真っ黒焦げの玉子焼き
小学生の頃、母方の実家に行くのを楽しみにしていました。
両親は隣の席の人にみかんを渡しながら、
「◯◯に着いたら乗り換えるので、
この子達を宜しくお願いします」と頭を下げていました。
今では考えられませんけど。笑
私と弟との二人だけで、
弟は5歳年下で小学1年生でした。
すぐ泣くし、やだなあと思いながらも、
祖父母の家に着くのが楽しみでした。
夏休みの部活がお休みの間の短い期間でしたが、祖父母も喜んで迎えてくれました。
祖父母の家は不思議がいっぱいでした。
蛇(まむし)が入っている焼酎の瓶、
何が出てくるかお楽しみのぬか床、
10年寝かせた梅酒、
庭いっぱいに広げた梅干し用の梅。
10年ものの梅酒はかき氷のシロップにすると
ほっぺたがとろける程、美味しいのです。
祖父はビールを飲み顔を真っ赤にしながら高校野球を見ていました。
祖母は、私といつも台所にいました。
ある日、祖母と弟が出かけた日、
私は家でやりたくてもできなかったことをやって、祖父母を驚かせようと思いました。
それは、
厚焼き玉子を作ること。
祖父がビールを飲んでいましたから、
厚焼き玉子を作ったら、おつまみになるし喜んで貰えると。
玉子を5個(なぜか覚えている)割って、
厚焼き玉子用のフライパンを熱して、
全ては【想像通り】できる筈でした。
それが、
厚焼き玉子用のフライパンに、
一気に入れられた5個分の卵は、
なかなか焼けてくれなかったのです。
火が弱いのかと、火力を強くしましたが焼けてくれません。
そのうち、奇妙な臭いがしてきました。
卵が焦げ焦げになってしまったのです。
「お姉ちゃん、なにしてるの?」と、
祖父が私がいる台所まで来てくれました。
私は真っ黒焦げになってしまった玉子焼きの前で泣いていました。
「どれどれ」と、言って祖父は器用にお皿に乗せました。
「おじいちゃんが食べてもいいの?」
と祖父は聞くのです。
私が味見をしたときに、恐ろしい程まずかったので、
「やめて、食べないでおじいちゃん!」と泣きながら言いました。
だけど祖父は、
ゆったりとビールを飲みながら、
黒焦げの玉子焼きを食べて、
「お姉ちゃんが作った玉子焼きは美味しいよ」
そう言ってくれたのです。
あんなにマズイのに、嘘つき!
私は嬉しかったのに、いろんな感情が混ざって
「おじいちゃんなんか大嫌い!」と言ってしまったのです。
それでも、祖父は焦げ焦げの玉子焼きを全部食べてくれました。
あんなに不味い玉子焼きを。
あっという間に日にちは過ぎて、
私と弟は帰ることになりました。
おじいちゃんは、
新幹線の扉が閉まる寸前まで私たちの側にいました。
「また来いの」
と、何度も言いながら涙をボロボロ流していました。
新幹線が走り出しても、窓ガラスからおじいちゃんが追いかけながら、
「また来いの」と言っているのがわかりました。
私と弟は、おじいちゃんが渡してくれた荷物を開けてみました。
それは、
お握りとお漬物と、売店で買ったお茶でした。
おじいちゃんはいつも手作りのお握りを自分で作って持たせてくれるのです。
真っ黒で、ぶ厚い海苔を惜しげもなくたっぷり使ったお握り。
おばあちゃんが漬けた梅干し。
ぴかぴか光る庄内米。
私は、これほど美味しいものを他に知りません。
死ぬ前に食べたいものは何?と問われると思い出すのは、
おじいちゃんが作ったお握りでした。
それから、
私は部活が忙しくなり、
弟もなかなか行けなくなりました。
おじいちゃんが亡くなったのを知ったのは、
私が高校の修学旅行で京都にいたときでした。
担任が私の側にきて、
「◯◯ちょっと来て」と、旅館の電話がある場所へ連れて行きました。
その電話は、
おじいちゃんが亡くなったという電話でした。
祖父母が住んでいる場所とは真逆な場所で、
今すぐこちらに向かっても間に合わないから、
修学旅行を楽しんできて欲しい、と。
現在のように交通の便が良くなかった頃でした。
最後におじいちゃんに会ったのは、
あの真っ黒焦げになった玉子焼きの時でした。
私は、
「おじいちゃんなんか大嫌い!」と言ってしまったことを謝れないまま、
祖父は天国へと旅立ってしまいました。
人には、
時の限りがあり、
【その時】が最後かもしれないこと、
言わなければならないことは、
きちんと伝えなければ
機会すら失われてしまうことがわかりました。
それでも、
厚焼き玉子を作るたびに思い出します。
「お姉ちゃんが作った玉子焼きは美味しいよ」
祖父の優しい声だけは、
今でも鮮やかに
思い出すことができるのです。
写真は「写真ac」様からお借りいたしました。いつも素敵な写真をありがとうございます。