スーパー戦隊において「団結」とは果たして「本質」なのか?
スーパー戦隊シリーズを見ていると、仮面ライダーやウルトラマンとの差別化として「団結」がさも本質であるかの如くに語られることが多い。
実際、私自身かつてはそう思って見ていたし、どこかで「チームが一丸となって巨大な悪を討つ」ことが全てだと思い込んでるファンは後を絶たない。
しかし、結局のところそれは人間という生き物が本質的には「孤独」であることの裏返しなのではないか?
『激走戦隊カーレンジャー』の終盤で今でもファンから擦り倒される迷言ともなっているセリフがある。
第46話「突然失効!?変身パワー」でVRVファイターに分離して拡散する様を見て思わずボーゾックが漏らしたセリフだ。
これは言うまでもなく「戦隊シリーズは5人がかりで一人をやっつける弱いものいじめだ」というくだらない揶揄・茶化しに対する反駁であると同時に、祖先たる『秘密戦隊ゴレンジャー』の本歌取りでもあるだろう。
『秘密戦隊ゴレンジャー』ではOP・ED共に「五つの力を一つに合わせて」「力と技と団結の合図だ」とあるし、ナレーションでも初期は特に「5つの力を1つに合わせ、世界を守れゴレンジャー!」と謳われている。
要は「カーレンジャー」のこれは「ゴレンジャー」が打ち出した「戦隊の戦隊たる所以」に対する対偶であると同時に、パロディだからこそ打ち出せるスーパー戦隊の本質を浮き彫りにした。
とはいえ、果たして団結「だけ」がスーパー戦隊シリーズの本質なのかというと、決してそうではないことくらい熱心なファンであれば誰しもがわかるはずだ。
むしろ私は小さい頃から「和を以て貴しとなす」「友達100人できるかな?」が吐き気を催すほど大嫌いな人間だったし、それは今でも変わっていない。
それこそ、最近見直している冨樫義博の『HUNTER×HUNTER』ではプロハンターとして雇われることに対して、クラピカがこのように意見している。
言い得て妙であり、実際スーパー戦隊シリーズに限らないが、個のスキルが充実していなければ、どれだけの人数がチームを組んだところでそれは単なる役立たずの烏合の衆に過ぎない。
実際『鳥人戦隊ジェットマン』の前半はクラピカが言う通り生半可なチームプレーで何度潰れかけたかわからないし、実際竜をはじめ誰しもが劇中何度も疑心暗鬼に囚われて自滅しかけた。
また、現在配信中の「メガレンジャー」もそういう作品で、結局「等身大の正義」だとか宣っていつまでも学生気分が抜けきれず素人のままだから、38話であっさりネジレンジャーにやられるのではないか。
何度も述べているがメガレンジャーはあくまで「アバター」であり、健太たちは決して戦士として優れた判断力を持っているわけではなく、強大な組織の後ろ盾があるからこそなんとか戦えているだけだ。
最近職場が変わったからこそ特に強く思うことだが、生半可な精神で仲良くするくらいだったら徹底的に孤独に頑張ることを選ぶのが私のスタンスである。
仕事に限らず勉強でも遊びでもそうだが、一番大事なのはあくまで「目的・目標を達成する=結果を出す」ことであって「仲良くする」ことや「団結する」ことはあくまで手段でしかない。
そこをわかっていないと安易に「団結こそがスーパー戦隊の究極の美学」だという盲目から来る錯覚を起こすわけだし、そういう錯覚がどれだけの偏見と誤解を招いてきたことか。
逆にいえば、結果をきちんと出すことができなければ、「団結力」だとか「愛」とか「勇気」とか「一生懸命」とか言ったところで、所詮は付け焼き刃の綺麗事でしかない。
そういう意味では井上敏樹や小林靖子はやり方は偽悪的に過ぎるところは無視できないが、スーパー戦隊シリーズが持つ「本質」を見誤るとただの「ファシズム」でしかない危険性を知っているのだろう。
ファシズム(結束主義)は有効に機能すれば非常にいい成果を生み出すが、一歩間違えれば新興宗教の教祖を崇め奉る愚かな信者と大差ないことになりかねない。
どんなに立派に見える組織でも、個々の戦力と役割が充実していなければうまくいくわけがないし、逆にいえば「なぜ戦隊は戦隊なのか?」を読み解く鍵もそこにある。
「個性」だの「人間性」だのといった曖昧なものではなく、「何ができるのか?」という「役割」を先に考えた方が実はチーム結成は効率的だし上手くいく。
実際見てみろよ、昭和・平成の中で5人1組で大成功を収めた5人組の日本のグループなんてSMAPと嵐だけであり、彼らこそ理想のスーパー戦隊を具現化した象徴のような存在だろう。
違うというなら反例を挙げて見ればいい、単に5人組でうまく行っただけのグループなら他にいくらでもあるだろうが、そこから「国民的」と呼ばれる領域に行った5人組は少なくとも平成時代の日本にはいなかった。
あくまでも「個の充実」が先にあって「最強の和」が生まれるのであって、「最強の和」を生み出すために「個の充実」があるわけではない。
だから、私はスーパー戦隊が「団結」にこそあるなどと言われると「それは一面的な枝葉でしかない」という異論を唱えたくなる、何より私自身が結束主義としての集団ほど無意味なことを知っているから。
スーパー戦隊を考察するときに避けて通れないのは「同じ5人組でも成功を収められるグループとそうでないグループがいるのか?」を「時代の幸運」以外の要素から客観的に立証することだ。
それを説得的に論証できたとき、スーパー戦隊シリーズは真の意味で深く鋭い批評の領域に突入することができるだろう。