたのだ。
中でも問題となったのが報道と人権、そして性同一性障害と学園ドラマの中で扱うにはあまりにも遠大なテーマであり、最初に見た時は「おいおい正気か?」なんて思ってしまった。
しかもそこに息子である幸作の白血病治療……金八先生以外だったら胃に穴が開きそうなストレスフルの展開だが、同時に本作は「脱・学園ドラマ」を目指そうとしたのではないだろうか。
前作第5シリーズで完成を迎えた平成金八の文法に加えて更なる「社会」との繋がり……それこそが前作までの金八シリーズに今一つ足りていなかったものだといえる。
確かに金八シリーズは第1シリーズからして「十五歳の母」という重たい問題を扱っていたし時代毎の教育の問題は扱っていたが、それらはあくまで「学校」と「家庭」という卑近なコミュニティで完結していた。
しかし、第5シリーズまで終えた時、おそらくはもう1つ教育の問題が決して学校や家庭の中だけではなく「社会」にもあり、いつかはそれとも真正面から向き合うシリーズを作らなければならない。
そう、本作の真の敵は「家庭」でも「学校」でもなく「社会」であり、直と政則をはじめ教育現場や家庭で起きている問題の背景に「社会」との繋がりでこうなっていることが本作では示される。
だからこそ、その「社会」に関する問題は金八先生だけで解決できる問題ではなく、第5シリーズで活躍した健次郎たちだけではなく乾先生たち他の教師の力も借りることとなったのだ。
思えば直と政則が抱えていた問題は2001年当時でも社会的テーマとして扱う作品はあったし、またこのシリーズが始まる前には9.11(アメリカ同時多発テロ事件)も起こっていた。
そのような「見えない悪意」という複雑なものが社会を覆い尽くす時代になっていくと、もはや金八先生も理想論を言っていられず現実に膝を屈して負けそうな展開が多くなってくる。
本作はその点で言えば実質のシリーズ完結作であり、最後に金八先生が桜中学を去っていくという終わり方を見ても本シリーズまでで小山内先生はシリーズを終わりにしたかったのだろう。
第5シリーズまでの蓄積を踏まえて、本作は更にそこから「社会派」としての「教育ドキュメンタリー」へ少しでも近づけていこうという意欲があったことが構成全体から伺える。
前作では描ききれなかった健次郎たちと幸作の友情
本シリーズの前半は冒頭でも書いたように「第5シリーズ・パート2」というニュアンスが露骨に出ており、健次郎やちはる、友子、ヒノケイ、ヒルマンなど前作の生徒があまりにも多く出ていた。
まあちはると健次郎は幸作との関わりが多いから仕方ないにしても他の生徒まで相当数出演しており、しかも最終回の卒業式にまで乱入してくるのだからどっちが物語の主役なのだかわからない。
ただ、これに関してはおそらく2001年の春に作られた後日談から「幸作・健次郎・ちはるの物語がきちんと描けていない」という問題点に小山内先生は気づいていたからだといえる。
この3人の関係性は紆余曲折あったと思うが、小山内先生が描いた中でも特別な思い入れがあったはずであり、それを幸作の闘病記という形で描くことで深めたかったのかもしれない。
というのも前作の幸作は元3Bの生徒だったのに諸事情で3Cに移ることになってしまい、家庭での出番は多かったが教室の授業シーンがほとんど受けられずに終わってしまったからだ。
また、幸作と健次郎の友情もまた終盤で芽生えたものであり、まだじっくり1つの信頼関係として描写の積み重ねができておらず、そこが心残りといえば心残りではあった。
それを本作できちんと描いて筋を通したことは高く評価したいし、特に健次郎は小山内先生や福澤Dが特別に意識せずとも動いてくれる、物語の推進力を担うキャラクターだということがわかる。
文化祭の出し物に困っていた時の3Bにソーラン節を提案したのも健次郎だったし、卒業式で金八先生が教育委員会に異動になることで揉めた時もやはり健次郎が駆けつけてくれたことは非常に大きい。
まあ悪くいえば、結局本作においてもまた健次郎がほぼ無双状態になってしまうのだが、この時の健次郎は幸作が前作で自分を見捨てず寄り添ってくれたことの恩返しをするシリーズにもなったといえる。
幸作が本作においては徹底したヒロインとして描かれていたからこそ、健次郎とちはるが幸作を救うヒーローとなったわけだが、この3人の友情物語がきちんと1つの結実を迎えたのもよかったのではないだろうか。
ただ、この前作のキャラに依存した作りは私のような第5シリーズファンはともかく、本作からファンになったという初見の方々にとっては疎ましいという意見も少なからずあったと記憶している。
健次郎があまりにもカリスマ的存在になりすぎていて、せっかく尺が割かれるはずだった今作の生徒たちの描写が少なくなり、本シリーズにて描くべきテーマが消化不良気味に終わったという不満もあった。
そして何より前作の子たちの友情物語を描くのは構わないけれど、年明けの12話「友情の証」で坊主になった幸作のために男子の半分以上とサオリが坊主頭にした時は私だけでなく誰もがドン引きした。
しかもそれを直たち現役の3Bに見せつけて「凄い」「カッコいいです」なんて賞賛させている様は感動を通り越して気持ち悪く、何だかファシズムに近いものを感じてしまって怖い。
あの集団坊主に関しては小山内先生よりもむしろ福澤Dの意向の方が強く反映されているように思える、あの人は慶應大学のラグビー部出身だったからそういう体育会系の全体主義を好む演出が多いし。
それに、健次郎といえば特定のBGMを使って演出しておけばいいという安易さも目立ち、彼に限らないが後半はBGMや音楽の使い方がワンパターン化してしまうという問題も起こっている。
それぞれの「アイデンティティー」と向き合った後半
後半に入ると幸作の闘病記がひと段落してようやく現3Bの描写が中心になってくるのだが、直と政則を中心に後半のテーマになっていたのは「アイデンティティー」、すなわち「自分は何者か?」である。
直は体が女でありながら性自認が男であることに苦しんでいたし、政則も父親絡みのことでずっと転校ばかりを繰り返させられ居場所を探していたという意味で直と同じく自分の存在意義に揺れていた。
またそれは兄が薬物をやっていた為に荒れていた今井、また直とは逆のオカマじみたミッチー、そして本作の狂言回しである信太も同じように抱えていた悩みだったのではないだろうか。
その「アイデンティティー」と向き合うことこそが金八先生というドラマの神髄であるということが直たちを通して示され、また金八先生にもフィードバックされる形になっている。
金八先生もまたいわゆる「アンチ金八先生」のカリカチュアにしてメタファーとして出てくる嫌味な現実主義者の千田校長と自分の教育理念との間で葛藤し、また生徒たちが抱える問題で苦悩していた。
これが第7シリーズになると遂に金八がしゅうのことで自分を責めてしまい教師を辞めそうになるのだが、その予兆は既にこのシリーズの後半で見え隠れしていたといえる。
だが本シリーズにおいて金八先生が潰れそうになるのとは対照的に人間性を変化させた人物がいるのだが、それこそがデイケアセンターの小倉さんと結婚した乾先生だ。
乾先生と小倉さんの関係性自体は第5シリーズ終盤からなのだが、その関係性が奥さんの出産で1つの山場を乗り越え、人間的に一回り大きく成長して金八先生を支えられる存在となっていた。
これは金八先生のライバルとして競い合い、しかし奥底でリスペクトしている乾先生でなければ出てこなかったセリフではないだろうか。少なくとも国井教頭には無理だったと思う。
第1シリーズでは徹底したクールでぶっきらぼうな乾先生が奥さんを持ち家庭を持つことで人間味が増したことで頼れるNo.2というか副将のような立ち位置へと確変したのである。
金八先生が引っ張っていたところから力関係が逆転し、金八先生がダメだったときにはきちんと諌めつつしっかり金八先生を立たせる存在となったのは大きいのではないだろうか。
しかも決して唐突にこのようなキャラクターになったのではなく、第4シリーズから徐々に丸くなって第5シリーズの後半から金八先生側へと歩み寄る過程がしっかり描かれていた。
今作では3Bが抱える問題に対して金八先生だけではなく学校全体が一丸となって取り組み、第1シリーズの愛の授業以来スクラムを組んでの壮絶な展開へと発展する。
そうしていく中で政則も直もようやく3Bの中で自分の立ち位置や存在意義を見出し、一緒に卒業するという道を選んだわけだが、この展開が非常に丁寧に描かれていた。
勿論性同一性障害にしても報道と人権にしてもこの段階で解決できる問題ではないのだが、少なくとも自分の足で立って歩く決意をさせるための足場は作ったのである。
そしてそれは振り返れば健次郎も同じだったわけであり、だからこそあの最終回の卒業式は歴代のシリーズのいずれとも異なる集大成の意味合いが強かったのではないだろうか。
「主役」はいても「主人公」が最後まで不在だったシリーズ
さて、ここまでは問題点もありつつ幾分肯定的に語ってきたが、この金八第6シリーズを私なりにまとめると「「主役」はいても「主人公」が最後まで不在だったシリーズ」となった。
これは本作が前作までを踏まえてより「群像劇」というスタイルを取っているからだが、主役となる生徒を多く増やした分かえって物語としてのまとまりがなく散漫になったともいえる。
ここが前作第5シリーズと比較した時に本作がどうしても劣ってしまうところであるし、本作を単独で評価した時に最高傑作という評価を下せない理由だ。
誰もが主人公であるともいえるが、誰もが脇役であるともいえるシリーズであり、戦隊シリーズでいえば「侍戦隊シンケンジャー」などに近い構造かもしれない。
改めて第5シリーズと比較してみると、第5シリーズは明確に「金八先生VS兼末健次郎」という物語の核があり、それを背骨として物語に必要最小限の枝葉のみをつけて展開した。
だからネタとしては多少の物足りなさや駆け足気味の展開などは目立ちつつも「兼末健次郎の救済物語」として描けたし、健次郎が単なる「主役」から「主人公」にまでなり得たのである。
ここまで金八先生が1人の生徒としっかり真正面から向き合ったシリーズは他になかったから、他の生徒がやや没個性気味であっても健次という個人を徹底的に掘り下げることを選んだ。
それが物語としての強度を高めたし、またその健次郎の多面性を演じられるだけの技量とセンスを持った風間俊介という役者が大きく跳ねるきっかけになったのではないだろうか。
この点第6シリーズはというと、第5シリーズにおける健次郎のように物語の推進力となり引っ張るだけの技量とセンスを持った役者が不在だったことが大きく影響している。
ハセケンこと加藤シゲアキなんて大根演技だし、増田貴久や東新良和にしても前作の風間俊介程の力量はなく、上戸彩にしたって演技力のなさを演出や役柄の無愛想さでごまかしていた。
それどころか卒業式の時にまでまとまりが悪く、本作は生徒たちのキャラ付けや人間関係にバリエーションこそ増えたが、かえって縦の部分の団結力が薄れてしまった気がする。
更にそこに「社会」の問題として向き合わないといけないというハードルの高さまで入るため、シリーズとして破綻寸前の情報量を詰め込んでいた。
本作はなんとかうまくまとまったものの、「学園ドラマ」と「教育ドキュメンタリー」の両立の限界という問題点もまた露呈してしまったのである。
学園ドラマという領域を超越しようとした結果、むしろ散漫になってしまいいまいち完成度が高くないというトレードオフのような関係がここで見えた。
そのため、次作第7シリーズでは第5シリーズに近い作りに戻すわけだが、今度は小山内先生と福澤Dをはじめとするスタッフ間の確執や路線変更が表面化する。
本作はその意味で金八シリーズの限界という限界に挑み、破綻寸前のところでギリギリ踏みとどまったシリーズだったのではないだろうか。