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「たくさん会話すれば打ち解けられる」という勘違い〜コミュニケーションの本質とは何か?から見る『デジモンアドベンチャー LAST EVOLUTION 絆』のおかしさ〜

昨日の記事の続き(?)ですが、「どんどん喧嘩した方がいい」という太一とヤマトの喧嘩論に私が全く共感できなかった理由に関しては私自身がそもそも「喧嘩して仲良くなった」経験が全くないことが1つですが、他にも理由はあります。

2つ目の理由として挙げられるのが喧嘩したことを「美談」「美しい思い出」「武勇伝」みたいに自慢しているのがおかしいからであり、なんでわざわざ自らの恥を堂々と語っているの?というのがあるわけです。
多分太一とヤマトの喧嘩論に共感してるような人はおそらく不良が更生したドラマを美しいとか感動したとか安易に言ってしまうような人が多いのではないでしょうか。
そもそもそういう「あの時はよく喧嘩したなあ」という、本来であれば外に出すのが恥ずかしいような身内話は胸の内にそっと閉まっておくか、あるいは空のような迷惑をかけられた人たちがユーモラスに話すから面白いわけです。
自慢みたく語るのは完全なる恥晒し以外の何物でもありませんし、少なくとも私が太一やヤマトの立場だったら「どんどん喧嘩した方がいい」なんて自分の過ちを正当化するような無神経な発言なんてできません。

これに関しては「こち亀」の両津勘吉が述べてる「不良更生」論が端的にまとめてくれていますね。

両さんの話を端的にまとめるなら不良更生なんてマイナスがゼロになっただけで、ゼロからプラスになったわけではないのですからちっとも偉くも素晴らしくもないのです。
「ジョジョ」の荒木先生も言ってたけど、マイナスをゼロにすることが素晴らしいわけじゃなくて、そこから更にプラスを生み出してこそ真に素晴らしいものになるわけですから。
私に言わせれば太一とヤマトの言い分って大学の飲みサーでお酒一気飲みを強要する人やタバコを吸ってる自分を「何事も経験だから」と言ってるアタオカと同レベルです。
自分が間違った道を歩んでいるのを他人を巻き込んで管を巻くことで正当化したいだけであって、真に自分のためになることは何一つしていません

そしてもう1つ、これが今回の記事の眼目ですが、関弘美プロデューサーをはじめとした「デジモン」の作り手はどうにも「コミュニケーション」に関して根本的な部分で勘違いしているように思われます。
それが窺えるのが「ラスエボ」の時のインタビューです。

関:ひとつは、『02』のキャラクターを登場させることです。今回は太一たち8人の子どもたちと共に、彼らのその後もぜひ描きたいと思いました。
もうひとつは、「パートナーシップとは何か?」をしっかりとシナリオに反映させること。正直に申し上げると、私は『tri.』のドラマに物足りなさを感じた部分があったんです。
例えば二人きりのときに、太一が黙っていて、アグモンも黙っている……というシーンがありましたけれど、そこで会話をしないとパートナー感が出ないと思うんです。
「無言の会話の中にも実は裏がある」と観客に委ねる方法論もありますが、話さないことには推測もできません。

これぞ正に猫ミームのhuh猫のようになるような答えですが、どうやら関プロデューサーは「たくさん会話すれば打ち解けられる」という勘違いを起こしているように思われてなりません。
そもそも「tri.」の失敗要因を「会話が少なすぎる」と分析している時点でズレているんですが、それ以上にこういうマインドの人だから「どんどんケンカしたほうがいい」という屁理屈を正当化してしまうのかと納得です。
これは持論ですが、コミュニケーション(会話)の本質は「たくさん話すこと」ではなく「相手を知ること」であって、選ばれし子供達とパートナーデジモンの関係性はもう十分に無印で描いたでしょう。
だから「tri.」の高校生太一とアグモンの会話がないのは別段不自然ではありません、今更多くを語らずとも理解し合えているのですから、そこでわざわざ無駄なコミュニケーションコストを発生させる意味はありません。

しかもその後に「食事の場で話すのって、とても大事なんですよ」と続くわけですが、それはあくまで家族団欒クックドゥが日常茶飯事だった昭和時代の飲みニケーションであって、今の時代は通用しません
話すにしても今の時代ならZoomやインスタライブなどを使ったオンライン飲みだってあるわけで、コミュニケーションの上で大事なのは「その会話は何のために行うものか?」という目的を忘れないことです。
会話の上で大事なのは「相手に寄り添った受け答えをすること」であって、そこがちゃんとできていないと単なる目先の承認欲求を満たすだけのエナジーテイカーになってしまいます。
そして、そういうエナジーテイカーの元にはやはり同じような気質を持ったエナジーテイカーしか集まらないし、そこから脱却できないといつまで経っても人間関係の柵からは解放されません。

無印の最終回手前の時にまるで狙ったようにして「デジモンたちと出会って助け合う大切さを知ったから自分らしくいられた」と総括しているわけですが、私には全く刺さりませんでした
何でかというとグループとして、チームとして活動していくのだから仲間と助け合ってやっていくのはあくまで「前提」であってそれが「目的」にも「ゴール」にもなりませんししてはなりません
別にそういう「チームがまとまっていくまでの過程」が悪いと言っているのではなく、真の目的はそこじゃなくて「デジタルワールドの救済」にして「アポカリモンの浄化・救済」にあります。
それを有耶無耶にして自分たちはさも立派なチームとしてまとまった振りをして、その実やっていることは排他的差別主義の悪党がやっていることと大差ないというね。

そこの部分で根本的な勘違いをしているから「ケンカしなきゃ友達にもなれないからどんどんケンカしろ」なんて間違った体育会系のノリ・屁理屈を強要するんでしょう。
わざわざ揉め事発生させて空中分解を起こすほどのケンカでドラマっぽく仕立てるなんて三流のやることであって、逆に言えば当時よくもまあこんな杜撰な考えが通ったなと思います。
私が言葉を尽くしてこれだけ文章を書くのはあくまでそれが呼吸をするようにできて、尚且つ自分が発信したいことだからやっているだけで、私生活や仕事では極力無駄な会話はしません
喋るのってただでさえエネルギーも神経も使うし、同じ「言葉を使う」なら私の場合は喋るよりも文章にする方が楽だからそれをやっているというのはあります。

何が言いたいのかというと、「会話をすること」も「ケンカをすること」もあくまで「手段」でしかなく、それが目的やゴールにはならないということです。
これは昨今だと特に起こりがちな勘違いですが、「彼女を作ること」「友達を作ること」「仲良くなること」が目的化していませんか?
彼女を作るために女性と出会うのではなく、女性と出会って自然に気が合う中で恋人関係になっていくものだし、友達を作ることも仲良くなることもあくまで目的達成で生じる副産物でしかありません。
たくさん会話したから仲良くなれるわけでもないし喧嘩をしたから友情が深まるわけでもありません、一緒に行動していくうちにぶつかり合うこともあって仲良くなることもあるというだけです。

最近語ったこちらの記事も突き詰めると本質はそこに集約され、私が無印より「アドコロ」の方がまだ好感が持てるのはチームとして果たすべき目的を見失っておらずブレがないからです。
確かに無印のような衝突や人間ドラマは少ないですが、それは別になくてもチームとしての目的さえ見失わなければきちんとゴールに辿り着けることを示しています。
会話をする目的はあくまで「相手を知ること」であり、そこに「自分らしさ」「承認欲求」「エゴ」なんて要りません。

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