『仮面ライダークウガ』34・35話は果たして「非暴力」というテーマを適切に表現できているか?
先日の記事で「私自身の「クウガ」の評価はぶっちゃけそこまで高くない、少なくともドラマパートに関しては退屈で見ていられない部分が多く、「タイムレンジャー」に比べるとお粗末だ」と書いた。
『仮面ライダークウガ』に関しては私はややいくつかの疑問を持っているし好きでもないのだが、こと特撮・アクションパートに関しては歴代でも上位に入る出来だと思っている。
その中でもベストバウトの1つとして挙がる34・35話は間違いなく「クウガ」という作品のピークだったのではないか、アクションとしてもお話としても。
もっとも、お話やテーマの部分に関しては微塵も興味がないし鬱陶しいのだが、ことクウガのアクションシーンの完璧さは何度も繰り返し見てしまう程に引き込まれる。
『仮面ライダークウガ』という作品を私が好きではないのは高寺Pをはじめとする作り手の過剰な正義感がややもすれば画面の上に意識され過ぎているのが鼻につくからである。
「非暴力」がテーマであるとし、五代雄介が作品の中でどんどん人外化していくプロセスがどうこうと言われているが、ぶっちゃけ私はそんなテーマに微塵も興味がない。
だって、たかが特撮ヒーローじゃないか。
私は特撮ヒーロー作品が何かのテーマ性やメッセージといったものを代弁する道具だとは思わない、そんなものは仕事というか社会貢献を通して実践すればいいことだ。
しかし、人間という生き物はどうしても複雑なものや高尚さ・難解さを伴うものが好きな生き物であり、何かと思想性が強い作品を高く評価したがる傾向にある。
そしてその逆にある複雑さがないシンプルでストレート・荒唐無稽な作品を過小評価したがる傾向にあるのだが、「クウガ」は正しく前者のように評価され続けた作品だった。
「クウガ」がなぜあのような作品だったかに関しては高寺P自らがインタビューやラジオで度々公言しているが、『星獣戦隊ギンガマン』(1998)のことが影響している。
高寺Pがこれらのインタビューでチラッと触れてはいるが、どうやら彼にとって「カーレン」「メガレン」「ギンガ」の3作、わけても「ギンガマン」を不出来な失敗作と思い込んでいるらしい。
理由は荒唐無稽な東映特撮の紋切型のヒーローのあり方に対して懐疑的で野暮ったいといっており、特に「宇宙刑事ギャバン」「仮面ライダーBLACK RX」に対しては批判的であったという。
何がそんなに気に食わなかったといって、要するに「様式美」という決まり切ったフォーマットの中で定番の「お約束」を繰り返してしまうことの危険性を察知していたのだろう。
これに関しては高寺Pだけではなく白倉Pも同じように考えており、それに関しては「ヒーローと正義」という書物にて触れられている。
4年程前に発売された戦隊シリーズのオフィシャルムックのインタビューでも、「カー」「メガ」に関しては自分の事のように前のめりで嬉しそうに答えている。
これが「ギンガマン」という作品に関しては「〜だと思います」「〜ではないでしょうか」と幾分中立的で他人事のようであまり興味がなさそうだ。
しかし、私自身はだからこそ「ギンガマン」という作品は成功したのではないかと思っている、なぜならあの作品には高寺Pの主観は一切入っていないから。
神は細部に宿るというが、大事なのは「作家」ではなく「作品」なのだから、「ギンガマン」という作品に関しては間違いなくその意味で純粋に「作品」として評価できる。
話を「クウガ」に戻して、高寺Pは「ギンガマン」の最終回で深い感動を得られなかったが、そのことが「クウガ」をあのような作品に仕立てる原動力になったという。
要するに徹底した「非暴力」を訴える心根の優しい青年が古代から蘇った敵と戦い続けていくうちに心も体も病んでしまい、どんどん化け物じみていく物語となった。
そしてその転換点というか暗黒化の契機となったのがこの34・35話でのブチ切れアクションだったわけだが、この回に関しては色んな議論が巻き起こっている。
まず著名人の白倉・切通・國分らは以下のように分析しているそうだ。
これらはリアルタイムではなく後年になってある程度の評価であろうが、一方でリアルタイムで本作を視聴した鷹羽は以下のように主張した。
なるほど、多くの人たちは「クウガの暗黒面」を「畏怖」「恐怖」の対象として捉え、ある者は五代雄介に感情移入し、またある者はそこに社会的なメッセージ・テーマ性を読み込む。
おそらく高寺Pら作り手の意図通りなのであろうが、私自身が「クウガ的なるもの」の象徴として挙げられるこの話を見て感じたことはそれらとは全く異なっていた。
私が感じ取ったことは「いいぞもっとやれ!」であり、クウガが遂に己の中にある抑制を取っ払って明確な殺意を持って敵を倒しに行ってくれたことが嬉しいのである。
それを体現する五代雄介=オダギリジョーと仮面ライダークウガ=富永研司があのカットを持って一体化を果たしたわけであり、私は圧倒的なアクションの快感をそこに覚えた。
むしろあの回でクウガとジャラジのアクションの間に挿入される幼稚園児同士が和解したことを示すあのカットは不要である、明らかにクウガのアクションを阻害している。
これはこの回に限らない「クウガ」の欠点であるが、時間や場所を示すテロップにしろ登場人物の台詞回しやカット割にしろいかにも説明的すぎる画面が多いのだ。
幼稚園児同士が分かり合うことなんて誰も興味はなく、ラストで僅かに仲良く遊ぶカットさえ示せば十分であろうし、またそれをクウガとジャラジの戦いに結びつけるのは無理がある。
私が「クウガ」をいかにも苦手としているのはいかにも「エヴァ」的な「主人公可哀想でしょ?」という同情・共感を誘い込んでくる下品さにあり、私にとってはどうでもいい。
何故ならば私は碇シンジでも五代雄介でもないのだし、「クウガ」の世界で起きていることはあくまで画面の向こうのフィクションなのだから、完全な創作の世界である。
だから五代雄介があの時本気でグロンギに対してブチ切れた感情面がどうだったかなんてどうでもいいし、また「非暴力」のテーマ性にも興味がない。
むしろ「暴力」として見るのであればあのシーンは完全な見世物ではないか、だって痛さを感じさせないデザインのスーツを見に纏って殴り合ってるんだから。
ジャラジのスーツアクターが流した血は本物らしいが、それがあのアクションの評価に直結しているかといったら別にそうでもない。
むしろ私が暴力というものの怖さや狂気を画面を通して教えられたのは北野武映画やスコセッシの映画を通してである。
例えば北野武が初監督として作った「その男凶暴につき」(1989)はその塊みたいなものであり、まず冒頭のシーンがそれを表しているだろう。
ホームレスを集団でいたぶってなんの罪悪感もない少年の1人を北野武演じる凶暴な刑事が無言で家に上がり、部屋でいきなり鉄拳制裁である。
少年はすっかり怯えて何もできなくなっているが、たった5分で「クウガ」よりも寡黙な雄弁さをもって暴力の怖さが表現されているであろう。
もっともこれはまだ「刑事としての勧善懲悪」として少年を懲らしめる因果応報としての建前があるが、北野映画の暴力の突発性・狂気は「クウガ」の比ではない。
むしろ生身の人間が正義云々関係なく、また物語の流れを問わずいきなり暴力を振るい無抵抗でやられるため、された側は何もできないのだ。
東映特撮のスーパー戦隊・仮面ライダーは所詮どれだけリアルっぽく近づけようと、生々しさを表現しようとも「暴力の怖さ」までは表現できない。
「正義」によって綺麗にコーティングされ、たとえそれが正義を通り越した暴力になろうとも、強化スーツを身にまとう限りは「正義の鉄槌」として正当化されうる。
クウガの怒りによる暴走にしたって、そこに至るまでに理由がきちんとあるし物語で抑制されているため、やはりどこまで行こうと「正義の鉄槌」の範疇からは抜け出ない。
止めを刺す時は針を無効化するために紫色のタイタンに変身して剣で腹をぶっ刺しているのだから、むしろ英雄的行為となっているのではなかろうか。
個人的に東映特撮で「暴力の怖さ」を一番感じたのは同じ高寺Pの『激走戦隊カーレンジャー』なのだが、何故かというとこれは北野映画に近い構造だからだ。
宇宙暴走族ボーゾックは自分たちの私利私欲のためにあっさりと星を花火にしてしまうし、カーレンジャーもカーレンジャーで5話ではボーゾックの襲来を楽しみにしている。
また6話では菜摘と洋子が仲間割れを起こした時に背後で何百人もの命が失われており、ギャグのためなら人命なんか失われても構わないというドライな倫理観の壊れ具合だ。
悲劇的に人が殺されて悲しむよりも喜劇的にゲーム感覚で暴力を振るわれ命が失われることの方が余程恐ろしい気がするのは私だけなのだろうか?
そういう意味で『仮面ライダークウガ』という作品における「非暴力」というテーマは(少なくとも私には)刺さらなかった。
しかし、グロンギをいざ本気でぶっ殺しに行くクウガの殺意は今見直しても本物で、それが富永研司のバタ臭いアクションでよく表現されている。
今こそもう一度「アクションとしての仮面ライダークウガ」を再批評すべき時が来たのではないか。