負けの形作りと言葉の空手形――主観的議論の終始
「負けの形作り」しかできない民主党こそが安倍政権暴走のA級戦犯
(高野孟)~今日のゲンダイより(2014/06/26)を読み
この頃、私は、かゆいところを搔こうともせぬ政治と、かゆいところに手が届きそうで届かぬ内田樹氏の言説の特徴? について、気になることが多かったのだと思う‥。総じてその態度は、危機感を感じてならない人々に、杞憂に過ぎないとの言葉を、畢竟投げていただけの様に想う
FBの投稿によるメモに、その日の高野孟氏の寄稿によせ、こんなことを綴っていた。
他方、この当時出てきた気鋭の山崎雅弘氏についてこう語っている
山崎雅弘
RT @mas__yamazaki
ふつうの日本人の発想では、改正はほんとうに選挙の争点かどうか、のほうが事実(の追求)で、選挙結果によっては憲法改定のハードルを大きく越える、という提起ほうが憶測だと感じがちだが――だがそう思えるのは、実はそこにこそ権力への遠慮やおもねり、いわゆる忖度(ご機嫌伺い・心情に訴えてさじ加減などで何とかしてもらう)が働いているのと、じつはここで現実より希望的観測などの主観を先行させる思考パターンに呪縛されている、からだと了る――このひとは逆をついている。
ほんとうに思考がフリーで知的だと思う。
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だが後年、山崎氏は内田樹の力を借りて言論界に躍り出ると、この国の弱みの最も根源 すなわち傀儡性――植民地であり属国であること への自覚を、想ったよりも希薄化させてしまうのである‥。もちろんファシズムや全体主義的性質についての言及は今でも精鋭である。
現在、私の視点はそれよりも、「国の自立性」そのものにある。
そして自立:独立自尊感情とは、自己肯定であり他者肯定でもある‥。温かさの欠如‥。
今このことに言及するのは、実は訳がある‥
この違いは、TwitterX の世界の良識派を2分させているようにも見え、そのことが、連帯を大きくしていく形勢を 案外執拗に阻んでいるように見える‥
蛇足
最後に、これまた当時、若手映画監督の 想田和弘 氏 が、ファシズムへの傾斜についてこう述べていた。