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「オタク」という言葉を肩書き・権威のように誇示する奴は信用ならないというお話

そういえば、以前にとある界隈で批評活動の真似事をしていた頃、私は「オタクを毛嫌いしている人」と言われていて、実際今でも「オタク」なるカテゴリに属する人種、またはそれを安易に使う人を眉唾物だと思っている。
しかし、少なくとも私たち世代まではどちらかといえば蔑称として用いられていた言葉が今ではまるで肩書き・権威であるかのように恥じらいもなく使っているのを見ると強烈な違和感を覚えるのだ。
それどころか、最近では有名芸能人やインフルエンサーですら「オタク」であることを隠そうとすらせず堂々と誇示していることに対して強烈な抵抗感を覚えるのは私だけなのだろうか?
なぜ私がそう思ったかというと、今ではすっかり交流のなくなったとある方にX(旧Twitter)でこんな返信をされたことがあるからだ。

オタクの誇りです。

こんな言葉を冗談やネタではなく本気で言っているのだから私は面食らってしまった。そして瞬時に理解する、「そうか、こいつは所詮「オタクである自分」に縋ることでしか存在証明ができないのだな」と。

「オタク」というのはもともと蔑称である。それを逆手に利用し、オタクは素晴らしい、世界に誇る日本の文化だ、とアピールしてきたつもりが、世間様のほうはというと、一体どのような土壌があってこそのオタク文化が花開いているのかについて、全く理解なさっていないし、なさろうともしていない有益なものも有害なものも含めて文化なのであり、有害なものだけ取り除いて有益なものだけ育てようとしても枯死するだけだ、ということが全然分かっていない。

ここで触れられているように、「オタク」という言葉はかつて「何か特定のジャンルに熱狂している人たち」を世間一般の人たちが後ろ指差して嘲笑する侮蔑の意味を持った言葉であった。
少なくともオタク第一世代と言われた初期しらけ世代(代表は庵野秀明・今川泰宏・押井守など)にとっては間違いなくそういう否定的な意味・ニュアンスとして用いられていたわけである。
庵野の代表作『新世紀エヴァンゲリオン』を見ればわかるが、あれは結局のところ「漫画・アニメにしか範を取れなかった自分自身の不甲斐なさへの忸怩たる思い」が現れた作品だ。
それが根っこのところで90年代後期の暗い世相や若者の沈んだメンタリティーと深いところで繋がっていた(ように思われる)から刺さる人には刺さったのである、私は全く刺さらなかったが。

そのように考えると、私に向かって堂々と「オタクの誇りです」なんて言葉を使った若者は一体何を意図してこの言葉を吐いたのかがわからない、かつてはそういう意味があったことを知っているのか?
知っていて敢えてプロレスとしてやっていたのだとすれば理解できなくもないが、知らずしてそういう言葉を惹句のように使っていたのだとすれば、軍神のところに行って国語ドリルをやり直してこいと言いたくなる。
まあ意味としてはおそらく「ここはオタクとして譲れないポイントだ」ということを言いたいのだろうが、それならもっとうまいこと婉曲的に言えないのか、引き出しが少なすぎると思えてならない。
第一、私は「オタク」に限らず何かを自分の肩書き・権威みたいに誇示する人、マウントを取ってこようとする人のことを全員そうだと思っているのだが、いつから「オタク」がそんな安っぽい言葉になったのか?

以前に書いたこちらの記事も意味するところは似たようなものであり、「スーパー戦隊の専門家」「スーパー戦隊博士」と言われることに対して違和感が付き纏うのもどこかで「オタク」と呼ばれているのと同義だと思えるからだ。
もちろんその言葉を私に向かって発した本人たちにその意図はないのだろうが、少しでもそう思わせてしまった時点でダメなのである、大人の世界は「そういうつもりじゃなかったんです」が通用しない。
逆にいえば、これらの言葉を発する人たちがいかに普段からきちんと言葉の意味を考えもせずに発信しているかがわかるし、また脊髄反射のように紋切型の返ししかできないのかということもわかってしまう。
私に向かって「戦隊キャラをMBTIで分けるキチガイジジイ」という言葉を放ったえるある子も似たようなものだ、あいつのセンスゼロの呟きを見ればいかに言語化能力に際して重要な「語彙力」が研磨されていないかがわかる。

そもそも「オタク」という言葉はあくまで他人が勝手につけるものであって自分で言う言葉ではないし、ましてや「水戸黄門」の印籠みたいに「この紋所が目に入らぬか!」と見せつけるものではない。
まあ日本人自体が権威に弱い民族だからそういう風潮があるのは仕方ないとはいえ、結局のところ何かを主張する際に肩書きや権威のようにして「オタク」を自称する人に碌な奴はいないと言うのが私の持論である。
それこそ、タイムレンジャーオタクだった江ノ島(現えの)だって、私と交流していた時は「ヒュウガ・クロサキを超えたい」と言う割に実行が伴っていない「口だけ人間」の典型だ。
そりゃあ親友の黒羽翔さんがそいつらと縁を切ったのも納得である、口で私に対してご高説垂れる割に自らは何も説得力のある言論や論証をきちんとできていないのだから。

──『トラック野郎』シリーズなどについては、若い世代からもすごく人気がありますが、ただそれは、語弊があるかもしれませんが、タランティーノ流というか、キッチュとして消費していこうという、また別の流れでもあると思うんです。たとえば僕の友人で、第何作のどのカットで菅原文太の腹巻きがどうというようなことを延々と語ってくれるのがいるんですが、一方でそうしたフェティッシュ化の方向もありますね。

蓮實:そうでしょうね。映画批評家とそうでないひとの違いは何かというと、そうでないひとたちはそういうことばっかり憶えていて、クイズでもやったら彼らのほうが絶対に強い。フランスにもどこにでもいますよ、あの場面で誰がどうしたっていうのを全部憶えているひとたちが。でも、彼らはその存在を映画に快く保護されているいわば好事家ですね。骨董品のあそこが欠けているのがいいというのとほとんど同じことです。でも、骨董品ではなくてそれは茶碗なんだから、それで茶を飲めば美味いじゃないかというふうにはなかなかいかない。つまり、好事家には映画を存在させようという意志が皆無です。映画の存在は、彼らにとって自明のことなのです。批評家たちは、何歳になっても映画はそのつど驚きの対象であり、決して自明の事態ではありません

──フィルム・スタディーズの領域でも似たようなことがいえるのではないでしょうか。重箱の隅からなにから、満遍なくあらゆるものを見たとはいうけれども、ただ映画の現在とは決定的に切り離されてしまっている場合が多いと思います。

蓮實:フィルム・スタディーズにはふたつあるような気がする。アメリカのフィルム・スタディーズは研究者たちがお互いに評価されればそれでいい。それが社会に踏み出して映画を擁護しようなどと金輪際考えていないひとたちが書いている。

あまり先人の言葉を借りるのもどうかとは思ったのだが、それこそ蓮實重彦の言葉をありがたく拝借させていただくなら、今現在のスーパー戦隊を語っているそこら辺の連中は「フェティッシュ化した好事家」と呼ぶべき存在であろう。
アニメ・漫画・特撮に限らず映画・音楽にも批評家とオタクの違いは似たようなものだろう、大きな違いは「その作品を社会に存在させよう。擁護してやろう」という意思がそこに見られるかどうかである。
残念ながらスーパー戦隊シリーズに関してだけを見ても、一人の淀川長治はおろか一人の蓮實重彦・山根貞雄・山田宏一すらもいないのが悲しいところだ。
少なくともスーパー戦隊シリーズが「自明」ではなく「驚き」「衝撃」「刺激」となるような、心の部分にそういう感性を細胞レベルで持っていない人にスーパー戦隊は語れない。

今やスーパー戦隊シリーズは「あって当たり前」のシリーズとなっている、もはやその存在が見るものの感性を刺激し戦隊を擁護しよう、存在させようと思わせるだけの訴求力はないのだ。

以前にこの記事に対してこんなコメントを寄越してきた人だってそうである。

「視聴率が取れないのは当たり前」「ネット流行語になる」「2週連続でトレンド1位になる」だのといった内輪レベルの盛り上がりを根拠に「今のスーパー戦隊だって面白い」と反論されても微塵も面白くない。
さらに「時代が変われば僕らも変わらないといけません。クロサキさんも令和に切り替えましょう」だのと偉そうに人様に対してご高説を垂れる割には、じゃあ何が今の時代の価値観で、どう切り替えればいいのかは全く示されてないのだから失笑ものである。
他人に対して変わることを偉そうに要求するくせに、じゃあどのように変わればいいのかという代替案は出せていないのだから、単に主観のレベルで見当違いの怒りを見せている程度のことでしかない。

誤解のないように言うが、昔から今まで一貫して私は人に対して「ああしろこうしろ」などというような命令・要求をしたことは一度もない
オタクの誇りという私には一生かかっても、それこそ死してその魂がこの世から無くなったとしても理解することはできないであろう感情・概念を持つ人に対してどうこうしようとは思わない。
しかし、心の中で「ああこの人はこうなんだ」と思い、自分と合わないと判断したらそっと距離を置いて関わらない、それだけを繰り返してここまで来た。
それで困ったことは一度もないし、むしろ余計な人間関係の損切りが出来てスッキリしているから関わらなくてよかった肯定しているのだが。

オタクであることが悪いのではなく、オタクという言葉をその意味も熟慮せずにまるで己を権威づけるための鎧・理論武装であるかのように使っている様が愚かしく滑稽なのである。
不良の喧嘩自慢や不良更生を美談めかすのと同じことであり、本来は自慢すべきでないものを自慢していることの滑稽さに鈍感かつ無頓着なのが「オタク」と呼ばれる人種の厄介さであろう。

私は昔から今まで、そして今後も一生「オタク」を自称することも、肩書き・権威として振りかざすこともない

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