
追悼:アンジー・ストーン(1961-2025)
アンジー・ストーンが亡くなった。早朝に目が覚め、何気なくSNSを見たらアンジーの訃報を海外のメディアが伝え始めていたところだった。2月28日にアラバマ州モビールでコンサートを行った後、3月1日の早朝、アトランタの自宅に戻る途中、乗車していたヴァンが同州モンゴメリーのフリーウェイで横転し、トラックと衝突。9名ほどいたとされる同乗者のうちアンジーだけが亡くなったという。なんという悲劇….。以前、重篤な血栓症を発症するなどして体調を崩していたとも言われていたが、現在は精力的にライヴもやっていたのだ。モビールでのコンサート後には、3月1日にボルティモアで開催された「CIAA's Men's Championship Basketball」のハーフタイムショーで歌う予定だったという(モビールから直接ボルティモアに向かっていたという報道もある)。63歳。若くはないが、高齢というにはまだ少し早い。
ここのところソウル/R&B界のレジェンドたちの訃報が相次いでいる。ジェリー・バトラー、グウェン・マックレー、ロバータ・フラック、クリス・ジャスパー(元アイズレー・ブラザーズ)など。彼らの場合は高齢であり、悲しい出来事ではあるにしても、人間の寿命を考えると仕方がない。だが、アンジーは突然の事故死。R&BファンとしてはアリーヤやTLCのレフト・アイの悲劇も頭をよぎる。こうした訃報であまり騒ぎ立てたくないが、アンジーは、ヴァーティカル・ホールド以降リアルタイムで追ってきた大好きなシンガーだったし、彼女のインタヴュー記事やCDライナーノーツを書いてきた者として何かを書き記すのは礼儀だと(勝手に)思って久々に投稿している。以下、ソロ・デビューに至るまでのキャリアも含めて手短に。
その前に…訃報を受けて、自分が好きなアンジーの曲や客演曲を並べたプレイリストをSpotifyで作成したので貼り付けておく(バック・コーラスやソングライターとしての参加曲は除く)。シークエンスやヴァーティカル・ホールド時代の曲も含むが、ジェリー・デヴォーのプロジェクト“デヴォー“時代の曲などSpotifyにないものもあり、入っていない。ご了承を。
アンジー・ストーン(出生名はアンジェラ・ラヴァーン・ブラウン。1961年12月18日生まれ)といえば、初期ディアンジェロの後見人だったこともあってネオ・ソウルのシンガーというイメージが強い。確かに『Black Diamond』(99年)や『Mahogany Soul』(2001年)といった初期のソロ・アルバムには、そうした要素が少なからずある。ディアンジェロとの共作でラッセル・エレヴァドがプロデュースした「Everyday」やラファエル・サディークが手掛けた黒人男性讃歌「Brotha」はその典型だ。ただ、アンジーもディアンジェロも“ネオ・ソウル“という言葉に対しては自分の知る限り肯定的ではなく(かなり嫌っていた)、アンジーの場合、キャリア全体を見渡してみても、そこだけに縛られるような人でもない(後で触れる)。なにしろ“ネオ・ソウル“に辿り着くまでに20年近くのキャリアがあったのだ。
アンジーは、地元サウス・カロライナの女の子たちで結成したフィメール・ヒップホップ・トリオ、シークエンスのメンバーとして79年にデビューしている。シークエンスは、シルヴィア・ロビンソンとその夫ジョー・ロビンソンが主宰した名門シュガーヒル・レコーズ初の女性グループだった。彼女たちは80年代前半に3枚のアルバムを出している(現在Spotifyで聴けるのは82年のセカンド・アルバム『The Sequence』のみ)。
代表曲はデビュー・シングルにして最大のヒットとなった「Funk You Up」(79年)。Pファンクのパーレットやブライズ・オブ・ファンケンシュタインあたりに通じる軽快なディスコ・ファンクで、オールドスクール・ヒップホップの時代らしいパーティー感覚が小気味よい。これは後にアンジーがクイーン・ラティファやバハマディアと一緒に客演するエリカ・バドゥの「Love Of My Life Worldwide」(2003年)でサンプリングされた。

※写真左がアンジー
なかでもアンジーのヴォーカルがたっぷり味わえるのが、セカンド・アルバムに収録された「Love Changes」だ。もともとはマザーズ・ファイネストの曲で、R&Bの世界ではデュエットの定番としても歌い継がれてきた名バラード。シークエンスのヴァージョンは82年のリリースだから、当時アンジーは20〜21歳。後にパートナーとなるディアンジェロが同じくらいの年齢でデビューした時もそうだったが、ずいぶん老成しているというか、声自体は若々しいが堂々とした歌いっぷりだ。小さい頃から地元の教会でゴスペルを歌って喉を鍛えていたという話にも頷ける。
ややハスキーで深く包容力のあるヴォーカルはアンジーのシグネイチャーだ。古くはアレサ・フランクリン、ソロとして同時期に活躍したシンガーならレイラ・ハサウェイやレディシ、最近ならタンク・アンド・ザ・バンガスのタリオナ”タンク”ボールあたりの声を聴くとアンジーを思い出す。ブラック・パワーを誇示するアフロヘアは70年前後のロバータ・フラックを彷彿させる。ロバータのどこか切なげなヴォーカルも受け継いでいるように思う。
シークエンスとしての活動を終えたアンジーはマントロニクスのアルバムにも参加していた。80年代中期に登場したエレクトロ・ヒップホップ〜ファンク・ユニットで、ブライス・ウィルソン(後にアメール・ラリューとグルーヴ・セオリーを組む)が加入した後の91年のアルバム『The Incredible Sound Machine』に、アンジー・B.ストーン(A.B.ストーン)名義でソングライティングやバック・ヴォーカルなどに関わっていたのだ。

そして、マントロニクスのアルバムで一緒に曲を書いていたデヴィッド・ブライト、およびウィリー・ブルーノの男性二人と組んでいたのがヴァーティカル・ホールドというR&Bユニットだった。アンジーはリード・ヴォーカルとして参加。彼らはアーサー・ベイカーのクリミナルから88年にシングルを出した後、A&Mから『A Matter Of Time 』(93年)と『Head First 』(95年)という2枚のアルバムをリリース。前者からは「Seems You're Much Too Busy」が話題になり、そこには先頃他界したクリス・ジャスパーがいた時代のアイズレー・ブラザーズ「Don't Say Goodnight(It's Time For Love)」のカヴァーも含んでいた。セカンドには「Sounds Of New York」という曲もあったが、ヴァーティカル・ホールドは当時台頭し始めたヒップホップ・ソウルなどに目を配りながらも、US R&Bというよりは同時期のUKソウルに近い洒脱でアーバンなR&Bをやっていた。

そんなヴァーティカル・ホールドのセカンド『Head First』でエグゼクティヴ・プロデューサーを務めていたのがキダー・マッセンバーグである。後にディアンジェロやエリカ・バドゥを送り出す名伯楽で、Neo Classic Soulを標榜してキダー・エンタテインメントを設立した後、モータウンの社長にもなる御仁だ。そうしたキャリアから“ネオ・ソウルの生みの親”とされるが、ネオ・ソウルというターム自体は2000年頃に様々な過程を経て偶発的に生まれたもので、キダー(だけ)が考案したとは言えない。

セカンド『Head First』にはクロージング・ナンバーとして、ほぼピアノだけをバックにアンジーが歌う教会マナーのバラード「Pray」が収録されている。そのピアノを弾き、2ヴァース目から歌でも絡んでくるのが、当時アンジーと恋仲にあったデビュー直前(あるいはデビュー直後)のディアンジェロだった。当時のディアンジェロに対するアンジーの献身やDとの蜜月については『ディアンジェロ《ヴードゥー》がかけたグルーヴの呪文』に詳しい。
こうしてアンジーは、ディアンジェロの『Brown Sugar』(95年)で「Jonz In My Bonz」、『Voodoo』(2000年)で「Playa Playa」「Sent It On 」「Africa」などを共作。ロンドンのJazz Cafeで行ったディアンジェロのライヴにアンジーがバック・ヴォーカルで参加していたこともよく知られている。
が、アンジーがソロ・デビューするのはまだ先。ディアンジェロがデビューして間もなく、アンジーはマルチな才人ジェリー・デヴォー(レニー・クラヴィッツの従兄弟)によるプロジェクト=デヴォー(DEVOX)にリード・ヴォーカリストとして参加している。この時の名義はアンジー・B.ストーン。スリー・ディグリーズ「天使のささやき」のカヴァーを含むアルバム『DEVOX featuring Angie B.Stone』(96年)は、日本の東芝EMIから発売されただけで終わってしまう。

これらを経て、99年、ネオ・ソウルという言葉が定着するかしないかの時にアンジーはソロ・デビューを果たす。最初のアルバム『Black Diamond』(99年)はアリスタからのリリースだったが、DEVOXのロゴも刻まれ、ジェリー・デヴォーも楽曲プロデュースに関わっていた。ATCQの活動をストップしたばかりのアリ・シャヒード・ムハマンドがウマーとして手掛けた曲もあった。
その後のアルバムに関する詳細は省くが、ラファエル・サディークやアイヴァン&カーヴィンらが関わったセカンド『Mahogany Soul』(2001年)と、側近のジョナサン・リッチモンド(彼も今年1月に他界)が腕を振るってゲストも多数な『Stone Love』(2004年)がJ・レコーズからのリリース。続いて当時再興したスタックスから『The Art of Love & War』(2007年)と『Unexpected』(2009年)を発表。ベティ・ライトとの再コラボを含む2007年作はアルバム・トータルとしてアンジーの最高傑作だと思っている。その後、サグアロ・ロード・リズムから『Rich Girl』(2012年)、シャナキーからウォルター・ミルサップIIIらが元クラッチの面々と組んだ『Dream』(2015年)を発表。ゴールデンレーンから出したカヴァー集『Covered In Soul』(2016年)をはさんで、ウォルター・ミルサップIIIが主宰するコンジャンクションからの『Full Circle』(2019年)と続き、同じくコンジャンクションからの『Love Language』(2023年)が最後のオリジナル・アルバムとなってしまった。
アンジーといえば、ディアンジェロやジョナサン・リッチモンドも含めて、男性シンガー/ミュージシャンを舎弟として抱え込み、自身の作品にデュエット相手などとして招いていた(時には恋仲になった)ことでも有名だ。大半に共通するのは教会/ゴスペルのルーツがある人たちで、シンガーならディープな歌い口で飾り気のない本格派を好んだ。カルヴァン・リチャードソン、アンソニー・ハミルトン、ジャヒーム、デイヴ・ホリスター、ジョー、ミュージック・ソウルチャイルドといった面々だ。そうした中、久保田利伸(TOSHI)ともデュエット。その曲「Hold Me Down」を含むUSリリース・アルバム第3弾『Time To Share』(2004年)ではジョナサン・リッチモンドとともにアンジーが数曲を共作していた。久保田は「ネオ・ソウルをアンジー(たち)から教わった」と、たびたび口にしている。
そういえば、ラスト・アルバムになってしまった『Love Language』には、ラッパー/シンガーとして活動する息子スウェイヴォ・トウェインを迎えた「Old Thang Back」も収録。これが「Everyday」を思わせるディアンジェロ風のネオ・ソウルで、スウェイヴォの声や唱法もDに似ているが、彼の本名はマイケル・ディアンジェロ・アーチャー2世、つまりこのスウェイヴォこそがアンジーとディアンジェロの間に出来た息子(98年生まれ)である。自身のソロでは”ディアンジェロ meets トラップ”みたいなこともやっている。
アンジーはシークエンスの末期(84年)にも、シュガーヒルの元同僚であったファンキー4+1のリル・ロドニー・Cことロドニー・ストーンとの間にも子供を儲けており、その娘の名はダイアモンドという。ダイアモンドとはサントラ『Brown Sugar』(2002年)に収録された「Bring Your Heart」で共演。『The Art of Love & War』収録の「Baby」のバックでもダイアモンドが歌っている。
そこでネオ・ソウルだ。アンジーはディアンジェロの後見人ということもあって、いわゆるネオ・ソウル周辺のミュージシャンと懇意にしていた。が、ディアンジェロのもとから離れると少し距離ができた。クエストラヴとジョス・ストーンの仕事で同席したり、ラファエル・サディークの曲に客演したり、アンソニー・ハミルトンとデュエットするなどしてはいたが、ソウルクエリアンズ周辺とは隔たりがあったように思う。エリカ・バドゥがアンジーを招いた時も“同志“というより”先輩”という感じだった。世代的にもソウルクエリアンズ一派は70年代生まれが中心(ディアンジェロは74年生まれ)で、ひと回り上のアンジー(61年生まれ)は微妙に感覚が違ったのかもしれない。
アンジーのヴォーカルや音楽は、ディアンジェロやラファエル・サディークらが関わったものこそネオ・ソウル風だが、彼女のアルバムを聴けば分かるように(シークエンスというヒップホップ・グループの出身とはいえ)ヒップホップ以降のR&B感覚は薄い。チタリン・サーキット系とまではいかないがサザン〜ディープ・ソウル、あるいはゴスペルのフィーリングが強く打ち出されている。その意味ではアンソニー・ハミルトンやカルヴァン・リチャードソンも同じで、NYやフィラデルフィアあたりの北東部の都会的なソウル(≒ネオ・ソウル)と南部ソウルの中間あたり、そのどちらでもない感覚がアンジーの音楽にはある。それは彼女の出身地がサウス・カロライナというディープ・サウスに区分される地域でありながら北東部に近い地域でもある地理的特性も影響していて…とは強引すぎるけど。思えば、ディアンジェロ(ヴァージニア出身)、アンソニー・ハミルトンやカルヴァン・リチャードソン(ともにノース・カロライナ出身)もアンジーと同じいわゆる“オールドサウス”の出身で、言葉では言い表せない共通感覚のようなものがあるのかもしれない。
自身の先輩にあたるソウル/ファンク・レジェンドのトリビュート企画にも参加していた。スティーヴィー・ワンダー、ルーサー・ヴァンドロス、アース・ウィンド&ファイア、クール&ザ・ギャングなどの曲を歌うアンジーは、どれもさすがの歌いっぷりだ。そうしたカヴァー/リメイクに加えて、プリンスやオマー、グールーとのコラボ、映画サントラなどで披露した曲も含めてSpotifyで聴けるものは先のプレイリストに入れている。
ライナーを書いたとかインタヴューをしたという個人的な思い出話はどうでもいいけど、何度か会った印象では歌声どおり包容力を感じさせる素敵な女性だった。一方で感情の起伏が激しかったとも聞く。娘ダイアモンドに対する暴行事件も報道された。が、どこまでが本当の彼女なのか、こればかりはわからない。相手との関係性もあるし、インタヴューにしても本人の気分や体調、インタヴュアーとの相性や会話の内容などによって発言や態度も違ってくるはずで、見え方は人それぞれ。なので、アンジーのことに限らず、ひとりの所感だけを鵜呑みにはできない。
昨年11月からラジオ日本でスタートしているR&Bのミニ番組「R&B Experience」で、クリスマス・イヴの放送回にアンジーのホリデー・ソング「All I Missing You」をかけた。以前からアンジーのバック・コーラスをやっていたワニータ・ウィン、デトロイトの気鋭J.ブラウンを招いた切なくも心温まる曲。そのタイトルやリリックを今改めて見ると、何だか寂しくなる。
思えば、ソロとしての出世曲「No More Rain(In This Cloud)」はグラディス・ナイト&ザ・ピップス「Neither One of Us(Wants to Be the First to Say Goodbye)」(邦題「さよならは悲しい言葉」)をサンプリングしたバラード。これも元ネタの哀感も相まって切ない、けれど一条の光が差し込むような曲だった。まだ、さよならは言いたくなかったけれど、残されたアンジーの曲を大切に聴いていきたい。我らがソウル・シスタよ、安らかに…