スーパー戦隊シリーズにおいて巨大ロボという要素はどこまで評価の対象に入れるべきなのか?
現在『バトルフィーバーJ』『超力戦隊オーレンジャー』『百獣戦隊ガオレンジャー』『侍戦隊シンケンジャー』を東映特撮YouTubeで同時視聴しているが、この4作品の並びで見ると1つの疑問・批判が浮かぶ。
それはタイトルに書いた通り、スーパー戦隊シリーズにおいて巨大ロボという要素はどこまで評価の対象に入れるべきなのか?
これは作り手にとっても受け手にとっても未だに落とし所が見つからない永遠の課題の1つであり、そもそも私はスーパー戦隊において「巨大ロボって必要なのだろうか?」という疑問は根っこにずっとあった。
スーパー戦隊シリーズにおいて人型機動兵器としての巨大ロボットが初めて登場したのは『バトルフィーバーJ』であるが、その由来がどこにあるのか?どんな歴史を辿ってここに来たのか?を知る人は戦隊ファンでも多くないであろう。
実写特撮における巨大ロボ自体は既に『鉄人28号』(1960)の時点でテストケースとして行われているが、これが功を奏したのかというと決してそうではなく、当時の技術の限界では着ぐるみの可動域に限界があった。
その後『ジャイアントロボ』『スーパーロボット レッドバロン』『ジャンボーグA』『大鉄人17』などの紆余曲折を経て東映版『スパイダーマン』のレオパルドンが大好評だったのを経てスーパー戦隊に輸入されたのである。
『秘密戦隊ゴレンジャー』『ジャッカー電撃隊』では「巨大飛行メカ」は出てくるがあくまでも作戦遂行の上でのサポートとして使われるのみで、トドメはあくまでも等身大戦でのみ行われる方式であった。
それが『バトルフィーバーJ』『電子戦隊デンジマン』を経て等身大戦→巨大戦という1つの流れが出来たわけだが、これが必ずしもスーパー戦隊においていい流れを生み出しているかというとそうでもない。
何故ならば純粋なロボアクションの質においてスーパー戦隊はロボットアニメに打ち勝つことが出来ないからである、少なくとも70年代〜90年代までのスーパー戦隊においてはそうであった。
今でこそCGを使っていろんなアクションを描けるようになって来たとはいえ、やはりガシガシロボットを動かしてかっこよく見せられるのは断然ロボットアニメの方なのである。
私が以前に愛読していた鷹羽飛鳥氏が書いていたスーパー戦隊シリーズにおいて、いわゆる「戦隊ロボの乗り換え」をはじめとするあらゆる問題点が指摘されている。
そしてその中でもスーパー戦隊におけるロボットとはどうあるべきか?も定義されていたので抜粋してみよう。
確かに理想論だけでいえばその通りだが、所詮それは綺麗事に過ぎず、では実際の映像演出も含めたアルゴリズムで見たときにこの定義が果たして正しいのか?というとそうも言えまい。
そもそもこの定義自体が70年代ロボアニメの1つの完成形である長浜ロマン三部作の『超電磁マシーンボルテスV』の文法を戦隊シリーズに無理矢理転用したものでしかないのだから。
ボルテスはどうしても大河ドラマ的な側面だけが語られがちだが、何と言ってもロボアクションが素晴らしく、特に「天空剣Vの字斬り」という剣の必殺技の基礎を完成させたのは後世に大きな影響を与えた。
「バトルフィーバー」で途中から「電光剣唐竹割り」という名前の必殺技に変更されたのもこの流れを汲んだものだし、実際に合体飛行訓練も含めたチームワークの強化まで描き切っている。
しかしスーパー戦隊とロボアニメは似て非なるものであり、たとえ集団ヒーローものであっても等身大戦の方が大事なスーパー戦隊とロボアクションの方が大事なロボアニメでは見せ方も構造もまるで違う。
餅は餅屋であり、どこまで行こうとスーパー戦隊はロボアニメになり得ないのだから、巨大ロボ戦にそこまで比重を置いてでも評価しなければならないのかというとそれは違う気がする。
もちろん歴代戦隊の中にはロボアクションというかメカニックを見せることに重点を置き成功させた『救急戦隊ゴーゴーファイブ』『轟轟戦隊ボウケンジャー』のような例もあるだろう。
しかし、この2作は「救急活動」「プレシャス探索」といった「戦いとは別の用途」を持っているから成立したのであって、この手法がそう何度も使えるわけがない。
ここまでの話を踏まえて『バトルフィーバーJ』『超力戦隊オーレンジャー』『百獣戦隊ガオレンジャー』『侍戦隊シンケンジャー』の並びを巨大ロボという視点で見てみると面白い法則性があることに気づく。
それぞれ以下の要素だ。
『バトルフィーバーJ』……巨大ロボの元祖・剣が必殺技・あまり動けない着ぐるみの限界
『超力戦隊オーレンジャー』……大量の巨大ロボ・デザインの色分けが明確・劇中での明確な使い分けが不明瞭・1号ロボの弱体化
『百獣戦隊ガオレンジャー』……フルCGで着ぐるみ問題を解決・パーツ換装方式の定着・5人のキャラが希薄化・1号ロボの弱体化
『侍戦隊シンケンジャー』……ドラマ性の重厚さ・ロボット全合体がダサい・1号ロボの弱体化
こうして見ると、それぞれの作品における巨大ロボ戦の問題点が浮き彫りになっているわけだが、わけても「オーレンジャー」「ガオレンジャー」のそれは深刻である。
「オー」「ガオ」は歴代の中でもロボット玩具の売り上げが相当に高く劇中での演出も見事ではあるが、その弊害としてメインの5人のキャラが希薄という本末転倒な結果になっているのだ。
しかも新メカを次々に繰り出すのはいいとしても、その関係上どうしても1号ロボの弱体化や存在感の希薄化が避けられず、またメカニックの使い分けの基準も曖昧であった。
これをクリアしたのが『救急戦隊ゴーゴーファイブ』『轟轟戦隊ボウケンジャー』なのだが、『侍戦隊シンケンジャー』ではそれに加えて「ロボット全合体」という問題も発生する。
ロボット全合体自体は別に構わないのだが、『炎神戦隊ゴーオンジャー』のエンジンオーG12、『侍戦隊シンケンジャー』のサムライハオーにまでなるとゴチャゴチャしててまとまりが悪い。
更に「シンケンジャー」は詰め込むドラマの情報量自体も物凄く多いこともあり、歴代の中でもとにかく重くて映像としても物語としてももっさり気味でテンポがイマイチよくないという問題もある。
特にサムライハオーの初合体が描かれた第三十二幕は何か特別な敵組織の強化イベントがあったわけでもないのに、流ノ介がギャグじみた流れで強行突破してしまったのは逆効果だったといえよう。
何より脚本を書いている小林靖子女史の悲鳴が作品を通して伝わってくるようで、思えば『烈車戦隊トッキュウジャー』を最後にニチアサのテレビシリーズに戻らない理由の1つはここにあるのだろう。
そういう諸々の事情から、私はスーパー戦隊シリーズにおいてロボアクションというのは必ずも評価の対象として入れるべきではないと思うし、何なら削除しても構わない要素だと考えている。
あくまでも「等身大戦のおまけ」でしかないのだから、等身大戦というかそこに持って行くまでの流れが面白ければ巨大戦に関しては特筆すべきことがなくてもOKというスタンスなのだ。
ロボアクション単体で楽しみたいのであれば別に実写特撮ではなくロボアニメを楽しめばいい訳で、シリーズのお約束が必ずしもいいものばかりではないと教えてくれるいい反面教師だろう。
その意味では「ドンブラザーズ」の品評会で様式の力≠様式美と言っていた宇野一派の禿頭の教授が言っていたこともあながち間違いではないという訳だ。