夢の終わり
わたしはずっと夢を見ていました。努力をすれば、連作を作り込めば、完璧なものを作ることができて、その「完璧」というパラメータは、主観的でも客観的でもありえるものであるという夢をわたしはずっと見ていました。この夢のなかでは、わたしは痛覚という感覚を遮断することができていたように感じます。「完璧」を志向するのに伴っていたであろう痛みは、わたしにとって痛みではありませんでした。
第3回U-25短歌選手権の発表が七月末にありました。完璧な歌を、完璧な並びで配置した25首連作『ヴァニーユ』は受賞ではありませんでした。思えば、この瞬間にわたしは夢から醒めていたように思えます。主観的な評価と客観的な評価の差異に消化しきれないものを抱えたまま、第36回歌壇賞のために30首連作『花冠を』の製作をはじめました。作り始めてから完成までの間、そして結果が出るまで、思い返せばずっと痛みを感じていました。夢のなかでは覚えるはずのない痛覚に晒されながら、その先にわたしの信じる完璧な作品があると信じて、自身をその痛覚に晒し続けていたように感じます。そして、この痛みに身を晒し続けた結果わたしに残ったものは、疲弊しきった自身の心と身体だけでした。
一度夢から醒めてしまった以上、痛みを感じることなくわたしが短歌をすることはもう不可能です。今のわたしの身体と心が、次に作品を作るときにわたしを襲うであろう痛みに耐えられるとは到底思えません。また、痛覚を持ちながらも痛みを感じずに生み出された作品が、わたしにとってもあなたにとっても完璧な作品であり得るはずがありません。
夢というものは、見たくて見られるものではないと思います。それでも、もう一度わたしが見ていた夢の続きが見られるならば、痛覚を遮断して短歌という詩型に向き合うことができる期間がまた訪れるならば、きっとわたしは短歌に戻ってきます。みなさま、それまでどうかお元気で。これが最後だとすれば、みなさま、この先もどうかずっとお元気で。