見出し画像

キャラクターに果たして「人間性」と呼べるものは必要なのか?『デジモンアドベンチャー』と『デジモンアドベンチャー:』の人物描写の違いと勧善懲悪の危険性

さて、今回はまたまたデジモンシリーズだが、YouTubeで無料配信されている無印とリメイクの「アドコロ」を改めて同時視聴する度に何故だか相対的に「アドコロ」への好感度が上がる
ところがネットの反応を調べてみると、デジモン専門家の大山シュウをはじめとして大半の無印ファン・信者は大バッシングしているようだ、とは言っても黒歴史の「tri.」や「ラスエボ」ほど酷いものではないが。
まあそれも仕方あるまい、私のように無印を受け入れられなかった人を除けば無印は間違いなく彼らにとっての原点にして頂点に違いない、実際視聴率も含めた人気で無印を超えるものは未だにないから。
とはいえ、こないだ書いた記事でとうとう無印の価値観が社会的に否定されてしまった以上、もはや無印など無用の長物であり作品から感じるものなど何もないことが示されたわけだが。

「アドコロ」の短所や批判はXでもよく挙がっているのだが、おおかた指摘されているのは「人間性の欠如」らしく、無印のキャラクターが持っていた短所がごっそり抜け落ちて長所だけが残ったとのこと。
例えばアドコロ太一なんかは「勇気と行動力、人を引っ張るリーダーとしての長所のみを残し短所をゴッソリ取り除いただけの空虚なキャラクター」という風に分析されている。
他にもヤマトは「無印だと弟に対する過保護さと裏に秘めた熱血漢としての本質が良かったのに、アドコロではただのクール系イケメンに成り下がった」などなど。
まあ確かに無印のキャラクターとアドコロのキャラクターは似ても似つかない別人28号になってしまっているのだが(一番それが顕著だったのは空)、私はふと疑問に思うのである。

架空のキャラクターに果たして「人間性」と呼べるものは必要なのか?

確かに「アドコロ」は構成といいキャラ描写といい完璧ではなく荒削りな面も沢山あったが、それでも私は無印にあったような不快感を覚えるようなことは全くなかった
「02」の大輔や「Vテイマー」のタイチのような好みのツボにハマったような狂おしい感覚はないが、だからといって見ていて不愉快になるようなこともない
もちろん一番の理由は関弘美というプロデューサーが関わっていないからなのだが、それだけではなくもう1つは「売れる作品に必ずしもリアリティは必要ない」ということである。
これは古今東西そうであり、例えばデジモンが一方的にライバル視していた競合の「ポケットモンスター」や同じ任天堂の「スーパーマリオブラザーズ」は別に人間ドラマのリアリティなどない

また、勧善懲悪で逆に売れたという意味では関弘美が「ラスエボ」のインタビューで引き合いに出していた水木しげるの『ゲゲゲの鬼太郎』だってそうである。
鬼太郎たちは確かに妖怪退治の専門家だが、いわゆる仮面ライダーやスーパー戦隊のような「正義の味方」であるわけじゃないから、あまり力を入れて戦っているように見えない。
あれは藤子・F・不二雄にとっての『ドラえもん』や手塚治虫にとっての『鉄腕アトム』と同じで「売れるための作品」であり、今見直しても大して中身のある作品ではない。
『ちびまる子ちゃん』『サザエさん』『名探偵コナン』だって国民的アニメではあろうが、じゃああれに人間ドラマのリアリティを期待する人などいないだろう。

それと同じことであり、「アドコロ」の太一たちは確かに作業ゲーのように涼しい顔して淡々と戦っているのだが、私は逆にそれが良かったんじゃないかとさえ思える
確かに無印信者からの評判は軒並み悪かったのはわかるのだが、そもそも無印に全く思い入れのない人間からすると、そのお陰で作品全体から勧善懲悪特有の欺瞞や独善性を感じることがほとんどない
それに、太一たちが基本的にてんでバラバラに戦っていて、表面上のやり取りだけが進行していくのもある意味で令和のブラックボックス化した人間関係の現れだと取れなくもないだろう。
逆にいうと、今のα世代の子供たちは無印の時代に比べてあまり悩みらしい悩みを持たず食うものにも困らない贅沢な子供達が増えているということなのだが。

そもそも私は作り手が「リアリティ」などと称して入れていた無印や02のギスギスした露悪的な人間描写が全く好きになれなかった
別にギスギスした描写が悪いと言いたいのではなく、わざとそういう描写を入れてシリアスめいたことを語らせておけば名作風になると本気で思い込んでいるそのあざとさに対して、である。
その癖肝腎要の勧善懲悪を成り立たせる根幹の設定の部分はおざなりで、本来であれば単なる「種族」「属性」の違いでしかない三すくみのバランスを崩して一方的にウィルス種を悪扱いした。
作り手がどう思っていたかは知らないが、おそらく関弘美をはじめ『デジモンアドベンチャー』の作り手は仮面ライダーやスーパー戦隊などの本格的な勧善懲悪を手がけたことなどないのだろう。

脚本家の顔ぶれを見ても、浦沢義雄師匠と門下生の大和屋暁、00年代前半の戦隊で関わった前川淳や『獣拳戦隊ゲキレンジャー』で関わった吉村元希を除けば東映特撮では全く見たことがない名前ばかりだ
シリーズ構成の西園悟にしたって「デジモン」以前に手掛けていたのはいかにもな王道の男児向けアニメではないために、やはり不慣れであることが窺える。
だから無印はああいう粗雑な出来栄えのものしか出来ず、思い出補正で過大評価している信者を除けばあれを真っ当なアニメとして評価する人はあまりいないだろう。
少なくとも90年代のスーパー戦隊シリーズや『ドラゴンボール』などの少年漫画、勇者シリーズやアナザーガンダムのようなコテコテのバトル物が血液に流れている私にとっては無印なんぞまともに見れたものじゃない

そもそも無印の良かった点として「リアリティのある人間ドラマ」みたいな「ガンダム」にでも使えそうな論を持ち出す人が多いのだが、その人物描写ははっきり言って再現性がないものである
以前にも述べたように、無印が当時まぐれ当たりみたいな形で人気を出したのは決して緻密な作品だからではなく、ポケモンがやらなかったことをやったという目新しさが単に受けただけではなかろうか。
しかも作品の長所たる人間ドラマとやらはいかにも90年代的な反集団主義としての超個人主義だから正義感もクソもない奴らが好き勝手やるという露悪的な描写をそのままやった印象が強い。
その癖、終盤になるにつれて独善性というか欺瞞に満ちたようなことを口にするようになるのだから、側から見ていてデジタルワールドの思惑に洗脳されているようで悍ましい感覚に襲われた。

それを踏まえた上でリメイクの「アドコロ」はいかにも令和らしく、そういう欺瞞や独善性を取り除いた結果として「中身のなさ」が露呈したわけだが、これは同時に無印にその原因を求められるだろう。
どういうことかというと、「人間ドラマ」などという時代性に左右される部分が大きいものに依存して作品作りをすると、それを後にリメイクする時に再現性が全くなくなってしまうのである。
実際これは「デジモン」以外のリメイクがそれを示していて、例えば『機動戦士ガンダム』然り『新世紀エヴァンゲリオン』然り、テレビ版は名作だったのにリメイクしたら劣化した
安彦リメイクの「THE ORIGIN」や劇場版「シン・エヴァ」などがなぜ不評だったかといえば、元々の原作が再現性がなく独自性が高い属人化した作品の典型だからだ。

となれば、「反ポケモン」の立場を取って人間ドラマに依存しスーパー戦隊よりも多い8人8匹というあり得ない奇襲戦法みたいなやり方をした傍流の無印も全くそれらと同じことになる。
当時の作り手にしか再現性がなかったものだから同じようなドラマをやったところで「tri.」「ラスエボ」のようなことにしかならないのは作り手も承知していたであろう。
だからこそ敢えて人間ドラマを入れずに純粋な戦闘シーンを強化した上で、無印の鼻につく勧善懲悪の独善性・欺瞞といった臭みを取り除いたことで逆に見やすくなった
逆にいえば、さき姫さんがコメントで数々してきていたように「アドコロ」のようなスタイルを無印でやっておけばなあという残念な思いに駆られるのだが。

同時に勧善懲悪の危険性というのも改めて無印と「アドコロ」の違いとして挙げられ、仮面ライダーやスーパー戦隊のようにしっかり作り込まないと勧善懲悪はただの排他的差別主義になりかねない
そういう教条主義的な押し付けがましさはもう今の令和には必要ないものであり、だから私は意外にも「アドコロ」は世間一般に批判されるほど嫌いではない。
確かに改善点や不満も沢山あるのは事実だが、少なくとも見ていてストレスになるような要素はなく、逆にスッキリしていていいんじゃないだろうか。
人間ドラマを作り込んだから名作というのはもう古びた手法であり通用しなくなっているし、そんなものがなくたって面白い作品は作ることができる

リメイクとして適切だったとは思わないが、やり方次第では「デジモン」は子供向けの王道アニメとして売ることも可能であったと言える。
「アドコロ」はある意味でいうと無印がああいう作りだったからこそ生まれた反面教師であり、決して別事項として語ることはできないだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?