見出し画像

ゴテンクス→バカレッド→白痴悟空(超)→炭治郎→異世界転生レッド→遠野吠に見る「一億総白痴化」の具現化

今日仕事で久々に苛立ちを覚えたというか、所詮は携帯ショップの販売員なんてこんな程度の知性かと憤ったのだが、同時にハッと気付かされたところがあるので少々。
これはもうここ数年ずっと思っていることだが、日本人の国語力・読解力が軒並み下がっている理由が何だかこの一件から見えてきた気がするのだ。
社外秘でもあるため詳細は伏せるしあまり仕事の愚痴を書きたくはないのだが、人様の時間を奪って効率を下げていることに気づかない他責思考のアホと最後に鉢合わせしてしまった。

私が今勤めているところは基本的にどんな案件でも3〜5分以内に終話して効率を大事にしているのだが、それを個人的感情で平気で破ろうとする人と最後に出会した
言っていることはわからなくもないが、なぜこちらがわざわざたかが1件のためだけに10〜20分も無駄な時間とエネルギーを費やすことになるのだろうか。
これは決して個人的感情で言っているのではない、全体の効率を考えた時に、1件にかかる時間が長いとそれだけで無駄なコミュニケーションコストが嵩む
そのコミュニケーションコストが全体の効率も下げてしまうこと、そして自分が無意識に感情基準で他者のせいにしていることに気づいていない。

向こうの言い分としては「なぜわざわざこの窓口で引き受けてくれることを、一回終話して再度問い直さなければならないのか?」ということだ。
答えは簡単、「こっちの時間と効率が下がって損失が生まれるから掛け直せ」な訳だが、向こうはそんなこっちの事情なんかお構いなしである。
まあその他大勢の中の一人に目くじら立ててもしょうがないのだが、そもそも人様の時間とエネルギーを無駄に奪う行為だという自覚がないのが恐ろしい。

しかし、よくよく考えるとこれ、今のSNS界隈で跳梁跋扈している他責思考のZ世代以降の情弱共と大差ない。

以前も書いたことだが、国語ドリルの重要性を夜の世界の人間に説かれているようでは、全国の小中高で教えている国語教師の名折れというものではないか。
SNSで「批判」と「誹謗中傷」の差もわからずに醜い相手への罵倒を落書きのように書き散らし、「議論」ではなく「レスバ」しかしていない雑兵共が南京虫やゴキブリの如く増殖している現実にどう思うのか?
昨日、黒羽翔さんと久々に電話して思ったことだが、そもそも「話を聞く」「行間を読む」「素直に実行する」の意味を根本的に履き違えているバカが多すぎる
それこそ、昨日「ゴテンクス」現象と書いたが、その「ゴテンクス」から更にひどくなったのが『ドラゴンボール超』の白痴な孫悟空だ。

私がなぜ「超」の孫悟空が嫌いなのかはドラゴンボール原作大好き勢のBixがこの動画で説明してくれている通りである。

この動画で解説しているように、原作の悟空と「GT」「超」における悟空の違いはやはり「立体的な知性・思考力」の有無にあるだろう。
どこかの誰かさんは原作の悟空を「戦闘狂としてもヒーローとしても中途半端」とした上で、「一番好きなのが「超」の伸び伸びやってる悟空」らしい。
この意見を見た時は開いた口が塞がらなかった、戦いの天才で合理主義な側面もある原作の悟空から思慮深さや格好良さが抜けて、バカレッドもビックリの知性の低い白痴のどこがいいのか?
しかし、逆にいうと、今の若い人たちにとっては『ドラゴンボール』の孫悟空はとにかくバカレッド並のアホであってほしいという「レッテル貼り」しかしていないのだろう。

その「超」の孫悟空は逆にいうとそれを好きでいる今の若者の象徴と考えると納得で、要するに自分が言葉にしたこと以外は何もわからない白痴揃いである。
そしてなぜかそんな連中に限って昭和時代の名作・傑作と呼ばれた作品を過度なまでに持ち上げ憧れを軽々しくわかったふりして口にするから余計に「こいつらは雑魚」と本物からは見抜かれてしまう。
ぶっちゃけZ世代より下の奴らと話すくらいなら、まだ知識も経験も豊富で面白い時代を生きてきた昭和世代の人たちから生の体験や感想を聞く方がよっぽど教養として面白い
何が違うのかというと、昔の人たちは決して「勉強ができる」人たちではなかったかもしれないが、とにかく「物をわかっている」し「大人の会話ができる」のだ

これがおそらくはデジタルネイティブの薄っぺらい連中と違うところで、若い人たちの意見を見聞きすると国語力・読解力の何たるかを全くわかっていないことがすぐにわかってしまう
そういう人たちの書いてる文章・文体・語彙を見ると、普段彼らは人の話を全く聞いてない、ヒアリングの重要性がまるでわからないのだろうなと思えてならない。
そもそも「話を聞く」こと、「行間を読む」こと、そしてそれを「素直に実行する」ことは決してロボットになって「鵜呑みにする」ことではないのだ。
「話を聞く=行間を読む」こととはすなわち相手側が話していることの前後の文脈・言葉の背景・会話のゴールから逆算的かつ立体的に考察して最適解を導き出すことである。

つまり、全盛期の鳥山明が描いていた原作の孫悟空は根っこは少年でありながらも、大局を見据えてどこか「悟った人」として描かれていて、多くを語らずとも背中で語るカッコ良さがあった。
悟空だけではない、ベジータも孫悟飯もピッコロもかっこいい奴らばかりだったし、表面からだけでは決してわからない魅力がたくさん詰まった『ドラゴンボール』を私は愛している。
しかし、それを今の若い人たちは愛もリスペクトもなくまるでゴテンクス・バカレッド・白痴悟空(超)のように「ドラゴボ」とか雑に略して、幼稚園児もビックリな出鱈目な意見を出す
感情基準で自分の解釈を入れまくりで、物事の表面の裏側をきちんと正しく見抜く思考力・読解力、またそれをアウトプットする際の語彙力や表現力もきちんと磨いていない。

だから語る言葉に厚みも深みもなければ、知性も品性も教養も学も感じさせないし、結果として相手のエネルギーと時間を無駄に奪っていることに対する自覚すらない
私がなぜSNSを全く見向きもしなくなったか、それは簡単なことであり、「朱に交われば赤くなる」「悪貨は良貨を駆逐する」からに他ならない。
これからの時代、競争社会は間違いなく激化していってそのレートもレイヤーも上がる、しかも戦う相手はAIと世界だから尚更過酷である。
AIがたちどころに台頭すれば受動的なロボットでもできる作業は全て取って代わられ、人間がAIに勝てるポイントは「考え方=脳のOS」になるのだ

だから、自分が今相手の時間とエネルギーを無意識に奪っていないか、感情基準で動いていないか、気配り・気遣い・気働き・信用・信頼がきちんとあるか。
確認・相談・連絡・報告がきちんとできるか、やらない自分を言い訳にしていないか、無駄な時間の使い方をしていないか、付き合う人は決められているか。
人様から教えてもらったことをただコピペするだけなら猿でもできる、我々は決して伝言ゲームをやっているわけではないのだから、常に試行錯誤し続け歩みを止めてはならない
そこで話を最初に戻すと、無意にこちらの時間とエネルギーを奪って全体の効率を下げてしまうことをしてしまったその人はそういう読解力がまるでないのである。

そう考えると、ゴテンクス→バカレッド→白痴悟空(超)→異世界転生レッドが妙な繋がり方をしていて、思わずゾッとするとともに乾いた笑いが浮かぶ。
そう、時代が下るにしたがって知的体幹、すなわち根幹の考え方がしっかりできていない(ことが簡単に見抜けてしまうような)魅力の薄い人物ばかりだ。
そういえば『鬼滅の刃』の炭治郎もそう、のべつ幕なし自分の思いをベラベラと言語化する割には行動と思考が全くそれに一致していない
底の浅いテンプレ化した薄っぺらい思想()とやらを喚き散らしているだけで、そこに至るまでのプロセスは思考の変化、試練もないからただのハリボテにしか見えない

「ゴジュウジャー」の遠野吠もただのハリボテで、「非常識」と「アウトロー」を履き違えた田舎のヤンキー風情(格下相手には出しゃばるが格上には及び腰)なのだ。
そしてそんなものを有り難がって群がっている知性の低下した戦隊オタクの浅ましさよ……ジャンクフードを高級品みたく有り難がってる様は異常である
本当、いつからこんな情けない国に成り下がったのかは知らないが、今のうちにAIに淘汰されないよう徳を磨いておいた方がいい。

小津映画『お早う』はそう考えるとすごい、テレビによって「一億総白痴化」が起こるということをすでに映画の中で予見していたのだから。
今こそこの映画を見て、テレビ→ネットの普及で白痴化した現代日本の為体(ていたらく)を思い知るべきである。

いいなと思ったら応援しよう!