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『星獣戦隊ギンガマン』第八章『愛情の料理』
◾️第八章『愛情の料理』
(脚本:武上純希 演出:田崎竜太)
導入
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「これがギンガの森風料理さ!」
前回までがシリアスな立ち上がりだったのに対し、今回はコミカルな5人の日常から始まっている。
ギンガイオー誕生を1つの山場として本作の基礎土台が完璧に固まったからか、ここからはギンガレッド/リョウマ以外のキャラクターにも徐々に焦点を当てて、幅を広げていく。
今回がヒカル、次回がサヤ、第十章がハヤテ、そして第十一章がゴウキ、そして第十二章が再びリョウマという形で5人のメイン回をローテーションで回していく形だ。
脚本は前作「メガレンジャー」のメインライターを担当していた武上純希、そして演出が田崎監督という本作最初で最後の組み合わせである。
内容的には前回までが青山親子との絡み以外あまり積極的に現代社会の一般人との関わりを持たない形でやや閉鎖的に描かれてきた。
小林靖子脚本の特徴として、あまり外側の人たちと積極的な交流を持たないことが挙げられるが(これは以後の作品でも共通)、今回は武上脚本なのもあってか幅を広げている。
その一発目が「熟女おばさんとヤンチャな少年のすったもんだの交流」というギャグじみたものであるのは本作のテイストからするとやや浮いているし、お話として全く面白くはない。
天下の伊佐山ひろ子を起用しているのは確かに驚きだが、それがよくわからんモブキャラ同然の存在とあっては無駄遣いとしか言いようがないだろう。
一方できちんと「現代社会の人たちとの関わり」を描くことで世界観が狭くならないように工夫し、またその中でヒカルというキャラクターの素材を描こうとしたのは本作らしさがよく出ている。
これは武上脚本だからとか田崎監督だから素晴らしいとかではなく、これまで培ってきた基礎土台の固めがあり、もっと言えば事前の企画の段階で完璧に土台を固めたからだろう。
だから多少なり訳のわからないお話を描いたとしても根幹から揺らぐことのない「強さ」がある訳であり、本作の武上脚本はそれに救われているのではないだろうか。
第四章に続いてヒカルのヤンチャさが描かれている訳だが、それだけではなくゴウキが料理担当であることやバルバン側の相変わらずのダメっぷりなども特別に動いていない。
この回に関してはあまり掘り下げるべき要素もないが、強いて言えばということで以下の2つだけは語っておこう。
伊佐山ひろ子演じるシェフは単なる非常識で不愉快な存在
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ドラマに関して言えばぶっちゃけ月並み以下といったところで、そりゃあ「外の世界の人々」と絡ませたいのはわかるが、伊佐山ひろ子との寸劇はよくわからなかった。
「亡き息子の面影をヒカルに重ねる」ことに何の意図があるのかわからなかったし、そもそも私はそういう「別の誰かに特別だった人の面影を重ねる」との展開が大嫌いなのだ。
なぜかというと、それは決して「その人自身を見ている」のではなく「その人自身のフィルターを通して見ている」に過ぎず、誰も本質を見ていないのと同じである。
何が腹立つと言って、今でいう私人逮捕系YouTuberみたいな真似事でヒカルをひったくり犯と勘違いして捕まえておきながら、何のお咎めも謝罪もないことだ。
もっといえば、私は女という生き物は所詮感情基準で動いてる奴が多く、今回はモロにそれだったし、そういうクソみたいな女の主観に付き合わされるヒカルの立場を何も考えていないのが尚更不快感を募らせる。
これは脚本の出来不出来や演出の良し悪しを論じる以前の段階の好き嫌い・快不快の話であり、武上純希はなぜにこういうしこりの残るような露悪性あるものを好んで書くのだろうか?
初メインを担当した『電磁戦隊メガレンジャー』からしてそうだが、武上脚本は「無理を通せば道理が引っ込む」の意味を履き違えているところがあり、それがおそらく浦沢義雄や井上敏樹との違いだろう。
これは武上純希だけではなく、それこそ昨日日記を書いた荒川稔久もそうだが、どうも本作に参加していたこの2人は浦沢脚本や井上脚本に影響を受けていることはわかるが、所詮は「上っ面」で終わっている。
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リアルタイム検索で荒川稔久を検索しているとこんな意見があったが、「アバレンジャー」程度の安っぽい露悪性を「人間の闇を描くのが上手い」だのと評している時点でセンスがない。
武上も荒川もやたら井上敏樹のような「アウトロー」路線やギャグ話だと浦沢のようなスラップスティックの猿真似をしたがる気持ちはわかるが、あの2人の作風は再現性がない天才の成せる業である。
それは彼らが自然に育ってきた環境や人生の中から出てきたものがそうさせるのだろうし、元々天性の作家としての才能を持ち合わせていたというのは大きいことがわかるからだ。
それこそ小林靖子もそうだが、非常識に思えてもそれに義理と筋を通して面白く見せる工夫ができる人こそが「一流のA」であって、今回のこれは間違いなく「三流のC」でしかない。
故にオチも含めてドラマパートはよくもこんな産廃レベルが作れたものだと逆に感心するわけだが、それでも「そこそこ見られる」レベルに収まっているのは第七章までの基礎土台構築が完璧だからだ。
そう考えると、もうこの頃から脚本のレベルとしては小林靖子>>>>(超えられない壁)>>>>武上純希・荒川稔久であることが伺える。
着ぐるみとCGの差異に苦しむ巨大戦
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さて、そんなドラマパートのつまらなさとは対照的に、アクションの方は等身大戦・巨大戦共に面白かったし、逆に言えば話のつまらなさをアクションでカバーしていると言えるだろう。
ただ、改めて見直して気になったのが巨大戦のギンガイオーに合体する前の演出に統一感がないことであり、今回は前回にはなかった銀星獣のアクションの演出を見てほしい。
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このように、切り抜きレベルでもわかることだが、ギンガレオン・ギンガルコン・ギンガリラは着ぐるみでやっているのに対して、ギンガベリックとギンガットはCGで演出している。
これだとまるで作画担当の違うもの同士の絵が1つの話の中にあるような違和感があって、作り手の巨大戦の演出に苦心していることが伺えるだろう。
ちょうどこの時期、スーパー戦隊に限らないがテレビドラマ・映画共にCGを少しずつ導入する動きが散見された時期であり、「ギンガマン」もその流れを汲んでいる。
だが、着ぐるみでやっている3体は重厚感の方が目立つわけだが、一方でCGで演出されている2体はスピード感の演出は素晴らしいのだが、背景が見窄らしくチープに見えるのだ。
これが当時の技術の限界であることは承知の上なのはわかるが、『百獣戦隊ガオレンジャー』以降合体バンクや合体前の演出がフルCGになったのはこの辺の苦心があったからとわかる。
元々銀星獣にしてギンガイオーにする予定はない中で作られたものであるからとはいえ、もう少しこの辺りは何とかならなかったのかと思う。
以前に蓮實重彦も語っていたことだが、「映画だからできること」と「CGだからできること」は違うし、それは特撮も同じで「着ぐるみでできること」と「CGだからできること」も違うのだ。
最大の違いはやはり「質感」と「動きの生々しさ」であり、今だとCGが実写と遜色ないレベルに向上しているが、それでも日本で着ぐるみという職人技が好きなのはこういう理由による。
逆に言えば、どれだけ技術が発達しても、それを使いこなす作り手側のセンスや考え方=脳のOSがなっていなかったらこのようなものしか生まれないということだろうか。
まあ、いずれにしても、「ギンガマン」は間違いなくS(傑作)ではあるが、やはり撮影の技術に関しては「メガレンジャー」の直後というのもあって過渡期のようだ。
ということで、今回は語ること少なめだが、総合評価としてはまあE(不作)100点満点中37点として手を打とうか。