結婚は結局女にしか得のない、男には不利な糞システムである
アベマの討論番組ってそもそも「それ論題として成り立ってねえよ」というものばかりだが、そういう番組の体質もあってかまともな論客が1人も居ない。
所詮数字が稼げればそれでいいのか、単に頭も尻も軽いバカ女どもが寄ってたかって1人の男を集中攻撃しているだけの不毛な議論ばかりで、内容自体はさして面白くもないものばかりだ。
しかし、こういうバカ女どもの底の浅い感情論を見るにつけ、それを諦めることなく上手くいなし、時にズバッと正論で返す呂布カルマは大人な対応をしていると思う。
まあとはいえ、『ドラゴンボール』に例えるなら超サイヤ人に戦闘力5のゴミが束になってかかっているようなナンセンスさで勝負にすらなっていないのだが。
こういう時改めて思うのは、あまりにも知性や教養に差がありすぎるとそもそも会話がまともに成り立たないのだなあということである。
みりちゃむは「男はバカだから」といっているが、そうやって言っている時点で自分はバカな男しか捕まえられない残念な女だと白状しているようなものだ。
なにやら最近は罵倒系ギャルとして人気を博しているみりちゃむだが、私は彼女の反骨精神なるものは認めているが、それに対して知性と教養が伴っていないから見るに堪えない。
討論番組をやるならやるでもっと本を読むなり何なりして勉強して己の知見を深めてから物をいえと言いたくなる、そもそもお前は討論番組に出られる知的戦闘力なんかねえぞと。
ディベートはあくまでも知的格闘技、肯定側にせよ否定側にせよ常に建設的かつ冷静沈着な客観性ある議論が出来なければ、そもそも討論にならないのである。
私は朝生にしろテレビタックルにしろ、そしてこの論破王にしろ全く面白いと思ったことがないのは論題も討論の内容も論客も低次元過ぎて飲み屋談義・井戸端会議にすら劣るからだ。
この女たちの意見は全て主婦の井戸端会議レベルでしかなく、よく日本で一番下品といわれる大阪のおばちゃんレベル未満のことしかいえていない。
世間一般とか「女から見た男のイメージは」だのといっているが、大体こういう手合いに対しては「所詮それってあんたの主観だろ?」といってしまえばおしまいである。
まあ少なくともこの討論会に出ている女たちはゆんも含めて「夫を立てる」ことが出来なさそうな女たちばかりだが、前置きが長くなったので本題に入ろう。
この一幕を見てもわかるが、結婚とは結局女にしか得のない、男には不要な糞システムであるということが見て取れる。
「尻に敷かれる」云々の話をしているが、取り繕った綺麗な言い回しをしているだけ、この女たちが言ってることは要するに夫を自分の配下として管理・支配したいだけなのだ。
言葉の端々に、そして何より顔つきや目つきにそれが見て取れる、この人たちは自分の旦那さんを思い通りにして従ってくれることで優越感を得たいだけなのだと。
よく、「結婚は人生の墓場」といわれるが、それは殆どの場合「男にとって」という但し書きが入ることを念頭に置いておく必要がある。
この動画でメンタリスト・Daigoが結婚することによってどのような変化が起きるかを、どの程度信憑性があるかは疑わしいところがあるがまとめてくれている。
具体的には以下の通り。
協調性が低下する(男女共通)
誠実性が高くなる(男性のみ)
開放性が低くなる(女性のみ)
外向性が低下する(男性のみ)
神経症的傾向が低下する(女性のみ)
これらの特徴が仮に真であるとするならば、男性にとって結婚は明らかにデメリットの方が多いシステムだということになりはしまいか?
男女ともに協調性が低下して、男性は真面目で誠実になる反面外向性が低下し、女性は開放性(知的好奇心)が低下して精神的安定を得て気が強くなりやすい。
つまり一つ屋根の下で他人同士の男女が結婚して暮らすことで女の方が権力が強くなって男の立場が弱くなるということがこの動画によって具体的に可視化されている。
なるほど、要するに男が弱体化し女が強化される環境を合法的に作ってしまったのが「結婚」であり、だから私は結婚なんて真っ平ご免なのだ。
「結婚」という漢字の中に「女」はあるが「男」がないことに気付けるかどうかもまた大きなポイントになる。
「婚を結ぶ」と書いて「結婚」であり、「婚」という漢字は「両手をしなびやかに重ね、ひざまずく女性」の象形と「人の足元に日が落ちた」象形で成り立つという。
日とはこの場合太陽=男という風にも取ることができ、高みに居た男が女の側に降りて女と結ばれるということを意味するのだ。
ここからして結婚とは不平等かつ窮屈な仕組みでしかないことが窺える訳であり、私に結婚願望が全くないのもそれが理由である。
実際、結婚した同級生を見ていると男も女も結婚前の魅力や輝きといったものが悉く失われている場合が殆どだ。
もちろん男女が双方にきちんと話し合い、お互いを尊重して立て合うことができるならば結婚というシステムをプラスに帰ることはできる。
しかしそれがきちんと実践できている夫婦がどれだけいるか?という話になり、私が見るにそれができているのはカジサックくらいであろう。
カジサックの場合は奥さんの尻に敷かれる道化(ピエロ)であるという立場を上手いことキャラクターに昇華しており、それが梶原雄太の人物像ともマッチしている。
奥さんもしっかり者のアゲマンだし、子供たちもきちんと躾が行き届いているが故に素晴らしいが、あのような成功例は世にあまりないであろう。
大体の場合、結婚というシステムはマイナスにしかならず、ましてや攻撃力や外向性を売りにしたい男にとっては不利な要素しかない。
それを示すように、それこそ『ドラゴンボール』を例に出そう、サイヤ人編の次のシーンはわかりやすく「結婚生活がどんなものか?」を示している。
そう、チチは結婚前のキラキラ感や輝きが失われ所帯染みてきて、ひたすら悟飯に勉学を押し付け悟空に働けと強制するかかあ天下になった。
決してチチが悪いといいたいのではない、悟空みたいな明らかに結婚生活が向いていない男を強引に女とくっつけてしまった結果がこれである。
まあでも皮肉なことに、そのおかげで孫悟飯と孫悟天という突然変異みたいな天才が生まれてしまった訳だが、私は子供心にこれを見て結婚に何の夢も見れなくなった。
結婚してしまうと行動が制限され自分の好きなことに打ち込めなくなるし、奥さんにも子供にも余計なエネルギーを使わないといけないのかと悟ったのである。
そしてもう1つ、結婚によって大きく変化したのはベジータであり、ベジータはナメック星編までの尖りが結婚したことによって失われてしまった。
そう、確かにベジータはブルマと結婚しトランクスやブラという子供を設けたことで劇中屈指の良識人みたいな変化を遂げる。
上記の例で言えば誠実性は高くなった分協調性と外向性が低下し、ブルマもまた開放性が低くなってチチのように気が強くなった。
ブルマも元々気が強かったが、トランクスを生んでから物語の中心に出てこなくなったもその影響が多少なりあるからではなかろうか。
はっきり言って、私は人造人間編から魔人ブウ編にかけて丸くなったベジータは大嫌いである、何の魅力もない。
ファンはこの丸くなったベジータを見て感動するらしいが、私はナメック星編までのあの上昇志向と野心に燃えながら、それを知性でコントロールして自由に動き回るベジータが好きだったのである。
それが結婚して攻撃力が失われ、円熟味は増したのかもしれないが、一方で攻撃力を失いつまらない男に成り下がってしまったものだという風にも思えてしまった。
だから、私は未だに画像の「お前がナンバーワンだ」が好きではない、悟空を追い越すのを諦めた敗北宣言に見えてしまうから。
その意識は何より原作者の鳥山先生にもあったのだろうか、完全版では最終回に以下のコマを付け足している。
そう、悟空を追い越さんとする闘争心を僅かながらでもベジータに取り戻させており、そして最新作の映画「スーパーヒーロー」では遂に悟空を超えさせてすらいた。
ベジータは家庭から離れてビルス星で修行に打ち込む中で遂に変身なしの基礎戦闘力で悟空を超えることに成功したのである。
これが実現した時、やはり鳥山先生の中でベジータが丸くなってしまったことに対して多少なり忸怩たる思いがあったのかもしれない。
話を戻して、以前にも話したが、私はよほど劇的な奇跡でも起きない限り、結婚という選択肢はないであろう。
抱えるものを強さに変えられるような性格ではないし、やっぱり一度きりの人生だから自由に生を全うしたいものである。
実際、映画評論家として生涯独身を貫き通した淀川長治のような例だって沢山あるのだから、今後も私は守らず常に前のめりに攻めていきたい。
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