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『星獣戦隊ギンガマン』第七章『復活の時』
◾️第七章『復活の時』
(脚本:小林靖子 演出:田崎竜太)
導入
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「毒に覆われた街を救うため、自らの命を犠牲にした五星獣。自在剣・機刃に秘められた大きな力の謎も解けないまま、ギンガマンも地上も悲しみに包まれていた」
前回に続き、不穏な空気を漂わせながら始まる今回はギンガイオー初登場回だが、単なる1号ロボ誕生回というだけではない出色の名編にして、序盤の小さな総決算というべき傑作である。
本作は第一章〜第六章まで抜かりなく基礎土台の深掘りに時間をかけ、敵味方共にキャラクター描写から基礎的な設定の考え方から、全てにおいて強固なバックボーンを形成・蓄積してきた。
その上で今回は本来登場予定のなかった1号ロボに焦点を当て、それをもって「ギンガマンとは何か?」という作品の土台の完成がギンガイオー誕生のカタルシスという形で集約される。
歴代戦隊の中でここまで劇的な1号ロボの登場は他にはなく、しかも安易にたどり着いたのではなく、その中でバルバンとの攻防やギンガマンが命を賭けるリスクなども描かれているのだ。
そしてこれまでは単なる「子役のセミレギュラー」でしかなかった青山勇太少年が物語の中心に関わり出し、後半には星獣から貰った石を使ってバルバンの作戦を阻止するに至っている。
単なる「視聴者代表」というメタ的な意味だけではなく、演じる早川翔吾の演技力はもちろんギンガイオー登場までの二転三転するストーリー展開はわかっていても見事な見せ方である。
これが成功するのもあくまでギンガマン5人のヒーロー像・星獣の強力な存在感・青山少年との交流・バルバンの悪辣さ・アースの強大さなど全てを必要十分に示してきたからだ。
ここまでバックボーンが強固な作品というと、やはり私の中では他に『電撃戦隊チェンジマン』『鳥人戦隊ジェットマン』位であり、いずれもが「考え方」「見せ方」「やり方」の全てにおいて完璧に一貫性がある。
逆に言えば、序盤で丁寧かつ深い基礎土台の構築を怠ってしまうと遅れを取り戻すのに最低2クールは平気でかかるし、現に前作『電磁戦隊メガレンジャー』はそれだった。
見所はもちろんギンガイオーの圧倒的な初陣なのだが、他にも細かいところで見ると、朝令暮改のバルバンの作戦の一貫性の無さや解き明かされる機刃の謎なども見所だろう。
そして何より、星獣復活の為に命を賭けながらも「死なない」と自己犠牲をきっぱり否定するギンガマン独自の使命感、ラストで絆が強まるギンガマン5人・五星獣・勇太のカットも素晴らしい。
これは最終章まで含めてになるが、ある程度前倒しで語っておくと、本当に「ギンガマン」は戦隊シリーズに限らず「ヒーロー作品」としては綺麗な模範と言っても過言ではない。
画面から滲み出る人柄の良さもそうだが、その中に厳しさもあれば悪辣さもあり、そしてまた優しさもあるなど前作までをも踏まえて「王道中の王道」というべきクオリティの高さである。
脚本・演出共にトロイカ体制であり、脚本が小林靖子・武上純希・荒川稔久、そして演出が田崎竜太・辻野正人・長石多可男といずれも連携が完璧で全く無駄も隙もない。
今回は一周回って田崎竜太監督だが、やはり田崎監督は第二十五章・第二十六章がそうであるように新しい展開を作るのに一番向いている。
後年になると、たとえば『未来戦タイムレンジャー』以降の小林靖子メインライターの戦隊は彼女の癖が強すぎて、他の脚本家がその癖の強さについていけなかった。
それに比べれば、本作は彼女の癖の強さをうまく髙寺成紀が制御しているし、また髙寺成紀も後の『仮面ライダークウガ』『仮面ライダー響鬼』前半に比べればそこまで色を強く出していない。
癖の強い天才職人が組んでいながら、決して強くなりすぎず絶妙なバランスに収まっているのがなんと言っても本作の見所ではなかろうか。
自在剣・機刃の謎よりも「転生」という言葉の重要性
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今回の見所はなんと言っても星獣合体・ギンガイオーのカタルシスだが、そこに至るまでの細部にも欠かせないものがあることを注目しておきたい。
特に前半はギンガイオーの赤みがかったフラッシュフォワードと白黒のフラッシュバックを交えつつ、勇太が貰った星獣の星の石から放たれるエネルギーが機刃に集まってとんでもない力を放つカットが凄い。
前回の話はもちろん、第四章で描かれた「アース=大自然の力」が改めて今回リョウマたちでは制御しきれない強大な力であることの説得力にも繋がっている。
そして機刃の謎を明かすときに、モークが言っていた次の一言に是非注目したい。
「もし成功すれば、今まで以上に凄まじいパワーを持つことになるだろう。新しく生まれ変わるといってもいいかもしれない」
直接的な言及はないのだが、モークのこの言葉がわかりやすく「転生」の意味を言い換えてくれていると言っても過言ではないだろう。
なぜここに注目すべきなのかというと、第一章からそうだが「ギンガマン」という作品においては「変身」「チェンジ」「転身」ではなく「転生」という言葉を使っているからだ。
「転生」という言葉は英語で書くとRebirth、すなわち「生まれ変わる」ことを意味するのだが、本作には後半に出てくる黒騎士を含めて「転生」が相応しい戦士たちばかりである。
まずギンガマンについてだが、彼らの「転生」とは「生身の状態では使えない特殊能力=アニマルアクションの付与」にこそあって、「獣の力を身に纏う」ことを意味する。
転生することで戦意高揚させて本能を覚醒させるわけだが、これを踏まえて今回の銀星獣にも「大転生」という言葉が宛てがっているのもそういうことだ。
一度仮死状態に陥り、星獣パワーを機刃の力を通して身に浴びることによって生身の星獣から金属の力を纏った銀星獣という別物へ生まれ変わるのである。
まさに仏教の「輪廻転生」の考え方に近いものであり、正しい意味で「転生」という言葉を用いていることを今の時代だからこそ改めて注目しておきたい。
特に2010年代後半に入ってからいわゆる「異世界転生」なるジャンルが台頭し始めたのだが、あれのせいで「転生」という言葉が安売りされるようになった。
最初のうちは「転生」を正しい意味で使っていたのだが、それがジャンルとして定着すると単なるオタクの妄想を具現化したようなものばかりになる。
すなわち「死のリスクと引き換えに強大な力を得る」のではなく「現実世界ではうまくいかないから異世界で理想の自分になる」というものばかりだ。
私がボロクソに扱き下ろした「異世界転生レッド」もその延長線上にあるものであって、深いところまで考えていないからこういうことになる。
そういう意味で「ギンガマン」は決して近年のなろう系を中心とした「異世界転生もの」なんぞとは根本的に異なるものとして挙げておきたい。
きちんと正しく訓練を積み、真っ当に下地を整えた上で器に合った強大な力を手にすることにこれ以上なほどの説得力がある。
自在剣・機刃の謎自体はさして面白みのあるものではないが、「転生」の概念をきちんと面白さに昇華していることはそれだけでも評価したい。
「自己犠牲の否定」を根底に持つギンガマンのヒーロー像
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さて、それを踏まえた上で重要なのはギンガレッド/リョウマが改めて勇太少年を相手に宣言する次の言葉だ。
「そうさ。俺たちは死ぬわけにはいかないんだ。必ず生きて、星獣たちと一緒に新しい力を手に入れてみせる!」
レッドが口にしたこのセリフは単なる「勇太少年との約束」というだけではなく、ギンガマンというヒーロー像の「根幹」が第四章とは別の形で示されたと言えるだろう。
第三章でリョウマは「俺たちは必ず地球を守る!そして平和になった地球にギンガの森を戻す」と星獣たちに宣言し、そして第四章ではモークからヒカルに「アースとは何か?」を伝えた。
「星から借り受けし力、それは無限だ。そのアースを生かすも殺すも、後は君の心次第だ。立て!自分の心でアースを掴め!」という台詞は今作の「考え方=脳のOS」となる。
その2つを踏まえた上で今回は明確にリョウマの口から「俺たちは死ぬわけにはいかない」と言語化することによって、戦隊シリーズは明確に「自己犠牲」をきっぱり否定したことになるだろう。
歴代で「ギンガマン」以前に自己犠牲を否定するようなことを言ったのは『鳥人戦隊ジェットマン』最終回の天堂竜だが、竜の場合はあくまでも「疑義」であって「確定」ではない。
「やるんだ凱!全人類の……いや、俺達の未来がかかってるんだ!」
この台詞は確かに自己犠牲に対して異を唱えた名台詞だが、あくまでも自己犠牲への「懐疑」は投げたがきっぱりと「否定」してはいなかったし、その後の戦隊も似たようなものだった。
どこかで昭和時代の自己犠牲万歳のヒーロー像から逃れることができなかったわけだが、その止まっていた針を明確に動かしたのがギンガレッド/リョウマではないだろうか。
「死んでも構わない」のではなく「未来を生きる」ための覚悟・決意の言葉であり、これは最終章まで含めて「ギンガマンとは何か?」を示す名言である。
星から借り受けし強大な力は決して「恩恵」ばかりをもたらすのでははなく、時としてその力自身がギンガマン側にとって弊害にもなりうるものだ。
単なる「大いなる力には責任が伴う」なんて生易しいものではなく、いくら転生しているとはいえ星の力をそのまま機刃伝いで受け止められる戦士がどれだけいるか?
だからこそ勇太少年だって止めようとするしモークとしても止めようとするのは当たり前のことだが、リョウマたちはそんな94%側の考えに耳を貸すわけにはいかない。
あくまでも上位6%の考え方をしているからこそ、それも「自己犠牲ではない形の使命感」という上位6%どころか0.1%位の考え方=脳のOSだからこそ、ギンガマンはこういうヒーローになるのだろう。
綺麗事といえば綺麗事だが、それを可能にするだけのスキル面での「強さ」と精神的な面の「強さ」の両方が「実力」として備わっている本作は本作にしか描けないものをきちんと描けている。
この姿勢がどれだけ本作で襲いかかる試練が辛く険しいものにおいても徹底されており、だからどれだけ倒れても立ち上がって常に上を目指し続けるのだ。
どこまで行こうと本作は徹底してブレない、それが表層としても表層の裏側にある根幹としても一貫しているからこそ、映像から物語から全てにおいて美しい。
この美しさはあらゆる王道戦隊の中でも本作のみが持ちうるものであり、私が頭ひとつ抜けて素晴らしいと思える最大の理由なのだ。
朝令暮改のバルバン側の作戦変更
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そんな風にギンガマン側が全くブレがない一方で、ブレまくりなのがバルバン側であり、前回の失敗かの反省の学び方がまるでなってなくて、変な方向にズレてしまっている。
今回も最初は「石化した星獣の石を砕いて、その破片でダイタニクスを復活させる」はずだったのに、途中で樽爺の横槍により「星獣復活のエネルギーを奪う」に変更されてしまった。
ここが大きな違いであり、ギンガマンはあくまで星獣の復活に尽力しているのに対し、バルバンは相手のエネルギーを奪う方向へと作戦を切り替えている。
よくいえば「柔軟性がある」、悪くいえば「考えなしに勢いで動いている」ともいえ、こういうところもまたバルバンの敗因になっているともいえるだろう。
正確にいえば、バルバン側には「ダイタニクスを復活させる」という目標があって、その復活に必要なエネルギーを現段階では集めているわけだが、現場レベルでコロコロ作戦が変わっている。
しかも今回の場合は分の悪い賭けだったために、無理無茶無謀を働いたことが裏目に出てしまい、しかも青山勇太が星獣の星の石を投げたことで阻止されてしまった。
ブクラテスは後半に入ってもそうだなのが、根本的に「知恵袋」としてならSクラスなのだが、参謀としての適性はからっきしという、『テニスの王子様』の乾貞治みたいなやつである。
要するに「知識を集めること」だけが趣味みたいなものであり、それを「どのように実践に活かすのか?」までを想定していないためにサンバッシュとの連携もうまくいかない。
悪の組織がなぜ負けるのか、それは結局のところ負けるやつの考え方を無意識に選択してしまっているからなのだが、それを「概念」として示したのが「ジェットマン」のバイラムである。
その「バイラム」が脱構築という形で露呈させた「悪の組織が負ける理由」を本作では「再構築」として、バイラム以上に高解像度化して悪の組織が負ける理由の本質を炙り出しているのだ。
正に「勝てば官軍負ければ賊軍」「勝ちに不思議の勝ちあり負けに不思議の負けなし」なのだが、バルバンは歴代で最も色濃く視聴者のインパクトに残る形でそれが示されている。
今回でいえば自在剣・機刃のもう1つの力を把握していなかったという情報不足、さらには相手の力さえ奪って仕舞えばダイタニクスを復活できるという思い込みあった。
そして何よりも青山勇太少年という思わぬ伏兵の存在を見逃していた、すなわち想定外の存在に負けるはずがないという思い込みが今回の作戦の失敗を招いたのである。
どれだけ個々の魔人のスペックが優れていようとも、考え方=脳のOSの部分がしっかりできなかったらただのハリボテでしかないことがわかるだろう。
サンバッシュもブクラテスも決してバカではないし良いところも突いているにもかかわらず、肝心要の詰めが甘いが故にギンガマン側に逆転されてしまうのだ。
作戦変更すること自体は大した問題ではなく、明らかに成功確率の低いことに感情基準で賭ける杜撰な選択が負けてしまう要因である。
星獣合体・ギンガイオーのカタルシス
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そして今回の見所である星獣合体・ギンガイオーのカタルシスだが、まず演出上のことでいうと、『恐竜戦隊ジュウレンジャー』の大獣神、『五星戦隊大レンジャー』の大連王、『忍者戦隊カクレンジャー』の隠大将軍のハイブリッドである。
大獣神からはデザインの配色と並走のカットを、大連王からは洗練された無敵感の演出、そして隠大将軍からは上半身4つ、下半身1つという合体機構をそのまま取ってきているのだ。
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90年代前半の戦隊を象徴して活躍してきた各ファンタジー戦隊のエッセンスをバランスよくいいとこ取りで継承してきたが、本作は単なる「いいとこ取り」で終わるわけではない。
ここからさらに驚きなのはまずフルCGを用いての合体機構なのだが、少なくとも次作「ゴーゴーファイブ」のビクトリーマーズから見られる安っぽいCGとは重厚感・質感・立体性共に全く違う。
効果音やカメラワークの素晴らしさもあるのだろうが、この合体バンクは非常に立体的かつ引き算思考で作られているためか、この一体でデザイン面・性能面ともに無駄なく完成している。
しかも最初から銀凱剣を装備しており、それがまた「バルバンを何としてでも倒す!」という洗練された高めの殺意が現れているといえ、最初の弟は銀河獣王斬りであっさり片付けてしまった。
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箱型ロボットで動きが少ないにも関わらず、切り込みのカットを入れて凄さを演出し、尚且つ敵側の反撃にも一才怯むことなく威風堂々の佇まいを見せているだろう。
そして何と言っても、本作最大の特徴だが、後半で強化されるまではガルコンボーガン・流星弾という仕留めの演出が最高に素晴らしい。
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歴代戦隊において銃でも剣でも拳でもない「弓」というのが渋いし、しかもなぜ弓なのかに関しても理屈ではなく感覚として映像で説明できている。
流星弾の演出を見るとわかるが、敵側の心臓を一撃で仕留められるように狙いを定めて急所に簡単に刺さるようにできているというわけだ。
もちろん剣で仕留める演出が悪いわけではない、チャンバラが一番映える演出ではあるし、実際に等身大戦の戦闘シーンでは剣を用いて仕留めている。
だからこそ、巨大戦の演出で剣をあくまで「繋ぎ」として用いて、トドメをゆみにして急所を必殺必中で倒せるように設定しているのも素晴らしい。
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この後にアースを放つこともできるようになるわけだが、見かけのシンプルさと共に凝ったギミックと安っぽさを感じさせない重厚感とスピード感を両立した演出が最高だ。
そして何よりこのギンガイオー初登場シーンをもって戦隊1号ロボの初登場の演出は完成を迎えたわけであり、尚且つギンガマンというヒーロー像と作品の土台も完成を迎える。
序盤の土台や小さな目標設定を「ギンガイオー誕生」へと繋げていき、またそこに至るまでの演出のリズム・カメラワークの全てにおいて完璧なまでに収まった。
もちろんギンガイオーよりデザインがかっこいいロボも、そしてギンガイオーより強いと感じるロボもいくらでもあるだろうが、本作ほど「神秘的かつ劇的」な1号ロボは存在しない。
総合評価はS(傑作)100点満点中110点としておこう、カタルシスは見事だがまだこの程度でも序の口である。