エドウィン・ルフェーブル『欲望と幻想の市場』
若い頃に得たもう一つの教訓は、ウォール街では目新しいことは何もない、ということだ。投機という行為がはるか昔から行われていたことを考えれば、当然でもあろう。今日相場で起こっていることは、かつて起こったことであり、将来再び起こるであろうことなのだ。このことを一度たりとも忘れたことはない。事実、できるかぎり、いつ、どういう形でそうした動きが起こったのかを思い出そうとした。おれなりの経験を利用するやり方だった。
こうして、最初にテープの意味するメッセージに興味を持つようになった。もちろん変動するには必ず何らかの理由があっただろう。しかしテープそれ自体が示すことは「なぜ」や「どうして」は関係ないのだ。理屈ではない。十四歳の時、おれは価格変動の理由を問わなかった。そして四十になった今でも、その信条は変わらない。今日の変動の理由は時がたてばわかるかもしれない。あるいは、数日たっても、数週間、数ヶ月たってもわからないかもしれない。それでも何ら問題はない。重要なことは今現在である。だが、ただちに行動しなければ手遅れになるのだ。おれはその手の失敗を幾度となく見てきた。ほとんどの銘柄が激しく急騰するなか、ハロー・チュープが三ポイントも下げた日があった。それが現実なのだ。翌月曜日に、経営陣は無配を発表した。それが下落の理由だ。彼らは無配の決定を知っており、売りは控えたとしても少なくとも自ら買うことはしなかった。インサイダーが買わなかったのだ。落ちない理由はない。
おれはこの小さなメモ帳を、そう、おそらく六ヶ月ほどつけていた。仕事が終わってもすぐには帰らず、気になった銘柄の値を書きとめ、その動きが過去になかったか、変動パターンに類似例はないか調べた。当時、意識していたわけではなかったが、まさに値動きの読み方を実地で学んでいたわけだ。
二十歳の時には一万ドルを稼いで、あのシュガー株取引時の証拠金だけでも一万ドルを超えていた。しかし、いつも勝負に勝っていたというわけではない。おれの取引方針は適切なもので、負けるよりは勝つはうが多かった。一〇回の取引のうち七回は正しかったと思う。実際、相場に入る前から自分の推論の正しさを確信している時には、いつも儲けを手にした。おれが手痛い目に遭うのは常に、おれの方針――つまり過去の例からすると自分の判断が正しいと自信を持ってゲームに臨める時にしか相場に入らないという方針――を守ることができない時だった。ものごとには潮時というものがあるということがおれはまだわかっていなかったのだ。まさしくこの問題が、かなり年季の入ったトレーダーをも手痛い目に遭わせるのだった。ただの愚か者は、いつでもどんな時でも誤った行動をとる。しかし、いわゆるウォール街の愚か者の場合、常に相場に参加していなければならないという強迫観念から過ちを犯すのだ。毎日売ったり買ったりすることの正当性を説明することは誰にもできないし、そもそもそんなやり方には知性の片鱗もないと言える。
経験によってテープの情報を判断できた時には儲かり、単なる愚か者の行動に終始した時には損をする。おれとて例外ではない。身をもって学んだ。証券会社のオフィスには大きな相場ポードがおれを見下ろしていて、ティッカー・テープの表示は刻々と変わり、相場に参加した人々は自分のチケットが金に変わるか、はたまた紙と化すかを見守っているのだ。もちろん、おれの場合も、達成感への欲望が冷静な判断に勝ることがあった。合百では証拠金も小さく、ポジションを長く引っぱれない。いとも簡単にやられてしまう。相場の環境がどうであれ、常に取引していたいという欲求は、例えば、サラリーマンのような安定した収入を相場に期待するウォール街のプロに少なからず手痛い打撃を与えると思う。とにかく、おれもまだ若かった。当時は、相場を静観するということなど思いもしなかった。十五年後、破産して何とか取り戻そうと躍起になっていた時には、とにかく失敗は許されなかったから、用心に用心を重ね、待ちに待って、上がると見た銘柄も二週間かかって三〇ポイント上がってからようやく買いの決心をつけたものだ。一九一五年のことだ。
相場で生計を立てていくつもりであれば、自分を、自分の判断を信じなければならない。この信条ゆえにおれは他人の情報を信用しないのだ。他人の情報によって株を買ったなら、売る時もその情報に従わねばなるまい。そんな具合に頼っていたら、ちょうど売り場になった時に、その男が休暇で不在だったとしたらどうすればいいのだろう。他人の言葉に従っている限り、大金を手にすることなどかなうわけがない。経験から言って、自分の判断力に勝る武器はない。しかし、相場を正しく判断しても、それを実際の大きな儲けに結びつけられるようになるのにゆうに五年はかかったのだ。
おれの経験してきたことは、大して興味を引く話でもあるまい。冷静になって眺めてみると、投機の方法を学ぶのはそれほどドラマチックではない。破産した経験は、それ自体決して愉快なことではないが、おれは常にウォール街で失敗する人の典型といった形で負けた。投機はタフでハードな仕事だ。一時たりとも相場から目を離せば、すぐに駆逐されてしまう。
おれは問題を直視するどころか注文執行に関係なくただやみくもに取引し続けてきた。おれは指値で取引しなかった。おれは相場のチャンスに賭けた。おれは、ある値段に勝とうと思ったのではなく、相場に勝とうとした。売り時と確信すれば売り、相場が上昇すると思えば買った。この投機の大原則を守ってきたことで、おれは生き残ってきた。指値で取引していれば、それはかつての合百でのやり方を中途半端にプローカーでの取引に適用したものにすぎなかっただろう。おれは株の投機とは何かについて一度も勉強しようとしたことはなかったが、限られた経験のなかで確実と思われることに賭けるように努めてきたわけだ。
テープの情報が使えないとわかってからは、相場でのハンディを最小限にするために指値で取引してみたが、ポジションをつくることができないうちに相場が動いてしまうということが頻繁に続き、結局、あきらめた。目先の相場の動きに恐る恐る賭けるのではなく、相場の大局をを想するということを習得するのにどれだけ長い時間かかかったことだろう。簡単に説明できるものではない。
この五月九日の失敗以降、まだ欠点はあるがそれまでのやり方を少し変えた形で慎重に取引した。おれにかつて儲けた経験がなかったなら、相場での智恵をもっと早く身につけることができただろう。おれは相場で儲けることができたし、それで十分に生活していたのだ。気の合う友だちもおり、楽しく暮らしていた。その夏は、ウォール街の他の裕福な連中と同様に、ジャージー・コーストに住んでいた。おれのその後の稼ぎは、それまでの損失を埋めつつ、この生活を維持するには足りなかった。
おれは決して頑固に自分のやり方に拘泥したわけではない。ただ、自分の問題を明確化できなかったのだ。だから当然、その解決は見込み薄だった。おれはこの問題に悩み続けた。大相場にも、おれのかっての相場攻略法は役立ちそうになかった。
その年の初秋、おれはまた無一文になり、もうほとほと相場に嫌気がさしてニューヨークを離れることにした。どこか他の土地で違うことを始めようという気分だった。おれは十四歳で相場を始め、十五歳で最初の一〇〇〇ドルを儲け、二十一歳になる前に一万ドルを手にした。一度に一万ドルを儲けたことも、逆に失ったこともある。ニューヨークにいた間にも何千ドルか儲け、そして失った。一度に五ドルを儲け、それを二日後には失った。おれは相場以外何も知らなかった。相場に手を染めて数年後、おれは振り出しに戻った。いや、もっと悪い。その間に贅沢な生活が身についてしまったからだ。しかし、この生活を失うことぐらい、相場で負け続けたというタメージに比べれば大したことではなかった。
相場を――すなわちテープに記録される価格の変動を――観察する目的はただ一つ、相場のトレンド、つまり相場の方向を見つけることにある。相場は、ご存知の通り、抵抗に沿って上下する。簡単に説明すると、相場は他の万象と同様、抵抗が最も小さいところを狙って動くのだ。もし上昇への抵抗が下落への抵抗よりも小さければ価格は上がる、ということだ。
投機では不測の出来事――そう、とりわけ予測不能のものの影響がもっとも手痛い。トレーダーなら誰だって賭けてみるべきチャンスというものもある。普通のビジネスにつきものの事故は交通事故と大して変わりはない。予期せぬ相場の展開で損をしたというなら、それは運悪く嵐に遭ったと同じ程度のことで、おれもさして腹は立たない。思えば人生は生まれた時から死ぬまで賭けの連続なのであり、神ならぬ身としてはハプニングは予知できるものではなく、その大半を受け入れざるをえない。しかし何度かは投機家として耐え難い思いもした。そう、おれ自身は正しく判断しまっとうに行動したにもかかわらず、おれに敵意を抱く者の卑怯かつあさましい振舞いのせいで手に入るべき利益がふいになったという経験だ。
おれは別のプローカーで取引を始めたが、行く先々で損を出した。それも当然だろう。おれはありもしない儲けのチャンスを求めて、相場に自分の望みをはめこもうとばかりしていた。おれは知人からは信頼されていたから、投機のための借金には困らなかった。おれは絶大の信頼を得ており、信用取引をやめた時には負債が一〇〇万ドルを超えていた。
取引の勘は決して喪われていなかったのだが、とにかく当時の相場環境は儲けるチャンスがまったくなかったのだった。それでもおれはしこしこ取引を続け、結局、借金を増やしただけだった。それ以上友人から借金するわけにもいかなくなり、やがておれの手腕を買ってくれる人から託された資金を運用することで食いつないでいく境遇に陥った。もし儲かれば、儲けの数パーセントを手数料として受け取るのだ。こうしておれはかろうして糊口を凌いでいた。
もちろん常に相場に負けていたというわけではない。だが、借金はいっこうに減らなかった。おれは生まれて初めて、挫折感というものを味わい始めていた。
何をやっても駄目だと思った。豪奢な生活から質素な境遇に転落したことを嘆いていたわけではない。新しい境遇はもちろん楽しいものではなかったが、だからといって自分を憐んだこともない。もっとも、運命がこの試練を終わらせるまで辛抱するつもりもなかったから、おれは自分の問題点の検討を始めた。この境遇から抜け出すためには儲けること以外に術はないのは明白だった。そして儲けるためにはかつてのように取引で成功しなければならない。過去にもごくわすかな元手を何百万ドルにまで増やすことができたのだ。そのうちチャンスがまた巡ってくる。
おれは、何か問題があるとすればそれは相場にではなく、自分に原因があるのだと自ら言い聞かせた。では問題とは何か。おれはいつも取引で問題が生じた場合と同じように考えてみた。冷静な検討の結果借金があることが問題の根本だとの結論に達した。借金のことが常におれの頭から離れず、嫌な思いをし続けていた。それは単に借金があるというのとは違う。借金はどんなビジネスにもつきものであって、景気の悪い時には避けられないことであり、おれにとっても純然たる仕事上の事柄でしかない。
しかし、返済がままならぬまま月日が経つにつれ、おれは借金をこのように冷静には考えられなくなっていた。ゆうに一〇〇万ドル以上を、――しかもそのすべてを相場で拵えたのだ。おれに金を貸してくれた知人はほとんどが鷹揚で、しつこく取り立てに来たりはしなかった。しかし二人だけはおれをつけまわした。どんな些細な規模でもおれが相場で儲けたと聞くと、すかさず返済を要求してきた。おれが八〇〇ドルを借りていた男はおれの調度品を差し押さえるとか告訴するとか言ってさんざん脅してきた。確かにおれは今にも死にそうなほど困窮しているとは見えなかったかもしれないが、それにしてもなぜ彼がかくも執拗におれが資産を隠し持っているのではないかと疑っていたのか、今でも解せない。
やがておれは今回の問題はテープの読み方に落ち度があったのではなく、自分の心の把握のしかたに問題があったのだと気づいた。何かに悩んでいるかぎり成功は覚束ないこと、そして借金を続けているうちは悩みが消えないことも明らかになった。つまり、債権者が返済を求めておれの取引にロ出ししたりするかぎり、復帰の足がかりとなる元手を貯めることすらできないということだった。これがまさしくその時の状況だった。おれは破産の申立てをすることにした。他に方策はなかった。
これこそが賢明でしかも簡便な方法だと思えた。もちろん、後味は悪い。おれだって自分が誤解されるような行動はとりたくない。おれはこれまでも金に執着したことはなく、嘘をついてまで金に拘る気はなかった。苦境を抜け出した暁には耳を揃えて借りを返すつもりだった。しかし誰もがそう考えるわけではない。いずれにせよ、とにかく以前のように自由な気持ちで取引できなければ、借金すべてを返済することは不可能なのだ。
おれは勇気を奮い起こして債権者に会いに行った。ほとんどが親しい知人だったから、つらかった。
おれは率直に状況を説明した。「破産申立ては決して返済を放棄することを目論んでのことではなく、気特ちの上で借金から自由になってまた取引で儲けられるような条件をつくるためです。あなた方にとっても私にとっても、これが最良の選択だと思うのです。このことはこれまで二年間ほどずっと考えてきました。しかし、言い出す勇気がなかったのです。もしもっと早くお願いしていれば事態はこれほど悪くならなかったと思います。借金があるかぎり落ち着いて取引に専念できないことがようやくはっきりとわかったのです。一年前にこうやってお願いすべきでした。それ以外の邪な考えは一切ありません」
おれの釈明を聞いて債権者は一様に次のように反応した。つまり、自分のビジネスの見地からこう答えたのだ。
「わかりました。ご依頼に応して債権を放棄しましょう。書類をご用意下さい。サインしますから」
おれに大口で貸してくれていた債権者は、概ね皆がこのように答えてくれた。ウォール街とはそういうところでもあるのだ。彼らは決して寛大なスポーツマン精神のみから依頼に応じてくれたのではない。純然たるビジネスの判断としてもそうしたほうかいいという結論に達したのだ。彼らの親切と、因習に囚われない自由なビジネス精神におれは感謝した。
その時どれだけ昔の規模で取引したいと思っていたことか。とにかく早く元の規模に戻りたくて、最初の取引が確実に儲けに結びつくよう、できるかぎりの努力をしなければならず、慎重に動くことが必要だった。べツレヘム・スティールはおれの思惑通りにじわじわと上昇して行き、おれはウィリアムソンの店に飛びこんで五〇〇株買いたくなる衝動を必死の思いで抑えた。
この待ちの姿勢は、見方によっては相場が一ポイント上昇するごとに五〇〇ドルの儲けを逃したということでもある。最初の一〇ポイントの上昇は、もしその時買っていればピラミッディングも可能であって五〇〇株を一〇〇〇株に増やし、その後は一ポイントの上昇で一〇〇〇ドルの儲けも可能であったことを意味した。しかし、おれはじっと耐え、自分の信念や経験、常識からもたらされるであろう声を待った。ささやかでもいったん資金をつくることができればチャンスに賭けることができる。しかし、資金がなければ、どんなに小さな冒険も手の届かない贅沢なのだ。おれは六週間じっと耐えた――そしてついに常識が欲と望みに勝ったのだった。
それがどんな類のビジネスであれ、とにかく最初が肝腎なのだ。おれの場合もこの時以降取引は本当にうまくいった。それまでのおれとは別人のようだった。事実、別人になったとも言えただろう。おれを悩まし続けた借金もなく、それによって判断を誤ることもなくなったのだ。もうおれを追いまわす債権者はおらず、資金がないことで判断を誤ったり経験を活かせないといったこともなくなった。おれは相場で勝ち続けた。