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まさかの「父殺し」を物語のメインに持って来た『新テニスの王子様』

新テニ最新号、ミスリードかと思われていたサムライ南次郎が本当にスペイン代表の監督だったことで私が考えていたウダウダが全部吹き飛んだ。
さすが許斐先生、たとえ一瞬でも攻撃の手を緩めない姿勢が徹底されていて好きなのだが、まさか神話の王道である「父殺し」をこのように持って来たかと唸った。
しかもそれをストレートに「リョーマが南次郎を倒す」のではなく「南次郎が指揮するスペイン代表をリョーマが所属する日本代表が倒す」という展開にしているのが上手い。
つまり、「新テニ」の最終的なテーマとして越前リョーマは「南次郎からの自立」を通過儀礼として果たさなければならないということではないだろうか。

『オイディプス王』に見られるように、英雄物語はしばしば「父殺し」のテーマが含まれており、主人公が最終的に自分の父親か、それに類似する「父性」を持ったものを超えなければならない
代表的なのは『スターウォーズ』のルーク・スカイウォーカーとダース・ベイダーだが、一度ベイダーに敗北したルークは最終的にヨーダとの邂逅によってフォースの本質とは何かを知る。
そしてその心を持ってルークは遂に最終章で父親を超えてみせたわけだが、日本でもこの手の物語はごまんと使われていて、それを「テニスの王子様」も持って来たという形であろう。
わかりやすいところでいえば「ドラゴンボール」の孫悟飯や「幽☆遊☆白書」の浦飯幽助がそうだが、この2人は最終的に自分の父親を超えることで証を立てた

古代では高貴な生まれのものであればあるほど、生まれて来た子供はその血筋通りに王位を継承させるものだが、これが平穏無事に行われた試しは実はあまりない。
大体は何かしらの悲劇に見舞われ王位継承すら行われないまま終わったものもあるだろう、それこそ「ドラゴンボール」のベジータなんかがいい例だ。
惑星ベジータを滅ぼされて父親が亡くなったので「王」になることができなかったのだが、孫悟空もバーダックからは何も大切なことを教わっていない。
つまり、父親の人生と子供の人生はあくまでも別物であって、子供には子供の世界や人生がある訳であり、いずれ父を超えなければ本当の意味で王にはなれないのだ。

そしてそれは「テニスの王子様」とて例外ではなく、なぜ越前が「王子様」なのかというとテニスの王様=越前南次郎の息子だからというメタ的な理由である。
跡部様は「俺様がキングだ」と言っていたが、跡部様のいう「王様」はあくまで劇中の形でしかなく、決して物語のメインテーマと密接に関連するものではない。
だからテニスの「王様」に本当の意味でなれるのは越前リョーマか兄のリョーガのどちらかであるが、やはり物語の流れとしてはリョーマではないだろうか。
リョーマがリョーガを超えなければ「テニスの王子様」の物語は完結しないし、またテニスの王様である南次郎率いるスペインを倒さなければ本当の完結を迎えない。

『新テニスの王子様』はリョーマ以外の中学生がそれぞれに自分のテニスの先を行くことでアイドルとしての「王子様」になる物語であるが、リョーマは更にその先を行くことになる
つまり越前リョーマはもう一人の自分であり、ある意味ではリョーマ以上にサムライ南次郎の現し身であるリョーガを倒すことで「王子様」から「王様」になるという使命があるのだろう。
そこに跡部様が入っていることももちろん大きな意味があり、ある意味この決勝戦は「王子様」から「王様」になろうとする者たちの物語なのではないだろうか。
そのように考える時、手塚国光が所属する最強の国・ドイツを準決勝で打ち倒してスペインと決勝で戦う意味は『新テニスの王子様』が「神話」であると示すことにあったと納得できる。

正直私は「太陽の国」というスペインの紹介に納得いかなかったのだが、「テニスの王子様」の「太陽」である越前南次郎が監督として加わることで貴公子たちが太陽の輝きを浴びるということだろう。
そして日本もまた「日の丸」という国旗を掲げる者たちであるが故にこの決勝戦は「陰陽」というよりも「日の丸VS太陽」という運び方をしたのは流石の手腕だと言える。
最終的に南次郎とリョーガという壁を超えなければ、越前リョーマは本当の意味で「越前リョーマ」にはなり得ないし、また手塚国光に挑む資格も得られないということだろう。
だから旧作が序章に過ぎなかったというアオリも本当にその通りで、旧作の越前リョーマは悪くいえば「既製品」であり、越前南次郎が辿った道を擬似的な形で追体験したに過ぎないのだ。

そんなリョーマが「新テニ」では一切父親と会話がなく三船コーチ・平等院・ラルフ辺りのような別の意味での「父性」を持った人たちに弟子入りした意味も見えてくる。
リョーマが南次郎とリョーガを超えるには父親に匹敵しながらも別の強さを持つ者たちから教わる必要があり、「天衣無縫」のその先を切り開く必要があったのだ。
そしてその「天衣無縫」の先を示したのがオジイとその愛弟子である平等院であり、阿修羅の神道の最終形態である「阿頼耶識」だったのではないか。
以前にも紹介した通り、「天衣無縫」は五感剥奪を乗り越えるために編み出された第七識(セブンセンシズ)であり、「テニスを楽しむ心」の具現化だった。

だが、その天衣無縫は既にドイツ戦で描き尽くしているため「テニスを楽しむ」の更に先にある「滅びよ、そして蘇れ」の具現化である第八識(エイトセンシズ)に目覚める必要がある
平等院から日本を託された徳川カズヤと越前リョーマが勝つためにはこの第八識を開き、更にその第八識の先にあるものを開眼することが条件となってくるであろう。
たとえ父だろうと兄だろうと、コートの向こう側にいる敵は全て倒すという気概を持った者たちこそがあの決勝戦のメンバーに選ばれた者たちだといえる。
また、越前南次郎については別個考察の機会を設けたいが、ひとまずいえることは「無敵艦隊」はスペインの歴史上敗北フラグということだ。

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