ディープステート傀儡政権日本の過去――FACEBOOK 過去記事から(2014年朝日新聞 作家高村薫氏の言説に寄せて、皆で討議)
この記事の、高村氏の 以下の論点について――
何か論理がすれ違っています…
(――と私が言ったのを皮切りに、やりとりが始まりました‥。)
私の意見の続き
※これはちょうど現今において、WHO 及び 国内現政権 が「もはや交渉相手ではない」と判断するのに相当しています‥。
言葉を続けていました。
ではどういう方法があるというのか、という問いに対しては私は具体的な提示を持ちませんが‥
すくなくとも今言えるのは、彼女の問い
<何が得なのか> の前提条件( if 前文)は、「国民の立場に立てば」であり、「国民の立場に立った場合の」合理性なのであって、
この問題のねじれの秘鑰は、そもそもその立場には立つつもりなど無い人びとが相手(権力)である、ということ。相手ははじめから良識的前提の外に居るのです。国民の側からの合理性など、もとより何ら斟酌していない。
一千兆円の借金のツケを負うのも、<もうかる戦争>の惨禍を負うのも彼らではない。
※ましてこの国を操る 裏組織 に於いてをや‥という訳ですね‥。いまにしてみれば‥
これに対する、当時の皆様の反応‥
私
Nさん
53%支持ですか…。ではその支持者に対して彼女は論を向けていると理解したほうがよいのでしょうか。どうも文章を読んだ感覚だと、新聞の読者はもちろん国民なのでそれは当然含むとしても(意識の前提として)政府に言っている――説得を試みている――ように取れてしまうのですが…
「(平和のための外交に)力を入れるべき」という主語(or説得対象)にしても。また「戦争をしない」(orする)のを決める権限を持つのは畢竟政府なのですし
M君
仰るとおりですね。戦争をする権限を手中にしていて、かつ儲かるために戦争をしたがっている主体の身になって考えれば、Mさんの論理展開が素直ですし(倫理の問題を外せば。そして倫理の問題は事実、予め外れています)そういう展開をしたがるでしょう。そのリアリズムに立った理解とは、この記事は私にも思えません。肝心なところで(合理的判断の)主語が代わってしまうように感じられますね
戦争をしたがるリアリズムなんてないだろう――あってほしくない=ないことにする――という発想ゆえの危機感の希薄さは、言論人にもありがちだという話をMさんと昨秋、致しました。思い出しましたが、ようやく危機感を私たちと共有してくれたのかな?と思える程、いよいよ窮地になる前まで――つまりついこの間まで(秘密保護法はもう話題にのぼっていたはずの時期です)、頼りになるはずの言論人も「民主主義の危機(?笑)」みたいな標題をかかげていました。笑、は余計でしょう、と思ったのですが‥。
※民主主義の危機?笑)と言っていたのは、どなただったか‥もう忘れましたが、内田樹氏だったかもしれません(2024/06/23記)
S様
知識人・言論人の発言は(その範囲も幅広くあるとは思いますがおしなべて)、前以て個人個人の議論を超越している、という特権を得ています。逆に、どんな有効な言論も、肩書きが一般人、から発された場合には自動的にあくまでも個人個人の意見とならざるを得ません。つまりこの事を状況論の位相でいいかえると、それだけになおさら知識人は、政治的状況(独裁政治への陥落、ターニングポイントの到来)が逼迫すればするほど、状況に対して=状況の帯びる危機の度合いに対して、<じつに精確で有効な>射程をすることを、おのずから要求されるわけです。また国民(読者)に対してまだ敵(独裁政治権力)が国民の願いを受け容れるか、受け容れるとしたらどの程度受け容れるのか などに対する幻想を抱かせるような言論は、できるだけされるべきではなく、またされてしまった場合には厳しいようですが適宜修正されなければならないでしょう。後手に回っている余地も時間もないわけです。
(という危機意識の共有がまずない場合には、これへの理解も、こうした発言の必然性に対する理解も成り立ちえませんが)こんかいの記事にかんしては残念ながら射程が充分であるとの感覚を持ちえませんでしたので、深い危機感からこのような見解とあいなりました。私たち主権者ができるだけ幻想でなく現実を直視しうる言論の展開を希望しています。
個人個人の議論より殆ど自動的に超越的な(マス媒体により開展を約束された)言論人の発言が、危機意識の共有などの前提条件への、射程が浅い場合、個人個人の議論を待つ間にそれこそ「過ちをくりかえす」ことにもなりかねません。貴重な慌ただしい時間と精魂を割いて、また一定の危険をおかしながらも、無名の個人が発言しなくてもすむような、むしろ権力の先を読み先手を打つような発言を、言論の先頭に立つ方々にはよろしくお願いいたします。
ここで、私は 故 瀬戸内寂聴氏が体を張って??おられるか(というかむしろ、ここで引き合いに出されるべき言論をしておられるか)についての自分の判断は保留し、援軍にたいする感謝表明として いいね を打ちました。瀬戸内氏は私の大学の同窓生でもありましたし‥
ところが、この いいね は、のちのち別の女性友達からの反感を買い、私は瀬戸内寂聴は評価していない,好きじゃないという意見を頂戴することにも相成りました。まあいいんだけど‥
Nさんの端的におっしゃるとおりで、言論人や専門家にはそれでメシを食っている以上(金銭の授受が発生し、無名の個人のではなくある権威の声としてマス媒体に流通発信される以上、またその「名」を以てメディアの側から、また人脈から仕事が舞い込んでくる以上、社会的責任を負うのだから)個々人のうけもちと比較にならないほどに体を張ってくれ、専門家冥利に尽きる仕事をこの重大な局面できちんとしてくれといいたいわけです。
個々人の声などこの国においては他の発展途上?国と較べても虚しいものです。集会に何万人集まっても報道もスルー、署名を集めても内閣にスルーされるのですから。この「スルー」状態は日本が飛び抜けてひどくありませんか?これはすでに独裁状態でなくてなんですか。
これでは載せられないだの、もうすこしひねってくれだの、ことの深刻さを証さぬために諷喩で済ませておいてくれだの、あの領域の連中とまで合致した形勢をとるのか?、これ以上寝た子を起こすな、などとメディア(スポンサーや広告業者とのやりとりの絡んだ)との間での駆け引きもあるでしょうが、そんな奸計を必要とする媒体そのものが不透明なわけであり、そのぶん権力に吸収されているわけですから、メディアに檄を入れるくらいなことをしてくれないとほんとうに権力にのまれます
【反省点】
体を張ることは大変である‥。じっさい、このあとに、大物の首相や議員のなかに死者や投獄、他、危ない目に遭った人々の存在を知ることとも相成った。
自分がその立場に立つことを考えてみよう。しかしその立場に居られる人々におかれましては、その立場に居ない者達はしばしばこのようなもどかしさに置かれている旨、是非ご一考をされたく存じます。
マスコミに対する幻想が、未だ残っている時代であった。完全にあちら側に居る人々、国会以上に崩壊している集団、という認識の欠如。
権力、の意味が二重であることの認識の不足。
未だこれでも不足している、と今日了る‥。
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