『電子戦隊デンジマン』第13話『割れた虹色の風船』
◼️『電子戦隊デンジマン』第13話『割れた虹色の風船』
(脚本:江連卓 演出:竹本弘一)
導入
今回はいわゆる「完全な悪人とは言い切れない怪人」の回であり、ウルトラシリーズやライダーシリーズでもそうだが、シリーズものを続けていく中でたまにこういう「悪役とは言い切れないいい奴」が出てくることがある。
アドバルラーもその1人なのだが、珍しいのは「絆されて味方になる」「裏切る」といった展開や「改心してしまい、最後は悪の組織に粛清される」というありがちなパターンを回避していることだ。
結論から言ってしまえば、今回の話はさして面白みがあるものではなく通俗的ではあるのだが、最後はあくまでも「ベーダーの怪物」としての一線を守って華々しく悪党として散る道を選んだことである。
これがとても良いところであり、個人的にこういう悪役の改心は基本的に見ていて気持ちのいいものではない、何故ならば悪党とはどこまで行こうと「悪」であることを貫き通すからこそ映えるのだ。
00年代以降に入ると特にだが、どうしても「元々はそんなに悪い奴ではなかった」とか「元は人間だった」といったわざとらしい設定を入れて御涙頂戴な展開に持っていこうとする展開が散見されるようになる。
近年だと『進撃の巨人』『鬼滅の刃』なんかがそうだが、例えば敵だと憎んでいたやつが実はそうではなかったとか鬼は元人間で同情すべき余地があるんですみたいな流れにどうしてもなってしまいがちだ。
以前にも述べたが、私はどんなに同情できる背景や悪側にあろうが一旦悪として設定した以上はそこと向き合わずして簡単に敵が仲間になったり絆されたりするような展開には持っていって欲しくない。
そういう意味では今回の流れは個人的にとてもいい流れだったというか、怪しい雰囲気出したおじさんが娘の純真さに絆されて叙情的な流れを醸し出しつつ、ラスト3分できっちりその叙情を断ち切っている。
藤村博士の娘との交流はあくまでも少女にとっての「美しき思い出」で終わらせ、あくまでも彼は「ベーダーの怪人」として華々しく散っていくことできちんと「悪」であるということを徹底した。
そこが個人的には1つ高く評価できるポイントであり、現実問題としてならともかくフィクション・創作の上ではあくまで勧善懲悪は勧善懲悪として徹底して色分けをしてほしいものだ。
悪の組織の一員であることを軽く考えている作品はそういう意味で私の心には全く刺さらないし、どんなにいい流れになったとしても悪は悪としての美学・生き様を貫いて散るのが筋であろう。
その上で今回はカット割といい使っているもののアイデアとその見せ方といい、今まで見た中でとても面白くまとまっていて、評価としてはS(傑作)100点満点中90点は与えられる。
「赤い風船」は映像作品における「恐怖」「ホラー」の象徴
まずなんと言っても注目すべきはこの「赤い風船」であり、映画でもそうだし他のシリーズものでもそうだが「赤い風船」というのはたいてい「恐怖」「ホラー」「不吉」「警告」といったネガティブな意味で用いられる。
わかりやすい例が映画『赤い風船』や『IT/イット “それ”が見えたら、終わり』では露骨にそういう用いられ方をしているし、ライダーシリーズだと『仮面ライダー555』でもそういう用いられ方をしたことがあった。
そう、終盤で啓太郎が長田結花をオルフェノクと知った瞬間に出てきたわけだが、その2人がどんな運命を辿ったのかというと、やはりその恋が実ることはなく啓太郎の与り知らないところで結花は儚く散っていく。
今回の赤い風船は単に物理的に街ゆく人々を失明させる恐怖のアイテムとして用いられていることと併せて、まさに「それが見えたら終わり」とでも言わんばかりの用いられ方をしているというわけだ。
なぜこんな用いられ方をしているのだろうと誰しもがお思いであろうが、まずそもそも私はおおよそ風船という物体そのものが嫌いかつ苦手である、何故ならばゴムがあんなに膨らむこと自体にまず納得が行っていないからである。
そして2つ目に、何よりも嫌なのが風船が割れる時の衝撃であり、特に「パーン!」という強烈な破裂音と共に破けていくその感じが小さい頃からどうしても慣れないところがあり、今でも映像作品で風船が出てくると思わず警戒してしまう。
そういう心理を作り手もわかって利用しているのか、今回はとにかくそこかしこで風船を爆発させて人々を失明させるという一種の突発的なテロ事件を起こしている流れが映像としてなんとも言えない面白さに仕上がっている。
竹本監督の手腕がいい方向に発揮された感じがあり、あんな年寄りめいた爺さんが物理で人を惑わせられるわけがないと思うので、風船の破裂で間接的にというやり方はとても効果的であっただろう。
しかも前回の設定をきちんと回収して緑川の元同僚のチーコの失明までご丁寧に入れていて、前回もそうだし今回もそうだったが、チーコは基本的に不憫な役回りを押し付けられるのがとても似合う(笑)
というのも、スーパー戦隊に限らないのだが、こういうセミレギュラーのキャラはどう頑張っても基本的に「賑やかし」として使うことはできても本筋に絡めるのはとても大変だからである。
一番理想的なのは例えば『星獣戦隊ギンガマン』の青山勇太少年のような狂言回しとしての使い方なのだが、これはあくまでも演技達者な子役だからこそ可能だったというのは否めない。
チーコの場合は大人であるから、大人を狂言回しとして用いるのは戦隊で言えば長官ポジションになることが多く、サポート役としても使えないとなるとこういう巻き込まれの不幸体質にするしかないのだろう。
惜しむらくは今回の話こそ是非とも後楽園ゆうえんちを使って撮って欲しかったというのはあって、例えばあのおじさんがいわゆる着ぐるみで登場して後楽園ゆうえんちの来客を次々失明させる流れだと尚更面白かったであろうに。
名脇役・三谷昇の名演
そして今回の見所はなんと言っても名脇役・三谷昇の名演であり、さすがは全盛期の邦画で黒澤明に起用されたのをきっかけに多くの映画・テレビドラマに出演しただけあって、とてもいい演技をしていた。
私は基本的に役者の演技の良し悪しで評価することはあまりないのだが、今回の場合はお話そのものはごく普通のものであるがために、逆に役者の力量が全面的に試されている構成となっている。
アドバルラーの役所はとても難しく、あまりにもいい人すぎると単なる心優しき老人といたいけな少女の微笑ましい交流にしかならないし、かといって不気味さが勝りすぎるとただの変態ジジイに映ってしまい台無しだ。
正直、コンプライアンスという観点から見ると見知らぬ老人と純真な少女の交流は世間全体が物騒になっている現代においてはそれだけで即座に通報案件となってしまうので、この時代だからこそ許された表現だろう。
その上で個人的に良かったのは少女とアドバルラーの交流が決していやらしいものには見えなかったことであり、例えば小屋のところで少女を三谷昇が抱擁するところはとても攻めた過激なシーンではある。
人によってはとてもいやらしく感じられるだろうが、ギリギリそうなっていないのはやはり三谷昇だからこそそう見えないというのはあって、役者の演技力や色気はこういうところにこそ生きてくるのだ。
これを他の役者がやっていたら下手すると本当に単なるロリコン変態爺さんになってしまいかねないわけだが、そうなっておらずきちんと折り目正しい交流の範囲に収まっているのは好感が持てる。
ベーダー怪物は基本的に変態が多いので、その変態性に関してはもちろん要所要所で出しつつも、少女の前では過度にそれを出しすぎないことで何とかギリギリ子供向けとして収まっているだろうか。
だからこそラストで三谷昇が少女の純真さに心洗われそうになりながらも、それを「行け!」と振り切って少女に悲しい思いをさせないようにし、再びアドバルラーとして「悪」へと戻っていく。
デンジマンと戦う時にはしっかりと「ベーダーの怪物」に戻ることによって、どんなにいい話の流れのように思えたとしても、その叙情をしっかり断ち切ってヒーローとしての活劇に戻さなければならない。
このメリハリがしっかりできているし、また竹本監督の演出もそんな三谷さんに信頼を置いて絶妙な距離感とライティングで映し出すことで、とても理想的な感じの流れに収まっているのではなかろうか。
竹本監督はどちらかと言えばアクションの人なのであまりドラマが得意な印象はなかったのだが、今回はきっちりと「ドラマ」も撮れる人であることを証明していたように思う。
ラストカットでアイシーとデンジマン5人が並走する面白さ
個人的に戦闘後のラストカットは赤い風船を思い出として手放し涙を流して日常へ帰還していく藤村博士と娘さんを見守り、そのあとはアイシーと共にデンジマン5人が並走するカットで締めくくられる。
このラストカットはとても良い画なのだが、竹本監督が何を自覚してこの撮り方にしたのかというと、いわゆる「父と子」なるものをそれぞれの形で画面に収めようとしたのであろうか。
思えばアドバルラーと藤村博士の娘に関しても、最初は娘に取り入って藤村博士の研究所に近づくことが目的だったが、その中で「擬似親子」という側面を醸し出すようになっていた。
それはまたデンジマンとアイシーにおいてもそうであり、あまり表立って描かれているわけではないが、デンジ犬アイシーとデンジマン5人もある意味では擬似的な父と子なのかもしれない。
ちょうど今同時配信の『激走戦隊カーレンジャー』では終盤においてVRVマスターとダップという本物の親子に加えてシグナルマンとシグ太郎もまた一話限定だが地球にやってきている。
そういう意味では「デンジマン」の隠れたテーマとしては「父なき子」というのはあるかもしれない、デンジマンの5人には藤村博士と娘のような本物の親子はいない。
それはまたベーダー怪物にとっても同じであり、今回で言えばアドバルラーもまた「父なき子」だからこそ娘との交流の中である種の父性のようなものが芽生えたと言えるだろう。
しかし、戦いはそういう親子の絆ですらも無情に引き裂いてしまうものであり、思えば1話で緑川達也が父を亡くしたという始まりも今になるとそういうものとして響いてくる。
デンジマンの5人が選ばれた理由に関しては現時点でまだ明かされていないわけであるが、1つ共通しているのは5人には自分たち以外に身寄りのものが居ないということだ。
仲間でありながら同時に「私人」という側面を完全に捨て切った「公人」でもあり、彼らにとって頼れるかは怪しいが指導者=父はアイシーだけなのである。
だから5人が土手をアイシーと共に並走する面白さというのは1つにはこの6人が擬似的な親子の関係にあることを映し出しているのかもしれないことの面白さといえよう。
しかし、あくまでも擬似的な関係性でしかないが故の残酷さがあることを忘れてはならないという意味で、終盤の展開を知っているとこのカットはすごく切なくもある。