「ONE PIECE」が紡ぎ出すSNSのような「仲間の絆」

最近、プライベートや仕事も含めて人間関係で色んなことがあり、改めて「仲間」「信用」「信頼」「絆」といったものが何かを考える機会が多い。
そんな中で改めて「ONE PIECE」を読むと、本作品における「仲間の絆」が一体何なのかが時代性と併せて色々と見えてきて面白いのだ。
しかし、ここで言いたいのはその「仲間の絆」とやらが特別に素晴らしいとか美しいとかそういった賛美するようなことではない。
もう少し俯瞰した視点から本作品が紡ぎ出し主張している「仲間の絆」の中身がどんなものなのかを分析してみようという試みである。

世代別で見るジャンプ漫画の原体験

世代別で見て行くと、実はそれぞれにジャンプ漫画の原体験となる作品があることがわかる。
例えば私は1985年生まれの「プレッシャー世代」と呼ばれる最後の昭和世代であり、この世代が原体験で楽しんでいたのはジャンプ黄金期の作品群であろう。
具体的には「ドラゴンボール」「SLAM DUNK」「幽☆遊☆白書」といったあたりであり、これらの作品を私はそれこそ原体験で見ていた。
それよりも上の世代となると「北斗の拳」「聖闘士星矢」「キン肉マン」「キャプテン翼」といったあたりだろうか。

この点で見ると、「ONE PIECE」「NARUTO」「テニスの王子様」辺りはいわゆる「ポスト黄金期」とでもいうべき、新世代のジャンプ漫画である。
具体的には1997年〜2000年代初頭に台頭してきた、黄金期の終焉を経て台頭してきた次世代へのニュースタンダードとなるジャンプ漫画だ。
世代としてはそれこそ「ゆとり世代」と呼ばれる90年代生まれの人たちに向けて作られた物語であるといえる。
まあ正確にはその狭間に「るろうに剣心」「遊戯王」「ヒカルの碁」などの中継点となるような作品があったわけだが。

そして、どの漫画を原体験として育っているかというのはその世代の価値観に大きな影響を与えるという点で、無視できないものとなっている。
私で言えば「ドラゴンボール」「SLAM DUNK」「幽☆遊☆白書」がそうであった、自分も肉体を鍛え上げ気を高めれば超サイヤ人になれるんじゃないかと思ったものだ。
それこそ魔人ブウ編の頃は作品の人気も陰りが出ていたが、それでもゴテンクスのフュージョンやポタラ合体ベジットを真似した同級生は数知れずいた。
また、「SLAM DUNK」を見た影響で家族ぐるみでバスケットをやったこともあるし、体育のバスケットの授業で桜木のフェイスガード(相手にピッタリ張り付くディフェンス)を真似たものだ。

こうしたジャンプ漫画の原体験は決して単なる懐古録や想い出としてのみ残るのではなく、意外と大人になっても忘れがたい価値観として染み付くものである。
それこそ、私の世代は「自分が力をつけて強くなっていくしか生きる道はない」というのを叩き込まれた世代であったと思う。
その武器は勉強でも運動でも構わない、人に誇れる「これだ!」という武器を作ることによって、それが大きな自信となった。
ある意味「努力は実る」が本当に信じられていた最後の世代であったといえるのかもしれない。

ポスト黄金期の作品群が示していたのは「仲間の絆」「自由」「能力」

これは「ONE PIECE」に限らないが、ポスト黄金期の作品群に通底している要素は「仲間の絆」「自由」「能力」であり、これはゆとり世代が大事にしていた価値観だと思う。
きちんと努力して己の力を磨き上げれば超サイヤ人のような圧倒的な強さを手にすることができると信じて「個の力」で勝負していた私には信じられないものであった。
主人公が目標を口にしてひたすらに「仲間」を信じ、群れを成して自由を手に入れるために奮闘する……それが「ONE PIECE」「NARUTO」「テニスの王子様」に共通している。
個の力だけでは目標を達成することなんて到底できないから、能力を手にして仲間を作って自分たちがやったという証しを立てるために頑張っているのだ。
「ONE PIECE」のモンキー・D・ルフィにしても「NARUTO」のうずまきナルトにしても、目標を高らかに宣言するところから始まる。

火影を超す宣言をするナルト
海賊王になる宣言


このように、最初から自分のゴールを口にするヒーローなんて、それ以前の漫画では考えられないことだった。
例えば「SLAM DUNK」の赤木剛憲や桜木花道も「湘北を全国制覇に導く」という目標はあったが、それはあくまでも有能な仲間たちを手にして初めてできた目標である。
「ドラゴンボール」の孫悟空も最初から宇宙一強い武道家だったわけではなく、目標は常にその時その時で更新されていくものだった。
「幽☆遊☆白書」の浦飯幽助に関しても、目標や目的はその時々で異なるものであり、またそんな目標を高らかに宣言することなど野暮だからしない

しかし、そんな野暮だと思われることを最初から口にするのだから、私は最初にこれを読んだ時思わず閉口してしまった。
ただ、逆説的に言えば物語当初の段階ではルフィもナルトもまだ「何者でもない」という状態なのである。
何者でもないからこそ「何者かになりたい」という欲求が生まれ、それが高い共感性を生み出しているのであろう。
そしてその口にした目標を達成するには個人の力だけでは到底無理だから仲間が欲しいし能力も欲しい。

ルフィはゴムゴムの実を、そしてナルトはお腹の中に九尾の力という能力を宿しているのである、それは個人の力だけでは何も達成できないから。
これは個の力を極めた先に力を手にしていた悟空や浦飯幽助に比べると、かなり大きな違いとなっているのではないだろうか。
そして仲間の力や自由というのも昔の作品だと個の力を身につけた先にできるものであるのに対して、ポスト黄金期の作品では最初からそれを求めている。
孫悟空は師匠の力だけを借りれば後は個人の力で宇宙最強まで上り詰めたが、ルフィやナルトは師匠の力だけでなく仲間の力も借りなければ、高みに登ることはできない。
この事実は2010年代になると現実のものとして立ち現れてくる。

ポスト黄金期の作品群が現実化したYouTuber

ポスト黄金期の作品群が提示した価値観に影響を受け、それが現実化したのが今若者に大人気のYouTuberという職業ではないだろうか。
ネットの情報を駆使して自分たちがやりたいことや好きなことを仕事にし、肩を組んで仲間の力を信じて立ち向かうというのはそのまま「ONE PIECE」の世界観である。
実際「ONE PIECE」の勢力図にYouTuberを当てはめてみるといったことがかつてなされていたが、あながち間違いではないだろう。

YouTuberを「ONE PIECE」の勢力図に当てはめるとどうなるか?

このような勢力図が出てきたのは「ONE PIECE」とYouTuberの価値観が通底している証拠ではないだろうか。
どちらにも共通しているのは「何者でもない普通の人たちが何者かになっていく」というプロセスをコト消費として体験する感覚である。
誤解を恐れず言えば、YouTuberは「何者にもなれない人たち」であり、実際ヒカキンにしてもはじめしゃちょーにしても、突出して優れた才能を持っているわけではない
フィッシャーズのシルクにしたってアスレチックや運動系の動画をグループの個性として売りにしているが、それでもトッププロアスリートとやり合えるかと言えば違う。

近年は芸能人やプロアスリート、企業家などのプロの人たちもYouTubeに参戦しているから、余計にこの違いが浮き彫りになっている。
実際、YouTuberの中でもトップクラスの資産を持っているヒカルははなおでんがんとの対談動画でこんなことを言っていた。

「YouTubeっていう世界ぐらいでは俺がNo.1でいたいっていう気持ちが強いわけ。プロ野球の世界ではもう無理やん、芸能界でも無理だと、他の世界色々無理だと。ただ、YouTubeなんてこんな素人の集まりの中で自分がNo.1じゃないのかっていう自分への問いかけ。そこに対してぐらい努力しろよっていう……今まで人生努力せずに来たと、部活動も頑張らずに来た、勉強も頑張らずに来たと。友達関係も別に頑張ってない、別に彼女作っても何も頑張ってない、せめて今目の前のYouTubeくらい一回本気で頑張ってみないかという自分への問いかけでもあるわけよ」

「はなお、なんでUUUMやめたん?」

この発言こそが何気なく「YouTuberとは何か?」ということを端的に示しているのではないだろうか。
それこそUUUMにいるヒカキンもはじめしゃちょーも、YouTuberと呼ばれる人たちはヒカルが言語化したような思いを少なからず抱いていると思う。
プロの世界のNo.1になりたくてもなれない素人が必死になって何者かになろうと足掻き、その承認欲求を満たそうとする世界がYouTuberであり、SNSの世界なのであろうと。
そしてそれが今時代の流行になっているというのは、奥底で大衆がそういう満たされない思いを現実化したいというのを望んでいるからだ。

「仲間の絆」の強調や連呼が意味すること

「ONE PIECE」という作品はこれでもかというほど「仲間の絆」とやらを強調し、随所に挟み込んでくる。
仲間に引き込む時は「俺の仲間だ!」と言い張り、諸事情で仲間が抜け出した時でも必死に連れ戻そうとするのだ。
フィクションの世界で、尚且つ海賊という設定だから大目に見られる部分があるが、私は正直この「仲間の絆」を連呼されるのは好きではない。
だが、尾田先生はそのようにして強調や連呼をしなければならないほどルフィたちの絆は脆く崩れやすいものであるということをわかっているのだろう。

麦わらの一味は「海賊王におれはなる」というルフィの野望に共感し、ルフィがその野望を実現するのに必要な能力と資質を持った人たちの集まりだ。
だが、その仲間ぶりはどこか表層的であり、ルフィへの共感よりも大事な個人的事情ができればそちらを優先するために船を抜けることがしょっちゅうである。
アーロンパーク編のナミ、エニエスロビー編でのウソップとロビン、そしてホールケーキアイランド編でのサンジ……一体何度仲間たちは離脱を繰り返せば済むのであろうか?
しかし、逆に言えばこれらの事実は麦わらの一味の結束力がそんなに強くなく、いつ崩れてもおかしくないことを示してもいる。

そしてそんな作品だからこそ「絆」という言葉を用いているわけだが、本作が欠けているのは「絆」という言葉の良い面にしか焦点を当てていないことだ。
ある時期以降、具体的には2011年の3.11(東日本大震災)以降「絆」という言葉がやたらに連呼されるようになったのもこのことと決して無縁ではないだろう。
絆という言葉は元来「動物をつなぎとめる綱」であって、個人をがんじがらめに縛り付けてしまうものだが、近年はどうもこの側面が無視されている気がしてならない。
「ONE PIECE」でも実際に仲間との絆を適宜結び直しながら冒険を進めてはいるが、それでもどこか表層的で空虚で、そして脆くも見えてしまう。

少なくとも私は絆だの仲間だのとといった言葉を信用してなどいない、人間なんて自分が一番大事で事情が変われば他人をあっさり捨てることを知っているからだ。
昨日の友は今日の敵なんてこともザラにあるし、いまの時代はもっと複雑化・陰湿化した「フレネミー(友達のフリした敵)」という存在までいるから厄介である。
実際、私もSNSで何人ものフレネミーと出会ってきたから、仲間や友達だと思っている人たちを過剰に信用しないのもそれが理由だ。
つまり「ONE PIECE」をはじめとするポスト黄金期の作品群が示す「仲間の絆」とはSNSのような軽やかで自由な、しかしそれ故に脆く崩れやすい価値観ではないだろうか。
そんなことを思いながら「ONE PIECE」を読み進めていくと、また違った作品として見えてくるから面白い。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?