あまりにも「テレビ化」し過ぎたYouTubeの現状〜大衆化したビジネスに旨味なし〜
私が唯一リスペクトしている(面白いと思っている)YouTuber・すしらーめんりくが自分が出している動画よりショートの方が再生数が多いことを嘆いていた。
だがこれらは仕方ないことだと思っているし、少なくともすしらーめん本人のやる気や努力の問題ではなく、そもそものYouTube自体の仕組みの問題であろう。
昨今の若者がコスパ・タイパを求める風潮が強いことは既に論じられて来た通りだが、ことYouTubeに関してはやはり「大衆化」してしまったことが原因だ。
元々はアンダーグラウンドの無法地帯だったところが今やすっかり都市開発されて認知度と人気を持ってしまったばかりに、消費もあっという間に早くなる。
もう今私はほとんどYouTubeなど見てはいないのだが、2005〜2006辺りのYouTubeは知名度も人気も然程なかったが、その分気軽に見られる楽しさがあった。
私がよく見ていたのは実はこの辺りの動画だが、ほぼ1〜2分に収まっており、また編集も今ほど凝っていないし再生数も全然少ないが、それが逆によかった。
何故ならばいかにも「作った」感がなくその場で一発で撮ったような気軽さがあったし、こういう野放図で自由な感じが大衆化する前のYouTubeの魅力である。
それに昔の作品でも密かにアップロードされているのを見ることに対する背徳感と引き換えの楽しさがあったし、本当に好きなことを好きにやってる感じが面白い。
それが明確に変わったターニングポイントは2つあり、1つが大手企業のGoogleによる買収とそれに伴う法整備、そしてもう1つがYouTuberの台頭に伴う大衆化である。
決して「昔は良かった」などと言いたいのではない、上記の動画はやはり今見ても面白いし全く肩の力を入れずに気軽に見ることができる楽しさがあったから。
今流行りのYouTubeが面白くないのはやはり「大衆ビジネス」と化してしまい、結局は映画やテレビと大差ない「芸能界」の縮図になってしまったからである。
そう、「素人でも気軽にできる」がYouTubeの魅力であったにも関わらず、テレビの芸能人から何からいろんな人がYouTubeに大量参入しており、これが非常によろしくない。
シバターは芸能人がYouTubeに参入することを危惧していたが、やはり長期的に見るとそれは大正解であったと言わざるを得ない。
これは00年代の深夜枠とゴールデン枠の関係性と似ていて、例えば深夜枠だからこそ追求できるアンダーグラウンドな面白さが突然ゴールデン化してつまらなくなった例がある。
それこそカジサックこと梶原雄太がいた「はねるのトびら」がそうであり、あれも深夜枠からゴールデン枠に移ってから面白味がなくなってしまい、最高視聴率を取るのも早かった分衰退も早かった。
ポスト「めちゃイケ」を目指して作られたはずの「はねトび」は「大掛かりなお笑い」とは違ったミニマムかつマニアックなお笑いという異質のものだったから面白かったのである。
それがゴールデンに出て来て大衆人気を浴びて「めちゃイケ」とほぼ同じ土台に立った瞬間、逆に没個性化してしまい全く面白くなくなった。
めちゃイケが22年も続いたにも関わらずはねトびはその半分の11年しか続かなかった、この事実が何を意味するかが今のYouTubeのつまらなさを理解する鍵となる。
テレビが徐々に衰退の兆しを見せ始めた中で作られた「めちゃイケ」ももとは「めちゃ×2モテたいッ!」という深夜枠であったが、ゴールデンに移ってから改めて番組としてのあり方を変えた。
大衆性を帯びていくと共にめちゃイケは積極的に「外」へ勝負しに行ったのだが、わけても岡村隆史がSMAPやEXILE辺りとやっていたコンサート乱入は本当に規格外の出来事である。
そしてまた不祥事を起こすまでそんな岡村と並ぶ絶対的エースであったけいちょんこと山本圭壱の存在も大きく、この2人を中心とした疑似家族の番組として大成していった。
つまり、深夜からゴールデンになるに際しての改善や新たな試みを忘れずに追求したからこそ長続きしたわけだが、「はねトび」はそこをしくじってしまったのである。
よく、はねトび打ち切りの理由が梶原雄太の生活保護受給問題にあったと指摘されているが、それは全くの無関係で実際は単純にゴールデン枠に移行してからが面白くなかったからだ。
岡村隆史と山本圭壱という2人のエースを中心に疑似家族を形成して御輿を担ぐスターシステムを作り上げて規格外のことをやって大成功しためちゃイケとはそこが大きく違ったと思う。
はねトびは全員が同等で横並びという趣旨であったが、それが逆に番組自体の没個性化につながってしまい、ゴールデンになると「予定調和としてのお笑い」となってしまった。
YouTubeもこれと一緒であり、最初は「素人でも面白いものが作れる」からこその規格外な、正に今のテレビができないバカなことをやるのが面白かったし魅力になっていた。
しかし今ではどうか?もはや完全にフォーマットも売れるタレントの資質も需要もある程度固定化されてしまい、なんとなく「こういう人・企画がバズりやすい」が先行しているのではないか?
その意味で私は草彅剛・カジサック・中田敦彦ら芸能人のYouTube参戦を未だに手放しで許せない、彼らこそが正に「YouTubeのテレビ化」「YouTuberの芸能人化」の元凶だからである。
テレビっぽいYouTubeというのは確かに芸能人上がりの人たちだからこそできることだが、それが同時にYouTubeが持っていた元来の魅力を失わせる結果にもなったのではなかろうか。
しかも今では令和の虎だのといった「マネーの虎」のYouTube版まであるし、それこそ教育系YouTuberと称して河野玄斗やヨビノリたくみら高学歴の連中がお澄まし顔でオンライン授業を真面目くさってやっている。
それに伴い動画の再生時間も最初は数分だったのがテレビドラマやバラエティと同じ1時間あるいはそれ以上に長くなってしまい、しかもどこを見ても似たり寄ったりの既成のレールをなぞった作りのものばかりだ。
そりゃあ若者たちがつまらないと感じタイパを求めるようになるし、動画そのものよりショートを見たがるのもわかる、ショートこそYouTubeが元々持っていた「気軽に見れる楽しさ」が詰まっているからだ。
ショートの機能自体は若者に人気のTik Tokが大人気だから取り入れたのだが、逆にそれによってYouTubeが初期に持っていた良さを取り戻すことになろうとはなんたる皮肉であろうか。
そのことをすしらーめんりくは嘆いていたわけだが、それでも私が彼の動画だけを見続けている理由は、それこそ「YouTubeならではの面白さ」を今でも追求し続けているからだ。
どれだけ人気を得て実験の規模が大きくなったとしても、「今のテレビができないこと」「YouTubeだからこそできること」という元来の魅力を損なわずに独自の道を行き続ける。
決して誰にも媚びない良さが彼の動画の魅力だと思うし、今後もこのスタイルを続けていって欲しい、間違ってもお金稼ぎのために大衆に擦り寄る真似はして欲しくない。