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いくら才能があっても悪が最後に必ず負ける理由は「意識」の差である!「悪」が努力や修行なんかしたらそれは単なる「敵」でしかない!

最近ヒカルとズブズブに癒着している桑田龍征の動画でヒカルが改めて「能力の高い悪役が主人公に負けるのが嫌い」と言っているのを見ていたが、ヒーローより悪が好きな人の心理ってこうなんだろうなと思えた。
やっぱり昔からそうだけど、なぜ俺がヒカルの価値観を理解できないかも正しくここであり、ヒカルは完全に「闇=悪」側の人間であり、「光=善」側の人間とは根本的に相容れない存在なのだろう。
『ドラゴンボール』に例えるなら、私は完全に孫悟空や孫悟飯などの主人公サイドが好きなのだが、ヒカルはいわゆるフリーザやセル・魔人ブウなどの完全な悪側の方が好みというタイプである。
で、彼はカジサックチャンネルでもどこでも昔から「熱血キャラが主人公補正で勝つのが嫌い」と公言して憚らないのだが、それは裏を返せば彼なりの善に対する嫉妬ではなかろうか。

私が幼少期に『仮面ライダー』でも『ウルトラマン』でもなく、スーパー戦隊シリーズ・勇者シリーズ・アナザーガンダム・ドラゴンボール辺りを原体験として育ったことは改めて大きな恩恵がある。
それは何かというとヒカルのような「勧善懲悪なんてくだらない。熱血主人公なんて薄ら寒い」と決めつけて否定しにかかる価値観・風潮を持たないまま比較的真っ直ぐに育ったことだ。
例えば現在だとライダーファンのほとんどは名作を挙げろと言われたら「クウガ」〜「555」辺りのような、ちょっと屈折した中高生向けのシリーズを挙げるのではないだろうか。
また、ウルトラシリーズに関しても、例えば初代の「故郷は地球」や「セブン」の「ノンマルトの使者」、または「帰りマン」の11月の傑作群(「怪獣使いと少年」「悪魔と天使の間に…」)を名作と挙げるファンは多いだろう。

最もこれはスーパー戦隊シリーズに関してもままある傾向ではあって、例えば戦隊ファンの中でもヒカルのような感性を持ってる人は私が傑作扱いしている「チェンジマン」「ギンガマン」辺りよりももっと捻くれたものを挙げるのではないか?
最終的にヒーロー側が「試合に勝って勝負に負けた」になる『超獣戦隊ライブマン』や徹底したコメディとして茶化した『激走戦隊カーレンジャー』、それから先日批評した『未来戦隊タイムレンジャー』や現在配信中の『侍戦隊シンケンジャー』を挙げるだろう。
『鳥人戦隊ジェットマン』にしたって未だに「戦うトレンディドラマ」などというくだらない評価がある一方で、その本筋にある王道的な骨子や真のヒーローになる過程をまともに評価している人は少ない。
昨今は特にそうなのかもしれないが、どうにも「勧善懲悪なんて低俗な子供向けでくだらないもの」という風潮が益々強まっているようだが、その見方こそ私は疑問視・批判をすべき価値観であると思う。

現在『ONE PIECE』の2回目の全話無料配信がワノ国の大決戦に突入しているが、このワノ国編はそれこそ尾田先生が大好きな勧善懲悪の紋切型の時代劇をベースとして話が展開されている
四皇のトップであるビッグマムとカイドウはルフィたち麦わらの一味やワノ国に住む善良な住人達とは決して相容れない悪を徹底して極めた存在であり、そこに話し合いや和解の余地など最初から存在しない
だが、そんなカイドウ・ビッグマムを見て読者は「どうやってこんな奴らに勝つんだ?」という絶望感と共に、それをひっくり返しにかかるルフィ達の快進撃にいやが上にも盛り上がるであろう。
こんなことを言うと「ルフィ達は決してヒーローではない!」と言う人もいるかもしれないが、確かにルフィ達は善人ではないものの、行った先々の国や人助けを行なっている「義賊」だ。

なぜ「ワンピ」が「ドラゴンボール」と並んで世界的な人気を誇るのか、それは結局のところ勧善懲悪のフォーマットがきちんとあるという誰にとっても明瞭な土台が根幹にあればこそである。
悪役と一言で言ってもその種類は様々あるが、フリーザ様にしろクロコダイルにしろカイドウ・ビッグマムにしろ、悪はなぜヒーローよりも才能に溢れているのに負けるのか?は明瞭だ。
それは端的にいえば「意識」の差であり、確かにヒカルの言う通り、単純な「才能」「資質」だけでいえばヒーロー側よりもカリスマたる悪の首領の方があるのだろう。
横山光輝版『三国志』の世界でいわゆる「悪」であると同時に「敵」でもあるのはいうまでもなく曹操なのだが、劉備と曹操は一時的に共闘することはあっても決して分かり合えない存在である。

確かに才能でいえば劉備よりも曹操の方が凄いのだが、その曹操は自分より兵力もカリスマ性もずっと下の筈の劉備に何度も大敗を喫している、赤壁の時といい鶏肋の時しかり。
そしてその敗因は決まって「情報不足」「思い込み」「慢心」であり、敵がどういう戦力や策を弄して来るのか、またどこまで戦いを続ければいいのかに関する戦略眼を曹操は持っていない。
なまじ自分がトップに立つほどの凄まじいカリスマ性がもたらしてきた成功体験に現を抜かし、その才能に溺れて「次も上手くいくとは限らない」ということがわからないのである。
たまたまその時上手く行っただけの奇跡が、本人の実力以上の幸運が重なってそこに至っただけなのかもしれないということに曹操は全く考えが及ばない。

一方で劉備は決してカリスマ性や資質では曹操に及ばないものの、曹操や孫権に比べて人一倍強い才能・資質として持ち合わせていたのが「人徳」「義理と筋」である。
劉備はなにせ若い頃は片田舎で貧乏暮らしをしていた王家の末裔であるが、曹操と違い自惚れがなかったのは若い頃に上手くいかない苦労をしてきたからではないだろうか。
また味方だと思ってきた者たちからの裏切りや理不尽な圧政に苦しめられたことも多々あった、だからこそ一般大衆の人たちの気持ちもわかるし、才能ある将軍たちが彼の人柄に惚れ込んで慕うのだ。
自分が完璧な人間ではないことを分かり切っているからこそ孔明という優秀な二番手の参謀を味方につけ、じわじわと着実に確実に力をつけて無理なく蜀のトップたる漢中王に上り詰めた。

もちろん、劉備と曹操のどちらの生き方が正しくどちらが間違いといったことを言いたいのではない、しかし悪が負ける時の共通点は決定的な「意識」の差なのである
ヒカルは主人公サイドが開くに勝つ理由を「努力・根性とかいうわけのわからないもので勝つ」「主人公補正」とバカにしていたが、それは裏を返せば「努力・根性もまた立派な才能・資質」ということだ。
しかも、それだけ熱血主人公やヒーロー側をコケにするような発言をしておきながら、自分がYouTubeを続けてこられた理由を「熱量があるから。才能じゃなく意識」などという二枚舌っぷりを見せている。
そう、ヒカルも結局のところはヒーローがなぜ悪に勝ち、そして悪はなぜヒーローに負けるのかを本当は分かっているし、同時にヒカルは「悪になりきれないダークヒーロー」でしかないのだ。

私が大好きな悪役に共通するものは大抵「カリスマ性」「圧倒的な力」といったもので括られるが、その本質は「努力せずとも最初から完成されている天才」だろう。
カイドウもビッグマムも劇中での描写を見る限り決して努力という努力はしていない、傍若無人に非道の限りを尽くして私利私慾のままに振舞っていたらいつの間にか四皇にいたのである。
そんな彼らがもし主人公たるルフィやゾロたちのように修行なんかしてしまったら、それはもはや「悪」ではなく単なる「敵」ではなかろうか
主人公サイドで修行していい敵キャラは確かに存在するが、それはあくまでも「ライバルポジション」と呼ばれるべき位置づけにいるやつだ。

『ドラゴンボール』でいうところのピッコロ・ベジータや『ONE PIECE』でいうロロノア・ゾロ、『NARUTO』でいううちはサスケ辺りがそのポジションである。
そういう「主人公と対をなす好敵手」の奴だったら努力や修行で強くなっても違和感はないが、私に言わせればヒカルはどちらかといえばそういったライバルキャラに近いのではないか。
思えば『鳥人戦隊ジェットマン』のラディゲにしたって最終的にラゲムに完全体進化は遂げたものの、あれは努力ではなく魔神ロボ・ベロニカのエネルギーを吸収したから強くなったのだ。
真の悪は決して修行や努力なんかしても強い、進化や強化はあるにしてもあくまで外的な方法によってズルをして得た力だから「悪銭身につかず」で主人公に負けてしまう。

勧善懲悪とは決して単なる子供騙しの容易なものだから続くのではない、奥底にはヒーローが悪に勝つ理由が、そして悪がヒーローに負ける理由がきちんとあるのだ。
子供を騙すのは大人を騙すよりもよっぽど難しい、なぜならば大人を騙すのは極端に言ってしまえばお酒・セックス・それっぽい理屈があれば誤魔化しが効くから。
しかし、子供にはそういう大人が持ち合わせているようなものが通用しない、純粋な感性で本気で向き合って勝負しなければ通用しないのである。
だから私は文句や批判を散々言い続けながらも、長きに渡ってスーパー戦隊シリーズのファンを続けているわけだ、一番ストレートに子供向けの土俵で勝負しているから。

この世に「悪」が栄えた試しはない、栄えたように見えても結局いつかは滅びゆくものなのである。


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