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『鬼滅の刃』はジャンプ漫画版の『機動戦士ガンダムSEED』である!「優しさ」を履き違え曇らされ続けた善人の末路とは?

こういうのを見るにつけ、炭治郎は「優しい」のではなく「正義感がある強い自分」に酔ってるだけではないのか?という思いがますます強くなってきている。
「ガンダムSEED」もそうなのだが、女流作家が描きたがる「理想の男の子」みたいな主人公ってなんでこうも根っこの部分が曲がってるやつが多いのだろうか?
もう何度も述べてきていることだが、竈門炭治郎を私が嫌いな理由は決して「いい子」だからではなくいい子「ぶっている」からである、要するに言行不一致である。
以前も述べたが、柱の不死川に対して「善良な鬼と悪い鬼の区別もつかないなら柱なんて辞めちまえ!」は現実の職場なら即解雇されてもおかしくないレベルの暴言だ。

炭治郎はいわゆる「出来ラッシャー(優等生を嘲るオリジナルの造語)」に当てはまるのだろう、第一話からそうであるように竈門家の長男として温厚に育ってきたのだと思う。
そんなやつが目の前で家族を失い、妹が鬼と化す中で頭のトチ狂った鬼殺隊のメンバーに囲まれて毎日イビられ続ける日々、まるでブラック企業レベルの地獄だ。
さりとて、例えば『ドラゴンボール』のフリーザ軍に属してうまく処世術を使ってやり取りしてしたたかに生き抜いていたベジータたちのような賢さはない。
はっきり言って鬼殺隊の連中の口の悪さなんてブチギレて交戦的になった時の孫悟空や極悪人だった頃の残虐なベジータに比べれば可愛いものである。

ジャンプ漫画史上最も口が悪いキャラを挙げろと言われたら真っ先に挙がるのがサイヤ人編〜ナメック星編のベジータだが、彼の罵詈雑言を並べてみよう。

たった1コマしかないのに、この台詞回しを含んだ必要最小限の立ち回りでベジータの芸風を確立してしまう全盛期の鳥山明の画力と構成力の素晴らしさよ。
これらを見た後だと炭治郎の正論は無駄が多いし、普段から多くを語り過ぎているが故に、かえってここぞというところでのインパクトが引き立たない。
加えて、良くも悪くも「妹のため」という領域から抜け出ないまま「どうしてそんな風に思い至ったのか?」という思想の変遷の元になる劇的な存在証明がないままだ。

ジャンプ漫画の場合、いわゆる東映特撮の仮面ライダーやスーパー戦隊シリーズと違うのは決して「正義」を標榜する主人公ではないということである。
『ドラゴンボール』の孫悟空も『ONE PIECE』のルフィも実は「正義」「仲間のため」なんてヒーローフィクションにありがちな言葉を使って自分を表現しない。
孫悟空は単に「強くなりたいから」だけだしモンキー・D・ルフィも「海賊王になる」という私的動機=野望を満たしたいだけの男である。
理由は簡単であり、変に「正義」というのものを使って物語を紡いでしまうと、作品そのものが説教臭くなるしスーパー戦隊や仮面ライダーとの差別化が図れないからだ。

それに、「正義」という言葉を使ってしまうとそれを理論・理屈として糊塗してしまう関係上、主人公たちがさもその世界における絶対的権威であるかのように見えかねない
だから炭治郎には不死川や義勇のような徹底してその横っ面にカウンターのジャブやフックを入れて「お前は甘い!」といえるキャラを身内に用意する必要があった。
あのまま炭治郎を野放しにしておけば、その思い上がった小学生レベルの幼稚な正義感や善悪の基準を矯正しないまま大人になってしまうことになる。
だが、炭治郎はそこで「自分が間違っていた」と反省して成長するのではなく、むしろそれをどんどん増長させて「俺は間違ってない!お前が間違ってる!」という方向に執着していった

そうやって自分の中の矮小な「正義なるもの」に囚われたまま鬼殺しをどんどん割り切っていった結果どうなったか、とうとうラスボスの無惨を前に炭治郎はこうなってしまう。

この炭治郎の虚ろな目、空虚な台詞回し、とても今まで大上段からいろんな人物に説教をしてきたやつとは思えない程に「中身が空っぽ」なのである。
「目は口ほどに物を言う」というが、完全に生気を失って何も映さない濁りきった炭治郎の瞳には最初の頃にあった優しさや輝きがまるでない
鬼殺しという名の「私刑」を幼稚な善悪の下に割り切って実行し、行き着いた果てがまさかの自我崩壊とその末の鬼化である。

そう、元は善良だった主人公がある出来事を境にどんどん壊れていき、表面上は出来ラッシャーの面をしながら、その実誰に対してもきちんと向き合えていないのである。
だから「異常者」と無惨に言い切られて「和解は不可能」となった瞬間に炭治郎の「鬼の善悪チェック」という感覚センサーは機能不全を起こして「殺す以外にない=存在してはいけない」という結論に至った。
つまり何が言いたいかというと、少年漫画にありがちな「正義感の強い主人公」は一歩間違えてしまうと炭治郎のような殺しを思考停止で割り切ってしまう生物兵器になりかねないということだろう。
表面上は少年漫画の体裁を取りつつ、いかに逆張りの精神で「正義感がある強い自分」に酔ってる竈門炭治郎という主人公を曇らせて最後に崩すことができるか?を意図的かつ露悪的に描いたのだ。

「陽のコミュ障」なんて動画では言われていたが、それはどちらかといえば「熱血」と「声がでかい」を履き違えた戦隊シリーズのバカレッドであり、炭治郎はそれとは違うであろう。
だから、私に限らず苦手・嫌いな読者が少なからずいるのは当たり前で、おそらく作者は非常に意図的に歪んだ主人公として嫌われるように竈門炭治郎を描いたのだといえる。
まあ平たくいってしまえば女性から見た「優等生気質の男の子」はこう見える、ということなのであろうし、その意味では形は違えど「ガンダムSEED」のキラ・ヤマトと少し近いかもしれない。
キラも元は根の優しい善良な少年だったにもかかわらず、戦いの中で自身の思いが否定され続けた結果、ラスボス戦でその心が死んでしまったという点もよく似ている。

ただ、そういういかにもな「可哀想でしょ?」と誘ってくるような作品はその場凌ぎの目先の共感は満たせても、10年〜20年後に見直して名作・傑作だという評価は下せないだろう。
はっきりいってこのような共感狙いの穿った逆張り自体は手法としては難しくはない、既存の作品の逆を容赦なく突いていけばいいだけの話だから一定の技量があれば誰にでもできる。
でもそんなものが決して「王道」にはなり得ないし「深い」わけでも「緻密」なわけでもない、だから私のなかで『鬼滅の刃』ならびに竈門炭治郎という主人公は『機動戦士ガンダムSEED』と似た位置付けになった。
ここまで書いて私のなかでようやく引っかかっていた蟠りが氷解して腑に落ちたのだが、だとしたら尚更こんな眉唾物を崇め奉ってはならないとも思えてしまった。

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