ニーチェ『偶像の黄昏』或る反時代的人間の遊撃 49-51

"ゲーテ"は──ドイツ的事変ではなくて、ヨーロッパ的事変である。すなわち、自然への復帰によって、ルネサンスの自然性へと"高まりゆく"ことによって一八世紀を超克する一つの大規模な試み、一八世紀の側からの一種の自己超克である。──彼は、一八世紀の最も強い諸本能を、すなわち、多感性、自然の偶像崇拝、反歴史学的なもの、理想主義的なもの、非現実的で革命的なもの (──革命的なものは非現実的なものの一形式にすぎない) をおのれ自身のうちにもっていた。彼は、歴史学、自然科学、古代を、同じくスピノザを、なかんずく実践的活動を利用した。彼はまったく閉ざされた地平線でおのれを取り囲んだ。彼はおのれを生から分離せず、彼は生のうちへと身を置き入れた。彼は気おくれしたことがなく、能うかぎり多くのものを引き受け、担い、取り入れた。彼が欲したもの、それは"総体性"であった。彼は、理性、感性、感情、意志の分裂と戦った (──この分裂は、ゲーテの対蹠人"カント"によってこのうえなくひどいスコラ学のうちで説かれたのだが)。彼はおのれを全体性へと鍛錬し、彼はおのれを"創造した"……彼は、非現実的な考えをもっていた時代のただなかにあって、一人の確信をもった現実主義者であった。すなわち、彼は、彼とこの点において血縁のあった一切のものへと然りと断言したのであり、──彼には、ナポレオンと名づけられたあの最も現実的なもの ens realissimum より以上に大きな体験はなかった。ゲーテが構想したのは、自然性の全範囲と富裕をあえてたのしむことが許されており、このような自由にたえるだけ十分強いところの、強い、高い教養をもった、あらゆる肉体性において堪能な、おのれ自身を拘束できる、おのれ自身を畏敬する人間であった。それは、弱さからのではなくて、強さからの寛容の人間であるが、というのは、この人間は、平均的な本性の持ち主なら徹底的に没落するかもしれないものをも、おのれの利益として利用することを心得ているからである。それは、背徳と呼ばれようと美徳と呼ばれようと、"弱さ"をのぞいて、もはや何ひとつとして禁ぜられたもののない人間である……そうした"自由となった"精神は、歓びにあふれ信頼のおける宿命論をたずさえ、個別的なものだけが非難されるべきであり、全体のうちでは一切が救済され肯定されているとの"信仰"をいだきつつ、万有のただなかに立っている──"彼はもはや否定することがない"……しかしそうした信仰はすべての可能な信仰のうちの最高のものである。すなわち、私はそれを"ディオニュソス"と命名した。──
(ニーチェ『偶像の黄昏』或る反時代的人間の遊撃 49)

或る意味では一九世紀は、ゲーテが個人として努力してえた一切のものを、"これまた"努力してえようとしたと、言いうるかもしれない。すなわち、それは、理解における、是認における普遍性、あらゆるものを自己に近寄らせること、大胆な現実主義、あらゆる事実的なものに対する畏敬である。その総体的成果がゲーテのごときものとはならず、一つの混沌、一つのニヒリズム的な歎息、出口も入口もわからない一つの戸惑い、"一八世紀へと立ち帰ってつかもうと"実際にたえず駆り立てる一つの疲労の本能であるのは、どうしたことであるのか? (──たとえば感情のロマン主義として、利他主義や超感傷性として、趣味におけるフェミニズムとして、政治における社会主義として)。一九世紀は、わけてもその世紀末においては、たんに強化され"野蛮化された"一八世紀、言いかえれば、"デカダンス"の世紀にすぎないのではなかろうか? その結果ゲーテは、たんにドイツにとってのみならず、全ヨーロッパにとってもたんに一つの偶発事件、一つの美しい徒労であったのではなかろうか? ──しかし人は、偉大な人間を公共の利益というみじめな遠近法にもとづいて眺めるなら、偉大な人間を誤解する。偉大な人間からはなんらの利益も引きだされえないということ、"このことこそそれ自身おそらく偉大さに属するのである"……
(ニーチェ『偶像の黄昏』或る反時代的人間の遊撃 50)

ゲーテは、私が畏敬をはらう最後のドイツ人である。
(ニーチェ『偶像の黄昏』或る反時代的人間の遊撃 51)

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