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『星獣戦隊ギンガマン』第四章『アースの心』

◾️第四章『アースの心』

(脚本:小林靖子 演出:辻野正人)


導入

「シルバースター乗馬倶楽部!ここがバルバンと戦う為に森を出たギンガマン達の仮の住まいである。彼らは現代社会での生活をここで始めようとしていた」

前回までで本作の基礎土台が完成し、今回はその上で「アースとは何か?」をハヤテとヒカルのコンビを通して描く序盤の最重要回である。
第一章でヒュウガの死とリョウマの覚醒、第二章で森の封印と星獣の再来、そして第三章でゴウキの森を失った悲しみなどあまりにも密度の濃いドラマが展開されてきた。
その上で今回は彼らの強さの源にして考え方=脳のOSの具現化でもある「アース」の根源をしっかり確立することでブレない今作の軸を確立することに成功している。

また、前回は単なる「喋る樹」でしかなかったモークの司令官としての有能さと長短、そしてまたリョウマ達が生身で使用する個人武器などもさりげなく描かれているものだ。
どうしてもハヤテとヒカルにばかり目が行きがちだが、それを彩っている細部もまた無駄なく描かれているし、アースが単なる文芸としてのみならずビジュアルとしても描かれている点も注目したい。
非常に生真面目に段取りが組まれているが故に本作は「SF」的なマインドが強いが「ファンタジー」としての神秘性もしっかり守られているために見る側を飽きさせることがないのだ。

後の小林靖子メインライター作品並びに髙寺成紀Pチーフ作品でもここまで力の根源と向き合った作品はないので、東映特撮の歴史的にも非常に貴重だと言える。

アースとは何か?

今回の見所はとりもなおさず「アースとは何か?」を定義する後半のギンガイエロー/ヒカルだが、モークが改めて「アースとは何か?」をヒカルに提示している。

「アースは君だけの力ではない、道具のように使い捨てるものでもない。星から借り受けし力、それは無限だ。そのアースを生かすも殺すも後は君の心次第だ。立て!自分の心でアースを掴め!」

このモークのセリフに象徴される「アースとは何か?」だが、この後一度アースを出し尽くしたはずのヒカルが己の体の中に無限のアースを取り戻すシーンの凄みはここだけで見ても成立しない。
何故にこのシーンが本作序盤の最重要回にして「象徴」にまでなり得るのか?は本作に対する深い理解はもちろんのこと、スーパー戦隊の歴史を見ていなければその真価は見えてこないのだ。
スーパー戦隊の年季の入ったファンなら誰もが知っていることだから釈迦に説法だが、本作の「アース」は『電撃戦隊チェンジマン』の「アースフォース」のオマージュである。

星から借り受けし規格外の力」として定義されていることも含めてだが、「チェンジマン」の「アースフォース」は「地球が危機にさらされた時地球自身が発するといわれている不思議な力」と定義されていた。
しかし、ではその「アースフォース」が具体的にどんな力で、どんなメカニズムで成り立っていて、どうすればその力は本領を発揮してくれるのか?までは掘り下げられていない。
中盤ではチェンジマンがアースフォースを己自身の力として内側に取り込み、パワーバズーカ共々一段階上に強化する展開があるのだが、今見直すとやはり無理のある展開ではあった。
「チェンジマン」が昭和戦隊最高傑作と称されながらも「ギンガマン」に敵わないのはこの規格外の力をどのように具体化して定義し、それを作品自体の根幹にするか?がクリアできなかったからだ。

その後の作品でも「持っている力」そのものと向き合った作品は少なく、強いて言えば『鳥人戦隊ジェットマン』のネオジェットマン編の40〜41話でバードニックエネルギーに関わる話が描かれたくらいだろう。
あの前後編では正に本作の考え方=脳のOSである「力と心のバランス」に関して、物凄く深い核心をつく展開だった。

「俺たちは力だけにこだわり、人を愛し、平和を愛する心を忘れていた。俺達は戦士としての力を失うが、君たちこそ真のジェットマンだ」

どうしても強き力を持つとその力の強大さに呑まれていき、最も大事な根幹なる考え方=脳のOSが失われがちであるという展開だが、本作は既に序盤でこの話をより洗練された形で展開している。
本来であればこの展開はそれこそ「ゴレンジャー」の初期化(原点回帰ではない)をやった『超力戦隊オーレンジャー』が終盤の展開も含めてクリアしておくべき課題であった。
しかし、「オーレンジャー」ではそもそも「超力とは何か?」が回によって定義がバラバラになっており、きちんと作品の軸として据えられないまま終盤まで進んでしまい、破綻してしまう。
その後の『激走戦隊カーレンジャー』のクルマジックパワー、そして『電磁戦隊メガレンジャー』のデジタル科学に関してもここまでの深掘りがなされることは終ぞなかった。

本作は正にその「チェンジマン」からの長年の課題であった「規格外のオーパーツをいかに作品の中にしっかりと落とし込むか?」にこのシーンをもって成功したといえる。
そういう意味ではスーパー戦隊シリーズという大枠の中で見ても記念碑的な瞬間であるといえ、しかもこれが最終章の伏線にもなっていることも併せて抜かりがない。

リョウマと異なるヒカルの未熟さ

今回は改めてギンガイエロー/ヒカルの人となりがギンガグリーン/ハヤテとの対比を通して描かれているのだが、彼はギンガレッド/リョウマとは異なる未熟さを持っている。
リョウマが「リーダーとしての器」「銀河戦士としての自覚」という意味でのステージの高い段階における「未熟さ」であるのに対し、ヒカルの未熟さはより低いステージのところにあるのだ。
しかもこれは今回から唐突に描かれていたのではなく第一章の冒頭の段階でアースをいたずらに使ってハヤテに「無闇にアースを使うな」と突っ込まれるシーンで既に示されている。
ヒカルのキャラはいわゆる『秘密戦隊ゴレンジャー』のミドレンジャー/明日香健二の「無茶しがちな年少キャラ」の系譜であり、前作だとメガレッド/伊達健太の役回りだった。

ちょうど昨日「キレンジャーの錯誤」という記事で触れたばかりなので是非書いておきたいのだが、「ギンガマン」は「王道的」でありながら必ずしも「ゴレンジャー」的な色と性格の決め方にはなっていない
通常であればハヤテがブルー、ゴウキがイエロー、そしてヒカルがグリーンになるかと思われるが、本作はこの3人の色と性格がずれていて、それもまた本作の「例外性」の1つになっているだろう。
もっとも「こういう色だからこんな性格」なんてルール自体がスーパー戦隊においてはあってないようなものであるのでどうでもいいが、兎角ここまで「未熟さ」が強調されているキャラも珍しい
小林靖子メインライター作品で言えば『侍戦隊シンケンジャー』のシンケングリーン/谷千明がスレた感じにヒカルを継承しているといえるだろう。

ヒカルは決して「悪人」ではない、むしろ「善人」であり最もギンガマンの中で「純粋」な、少年の心を持った存在といえるが、いわゆる「無邪気」というよりは「無鉄砲」という方が近い
アースの力を馬にイタズラしようとした高校生に向かって放つのみならず大道芸じみた真似をして人助けをするために安売りするなど、とても「戦士」とは思えない振る舞いが目立つ。
なぜこんな人物が選ばれたのかと思わなくもないが、これは同時に作り手の中における「選ばれた存在が必ずしも人格者とは限らない」ということだろう。

会社でもこういう「叱られる人」は一定数存在するわけだが、そういう人の共通点は「天才肌でセンスがいいが色々と荒削り」という点にこそある。
ヒカルは正に「力もセンスもスキルも一級品だが、考え方=脳のOSがそこに追いついていない」が故にその対極にいるハヤテとの濃淡が生きるのだろう。
単なる「ヤンチャ坊主」だけではない、かといって決して人格者すぎないヒカルというキャラクターの長短をしっかり描いてきたのは見事である。

と、ここまで書いて思ったのだが、思えば00年代以降に量産される「バカレッド」はどちらかといえばギンガイエロー/ヒカルの系譜ではなかろうか。
ヒカルの中から「天才肌」「柔軟性」「伸び代」といった部分が抜けて「無鉄砲なヤンチャ坊主」の部分のみが前面に出たキャラクターだろう。

長老オーギの擬似人格としてのモーク

今回の見所といえばどうしてもハヤテとヒカルに目が行きがちだが、同時に知恵の樹・モークのキャラクター性もしっかり描かれていたことにも注目しておきたい。
前回のレビューでも書いたが、モークは長老オーギの擬似人格の具現化でもあり、木の根のネットワークを辿ってバルバンの作戦や仲間の居場所を感知することができる。
そしてその場所までギンガマンを蔦を使って移動させることができるなどが描かれているなど、あくまでも「一端」ではあるが歴代でも非常に有能な司令官である。
時には長老オーギのように厳しいこともいうのだが、決して「冷血」でも「鬼」でもないという性格が描かれている。

歴代戦隊の中で課題となっているものの1つが司令官の描き方なのだが、これは小林靖子というよりも髙寺成紀がたどり着いた1つの境地なのかもしれない。
というのも、彼が最初に手がけた『激走戦隊カーレンジャー』のダップはあまりにも幼すぎて司令官としては頼りにならず、中盤ではその役割をVRVマスターに食われていた。
次の『電磁戦隊メガレンジャー』の久保田博士は司令官というよりも「擬似的な父親」という側面が強く、あまり偉そうに指示を飛ばすようなタイプではない。
確かに理科系の天才タイプではあるのだが、司令官として優秀だったかというと決してそうではなく、むしろ優秀ではなかったからこそ5人にとっては近寄りやすかった。

それに対してモークは現時点だとやはり長老オーギの成熟し切った性格しか描かれていないために、5人にとってはどこか近寄り難さを感じさせるところがある。
それが後の第十二章・十三章でも露呈して仲間たちから反目に合うこともあり、また四十八章に至っては仲間たちが完全にモークから独立してしまうのだ。
今回はあくまでも「一部」しか見せていないから分かりにくいだけで、モークは歴代の中で「有能だが決して完璧すぎない」という絶妙な塩梅の司令官である。
ここで得たものをのちに小林靖子は『未来戦隊タイムレンジャー』のタックや『侍戦隊シンケンジャー』の彦馬爺さんなどに継承しているといえるだろう。

そして何よりこのキャラクターに命を吹き込んでいる納谷六郎さんの声質がとてもよく、彼がモークの「喋る樹」というおかしなキャラクターを自然に成立させている。
彼以外の声優がモークを演じていたとしたらこの説得力はとても出せないだろうし、ただでさえビジュアル的には厳つさや怖ささえ感じさせるところがあるからだ。
そう、「ギンガマン」は星獣もそうだしモークもそうだが、ビジュアルだけなら怖さを感じさせる存在を動かすことで怖くなく見せてしまっている。
こういうところに正しく的確な「フィクション」の意義があって、通常なら成立しないハッタリをきっちり成立させているところが見事だ。

感情重視ではなく目的重視で動く重要性

今回改めてヒカルを中心にハヤテ・モークを絡めて描かれたことから見えるのは「感情」ではなく「目的」重視で動く重要性である。
ハヤテも言っていたが、決して「アースを使うな」と言っているわけではなく、「アースを何のために使うのか?」を弁えろと言っているのだ。
ヒカルは歴代の中でもかなり感情重視で動きやすい、それこそMBTIで言うならばESFP(エンターテイナー)ど思しき人物だから「目先の快楽」に流されやすい。
それに対してハヤテはISTJ(管理者)タイプと分析できるから、完全に感情重視ではなく目的重視で動いていて、おそらく一番兄・ヒュウガやモークと近いところにいる。

何事でもそうだが、物事を成し遂げようと思うと「感情」ではなく「目的」を最優先で動かなければならないのであり、Aパートのヒカルはそこを理解していなかった。
いわゆるダニング・クルーガ効果でいうところの「バカの山」状態であり、「わかったつもり」「知ったかぶり」をしていたのが彼だったといえる。
だから戦術もセンスも判断力も実はリョウマたちと並ぶ一級品でありながら、どうしても感情が邪魔をしてしまい「心」の部分が追いついていなかった。
そこに気づいて「目的」基準で動くようになるためのきっかけを得たのがこの回であり、ヒカルはここからリョウマ以上の伸び代をもって成長していく。

リョウマの場合は「リーダーとしての器」以外はほぼ完成しているからヒカルとはまた違う上級者向けの試練が2クール目に待ち受けている。
まあその一端が次回に示されているわけだが、リョウマとヒュウガの関係性はハヤテとヒカルの関係性に近いといえるだろう。
秀才タイプの年長者が厳しく嗜めながら荒削りな天才タイプの弟キャラが揉まれて成長していくのが本作を特徴づける1つの妙味である。
そういう意味では終盤に繋がる伏線ということも含めて、歴代の中でも非常に重要な本作の土台が完璧に構築された歴史的瞬間であろう。

どうしても本作の代表的な回として第二十五章・第二十六章が目立つのだが、そこに至るまでの布石としてまず今回は外せない。
しかも、一番大事な考え方=脳のOSの確立を主人公のリョウマではなく脇のヒカルからのサイドパンチとして展開しているのも見事である。
こういうところが一見分かりやすいようで一筋縄ではいかぬ本作の高いクオリティーを支えているといえるだろう。

シリーズが長いこと苦しんでいた「力と心のバランス」について、それをヒカルの成長と絡める形で展開するという全盛期の小林脚本のキレとそれを映像化した辻野監督のセンスが秀逸なS(傑作)
総合評価は100点満点中110点としておこう。

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