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『忍者戦隊カクレンジャー』の15・16話に見る「戦隊」の本質と今のシリーズ作品に欠けているもの

以前のブログにも書いているように、私自身「カクレンジャー」を高く評価しているわけではないが、15・16話はそんな「カクレンジャー」の中で珍しく高く評価している回だ。
この回には色んな意味での「カクレンジャーらしさ」が詰まっていて、ある意味「戦隊」の本質も詰まっていると同時に、今のシリーズ作品に欠けているものを教えてくれる。
「忍者戦隊」と名がついている割りには全然「忍者」していないし、やっぱり初期は本当につまらないと思って完全にスルーしていたが、この回はきちんと「忍者」していた
同じ忍者テイストの「ハリケンジャー」「ニンニンジャー」でもここまで本格的な駆け引き・知略が描かれたことはあまりないので、やはり初代「忍者戦隊」の名は伊達じゃない

話の流れをいうと、敵組織の妖怪軍団には新たな強敵・貴公子ジュニア(演じるはかの遠藤憲一)と花のくノ一組がサスケたちを森の中に誘い込むところから始まる。
まずはマタタビで猫丸を誘き寄せ、更にサスケとジライヤ(強い奴ら)、鶴姫とサイゾウとセイカイ(弱い奴ら)に分断して弱い奴らから先に捕まえていく。
そしてジライヤもとうとう捕まりサスケも深手の傷を負うという、かつてないほどの大ピンチであり、以後このパターンが割と終盤まで使われるようになる。
4人がピンチに陥ったのをサスケが助けるのはアズキアライの回からそうだったが、この回でそれがカクレンジャーとしてのチームの根幹として定まった。

スーパー戦隊シリーズの本質は原典となる『秘密戦隊ゴレンジャー』のEDで歌われているように「みどりの地球を守るため」「力と技と団結のこれが合図だ」に集約されている。
すなわち「地球(=星)を守る」ことともう一つが「力と技と団結」であり、特に「団結」こそがスーパー戦隊シリーズの本質であるということが示された。
だが、ここでの大きな問題は「全員で力を合わせるのだから、1人1人は弱くてもいいのか?」であり、実戦ではマニュアル通りにはいかない想定外は常に発生する。
特に仲間たちが頼れない中で自分1人で戦わなければならない状況においてはどうすればいいのか?というのは昔からの課題であった。

今回はまさにそれが描かれており、5人揃えば強いカクレンジャーであっても個々の戦士の強さには格差があるから、弱いやつから狙えばいい。
特にセイカイと鶴姫はそれが露骨に出ており、鶴姫に至っては名目上はリーダーの癖に感情で先走ってあっさりと敵の罠に引っかかってしまうため、リーダー失格である。
もちろん罠にかかっても自力でなんとかなればいいが、結局はサスケ頼りになってしまうし、戦いにおける戦略・戦術などの判断は全てサスケが仕切っていた。
だから「カクレンジャー」において鶴姫は名ばかりリーダーでしかなく、実質のリーダーはサスケだとファンからは揶揄・皮肉も含めて言われるのである。

そのサスケですら深手の傷を負って捕まりかけたのを見ると、やはりカクレンジャーもまたプロ意識がそんなにない素人上がりのチームだとわかるであろう。
確かにサスケの機転と判断力がチームの求心力になっているのは事実だが、そのサスケが倒れてしまったらカクレンジャーというチームは一巻の終わりである。
サスケが不在の時にどうするべきかという弱点・欠点を終盤までほったらかしにしているから、敵の罠にしてやられた時にチームの歯車が狂ってしまうのだ。
これがいわゆる「業務の属人化」であり、誰か1人が抜けてしまうとその組織なりチームなりがうまくいかないというのはあってはならない最悪の事態である。

杉村升脚本の戦隊シリーズの面白いところは上司が当てにならないだけではなく、チームの誰か1人が欠けてうまく機能しない場合の脆さ・弱さも露呈させているところだ。
その脆さを露呈させた時にどうやって乗り切るかを考え、安易にパワーアップアイテムに頼るのではなく、知恵と工夫で乗り切って成長していく。
最終的にサスケ1人の分身の術で乗り切ってしまったわけだが、それも含めてスーパー戦隊だからっていつもいつもみんなでGO!すればいいわけじゃないということだ。
小林靖子女史もそんな人で、例えば「ギンガマン」ではギンガレッド/リョウマに限らず他のメンバーたちもいざとなれば1人で困難を乗り切ることが多い。

スーパー戦隊シリーズはウルトラシリーズや仮面ライダーシリーズに比べて「集団」という部分で差別化を図っているため、「チームの力」だと思われることが多い。
だが、仮面ライダーやウルトラマンだって全部が全部「個人の力」で乗り切っているわけではないだろうし、逆にスーパー戦隊も全部が全部「チームの力」で乗り切っているわけでもない。
例えばウルトラマンだって主役は科学特捜隊のチームの力が根底にあり、最後の最後でデウス・エクス・マキナとしてウルトラマンが出てきて物語を締めくくる。
また初代仮面ライダーも決して仮面ライダーだけではなく相棒の滝や立花レーシングクラブ・少年ライダー隊などのチームワークで敵と戦うことも多いのだ。

私が以前にマトリックスを使って歴代スーパー戦隊のチームカラーを分析したことがあるが、なぜこんな記事を書いているかというと組織にも色んな形があるからだ。
それが同時に「公的動機」と「私的動機」という「戦う理由」にも繋がっており、そこら辺と向き合ってやってきたからこそ47作品も続いているのである。
もともと「戦隊」という単語が軍事用語であるというのはディープな戦隊ファンなら誰もが知っているだろうが、敢えて元々の「戦隊」という言葉の意味を引用しておく。

せん‐たい【戦隊】
読み方:せんたい
軍隊の戦術単位。海軍では、軍艦2隻以上、または軍艦と駆逐隊・潜水隊など、もしくは航空隊2隊以上で編制され、司令官が指揮する部隊。陸軍では、主として航空機の戦闘部隊をいう。

そう、元々は軍隊の中の戦闘部隊であり、初代「ゴレンジャー」のイーグルは正にそのような設定だったし、「チェンジマン」までは大体そのニュアンスが強く残っていた。
今ではもう完全に集団ヒーローの呼称として独自の意味を持つに至っているが、だからこそ「チームがどのようにして設立されたか?」と「プロフェッショナルかアマチュアか」を見るのは大事である。
歴代戦隊には大まかに分けて徹底した準備をして戦いに臨むプロフェッショナルチームと、偶然に選ばれてなし崩しで戦うアマチュアチームの2種類があり、カクレンジャーは後者だ。
そして、そのチームが「個人の強さ」をベースにしているのか、「チームの強さ」をベースにしているのかで描かれ方が全く異なり、カクレンジャーはいうまでもなく後者である。

そんな諸々がこの酒呑童子兄弟の前後編で見えたわけだが、今のスーパー戦隊シリーズはこの辺りのことをきちんと熟考もせずに出しているのではないかと思えてならない。
こないだ語った「キングオージャー」のちぐはぐさなんて正にそれであり、あれもプロかアマか、個人ベースかチームベースかという根幹の部分を考えていないようだ。
いかにド派手でかっこいいかという絵面と困ったらとりあえずパワーアップアイテムさえ出しておけばいいという楽な方に流され、端から物語を紡ぐことを放棄している。
それこそ今のスーパー戦隊ならこの前後編だって知恵と工夫ではなく、パワーアップアイテムを安易にポンと出しての強行突破で乗り切ったのではないだろうか?

まあスポンサーとしてもその方が美味しいのだろうし、パワーアップ合戦の方が一々アイデアを捻らなくていいのだから楽なもんである。
こうして奥まで探っていくと、なぜ今のスーパー戦隊シリーズがつまらないのか、本当によくわかるなあ。

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