クラシック音楽・ロックにおける調性の拡張と、”主体と状況”――音楽に於ける個・他者性・社会性/フォルムの問題・形式感(観)とは何か
2017.05.24 Saturday | FB(2017 5/24)よりblogに転記したもの
クラシック音楽にとって悩ましいのは、だいたいいつも、こういうことだ。
ヴィトゲンシュタインをして
といわせつつまた
といわしめる所のもの。
[そしてその後の継承的展開において]
(これまたヴィトゲンシュタインをして)
と言わしめるもの。
[そしてこの哲学者にとってはほとんど意味のないマーラーによると]
と言わしめるものの、存在。
思うに、ベートーヴェンが否応なくその後の音楽史に課した問題の存在と、(ある種の)時代的達成、及びその「質」自身の問題——シューマンの時代の理想の継続、の問題は、シューマンの作品自身の取り組み仕様・課題にも「すでに」かかっていた——換言すると 理想の継続性そのものの問題(抽象性---具象性の影の取り去り方、とその逆 の問題を含め) それと、 調性(拡張-崩壊の必然とその展開)、とその帯びる「意味」の問題 そして 音楽「作品の展開」能力の問題 みなそれぞれ違うこと。
(もちろんまったく接点・基底がないわけでは『さらさら!』ないが)
その後、この三者が統合(※但、ベートーヴェンの時代におけるこれの統合、とは形式も質も異なることにはなるのだが、それにしても、統合)されていないこと。
勿論、統合されるべきからには 最初の問題においては、二つ目と三つ目は同時に達成されるべきだったのだが... でも、私はあえてこのような書き方(価値の取り方)を、とりあえずはしたい もちろんこの際、そもそも第一の問題---継続 自身が、可能なのかどうか、はまた別にして。
主題と変奏にかんする形式(感)について
2017.12.20 Wednesday |
2012年 FBより転記
例 シューマンとブラームス
ある作曲家の作品は、主題とのつながりが希薄、等という判断根拠は何か。
その際の判断根拠は、音楽の、その時代時代における形式・構築感に対する理念や感覚、判断力となっている既成観念の呪縛をこえているのか、あるいは(深層)心理学的・哲学的なつながりやら、それらの今後の人間精神に対する探究・洞察の方法の多義的な発展の仕方を考慮したのを、まえもって上回るだけの恒久的な意味を本来的にもつのか。
ましてこのことが、言語・弁術における「論理的思考」とはちがい、こと音楽的な{暗黙的}構築性(の価値判断、またはこれを越えることへの価値判断)について拡げて把捉しなおされるとき、その飛躍する想像力の多角的・交錯的な可能性や、芸術が人間心理に与える充溢度を考えた場合、どう考え評価するべき事柄になっていく、と捉えられるのか
(たとえばブラームスとシューマンとの間で、「変奏に関して…異なる考えをもつようになった」…「主題とのつながりが希薄な自由変奏を避けるか避けないか、という相違が生まれた(意訳)」とされる点)
主題とのつながり、というのを考えている視野(聴野)の既成範囲、主題の背景となっているエクリチュールへの射程深度の問題も――しばしばこの(既成)範囲と構築性を超えた時、ただちに「破綻」といわれるのだろうけれども――生起してくる気がする。
むしろ {暗黙のエクリチュールに沿って} 主題が別の主題につながっていくのを理解することによって、逆に迂遠に獲得されて来る、より大きな主題(の流れ)への驚愕、主題aと思われたものが異?主題bとの同一位相内(厳密には転位を含むことになろうが)交錯をあえて汲まれることでより大きな主題Aへと発展する、という芸術表現ならではの感動もあると思うが
(※補記 2018/02/04)ということになると、そもそも2主題間の関係の希薄、ましてや別主題であるとの知的判断の射程そのものが、深層心理を含めた世界——創作者の内的必然性——からみればじつは浅慮であった、ということにすらなりかねない事態も、しばしば起こりうる...。
★ひとつの身体によって通常得られる変奏(変容)の範囲とその帯びる構築的形式というものに、どの身体もが拘束されるべきなのだろうか。(その意味でzero地点の身体=表現の発現体としての身体 は ”予めひとつである”べきなのか?)
上記を受け、ツイッターでのまとめ 2012/06/07
(※※補記 2018/02/04)
こたえは、シニフィアン-シニフィエ関係に於る「シニフィアン優位」性、及び「シニフィアンの自律性」問題等の観点からしても、こんにちの現象学~精神分析学の諸成果により殆ど明らかであろう。こうした問題意識と事績が芸術の世界に於るフォルム(の価値)観に投影するのも、時間の問題であるように思われる
[※上記までにおいて、太字で表された部分の内容は、変態・変容学として、別投稿「高橋祐治の言葉」にも太字で記されているので、参照してくださるとうれしいです]
プログレ ブリティッシュロックとその他、イタリアンロックなどとその底
2017.07.30 Sunday | FB(2017 5/24)よりblogに転記したもの
1)人のありようのみならず、すべての表現行為は、「状況づけられて」いる、と、自分がずっと言いたかったことのすべてかな。状況づけられている、ということこそが、(制約性でもあると)同時に 尊厳 でもある、という..。
2)主体と状況。たとえば、ある科学者なりある芸術家なりが、自分は政治的人間でない、と宣言しつつ、自分の研究や発言、また作品を、その時の政治状況と無関係に?作り上げたり発表しても、無関係だ「というスタンス・態度で研究し作った」という政治性を帯びてしまう、というカラクリに無頓着であれば、そのような研究や作品となってしまう、ということ。
(これに就て、その研究や作品の中で、直接政治的なことに触れ政治の問題として語るかどうかとは関係がない)
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エルガー以降のイギリス系音楽系譜。
これが YES を筆頭とするプログレッシブロック( Progressive Rock )の昇華性の高い、調性拡張後の聖歌的『ハモリ』(ポリフォニーや対位法の利用法 これをなしたのは主に影の力?クリス・スクワイヤと、より東洋寄りなジョン・アンダーソンだと思う。ハウは、もうすこしダウランド等の系譜を通っているから。合流しうるとは思うが)と通底するように聞こえる。
オルガンを彷彿させるエレキやキーボードなど楽器の声になっていても、同じ。
ブリティッシュの音楽家系譜————NAXOSなんかの収録を参考にすると、 具体的には エルガー ディーリアス アイアランド バックス ヴォーンウィリアムス ホルスト バターワース などという把握が妥当のかな。
半年くらい前に気づいたのだが、一番最近ではジョン・ラターという人がいる(この人も同系譜だと言っていいと思うのだけど)、まだ現役でやっている。もしかするとラターは、一応はクラシックなはずだけれどもかなりジャンル横断的に思える。
2013年に亡くなっているジョン・タヴナーなども入れるべき?(すこしバタ臭い、ビザンツ-東欧的匂いも醸す現代——前衛音楽崩壊後——作曲家)
(ブルックナーの聖歌などもそうだが、結局このイギリスへ行った[再-]遡及点はシューマン-ブラームスということに私的にはなるのだが。シューべルトもじつは対位法をやっていたが。いずれにしてもヴァーグナーがいてもいなくても、すでに調性拡張の芽は、バッハはもちろん、試みとしてはハイドンがあったし、ベートーヴェンの特に後期には十分音楽として、あったのだから。況やサティ、ドビュッシーにおいてをや つまり彼ら(ヴァーグナー/ドビュッシー)を通過しなくとも、また表立った 起点 としなくとも、調性の逸脱、拡張、崩壊は成された)
イギリスにはクリスチャンロック っていうジャンルがあるんだそう!(知るのが遅すぎる というかプログレ自体を知ったのがかなり最近なのだけれど)
ところで、この中にあるディーリアス-グリーグという路線の存在。これによりたぶん、 イギリスと北欧がつながっていく。
cf)☆フランスとその周辺、とりわけ移民の存在 サンサーンスと印象派ドビュッシーラヴェル(23/09/01)
※移民‥ガリアケルト・ワロン人他
このことはロックの分野にもおそらくそのままつながっている。
ブリティッシュのみに進まずに、イタリア系プログレにも興味が引っ掛かっている人びとの意見と感性も面白い。
これもまた、クラッシックの方の系譜を垣間見ても納得ができるから。
前にあげた記事で色々触れたので詳細は省くが ざっくりとクラシックからいうと
グレゴリアンチャント(教会旋法)が長々といろいろありつつフランドルなど絡みながらドイツ→イギリスに音楽の系譜が移行するのだけど、その前にヴェネチア(イタリア→ルネサンス)を経由しているというのがかなり要諦で——その後イギリスで初期ルネサンスが、後期はイギリス——Wマンディ等——・イタリア(・フランドル)同時!に、高度かつ洗練されたポリフォニーが成就している。それでトレチェント、クワトロチェントをきくと(まあじつはその手前、ヤコボ・デ・ボローニャなどにも)、ルネサンス→モンテヴェルディへ至る鍵が意外とある気がする訳だが、こういう経緯と系譜は、プログレにも反映してるように聞こえる。
なにしろルネッサンスが開花したのがざっくりいえばイタリア(フランドルから降りるが、開花のきっかけを多く北~中部に持つ)なので当たり前なのだが、この時期ヴィクトリアなどのようにスパニッシュなのにフランスの古いシャンソンの原型を象ったような人もいるのだから、いろいろと異化しつつも底の方では グレゴリアンチャントの誕生と展開、そして讃美歌、伝承歌、舞踊などの存在とともに音楽系譜はつながっている。
もちろんもっとスパンを広げれば、ケルト民族、ユダヤ人とその移動などを通じて 世界は東西さえもが、まえもって越境的である。
またドイツのプログレについては、友人からドイツは他の地域に比べてあまりぱっとしない、とも聞いていたが
その(プログレらしさからすれば?)パッとしない(のかもしれない) ドイツのプログレ、というのはクラシックがドイツで著しすぎる隆盛を見たから、というのもあると思うけれど、ヴァーグナーの存在が調性の拡張で大きいからも無論あるだろう(※もっと言うとバッハ~ベートーヴェン~ヴァーグナー~無調等々と展開して行く調性問題と、同時に哲学的・政治的問題、そしてそれと不可分な芸術の存在の問題、等々が重すぎたのかもしれない)。
[※...この点について、最下部に追記]
まえからFBなどで言っていたように 私は、ヴァーグナーを経由しなくても、ましてドビュッシーを踏まなくても、(ルネサンス以降ジェズアルドのような実験的な音楽が出現しえたこと、そしてバッハが到来し、ベートーヴェンの特に後期の顕著な調性拡張・旋法使用等の試みがあり、シューマン-ブラームスにおいては——ウェーベルンなども注目していたように——すでに十全すぎるほどのその発展継承性を見出し得、フォレもまた、ヴァーグナーの存在なしに(も)自身の音楽性を獲得しえた。音楽のもたらす影響力・効果、という点ではヴァーグナーが大いに参考になったろうが、それ以外のフォレ自身の幽体離脱的音楽性の確立そのものは、調性問題を含め!シューマン(→ブラームス)による先代(~同時代)の音楽性の発展形という置き土産ですでに十分であり、ヴァーグナーの存在の有無とほぼ関係がない。
よって)調性はどのみち拡張され崩壊した、という意見の方なのだけれど。ヴァーグナーは世渡り上手。
私はこのことを、スクリャービン(→マーラー)的な音楽性を含めて、言っている。バッハ、ベートーヴェンは前提として、シューベルト→ショパンとシューマン(→ブラームス)とフォレがあれば、スクリャービン(的な個性及び音楽)もまた出現しえた。その片鱗は、ニイチェの存在(音楽作品)が明かしている。
それと昨日だか一昨日、こんなものを見つけた
http://kakereco.com/magazine/?p=9794
これに行き当たったのは ジョン・アンダーソンの音楽性からきこえる東洋志向が(シッダールタ や ビートルズ以来のヨガとヨガ思想の影響などのこともあるが)、ノヴァーリスともなんか繋がっているのかなあと思って、ダメモトで検索したら、直接アンダーソンがノヴァーリスを読んでいたとかファンだったっていう記事はなかったけど、上記を見つけたという訳だった。
読んでいるとなかなか面白そう。
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追記。
昨日これを書いた後に、ドイツでプログレが生真面目なまま?停滞した点について、ヴァーグナー一つを引き合いに出した形で通り過ぎたが、至極大事な点を落としていたのに気づき(入り込むと、例の巨大な問題——私自身の長い問題——となるので回避した感もある)、どの範囲で止めておこうかそれとなく考えた。
そこへ、友達の反応で、シュトックハウゼンなどがプログレの代わりにクラシック界で突破口をやってしまった感があるのがジャーマンロック停滞の原因ではないかとの指摘があった。
たとえばあの辺りは、タモリの番組でもシュトックハウゼンと数名扱っていたりしていた(クラシックファンからは面白可笑しく取り上げやがって、といった反発も出る分野かも知れない)が、私は正直あの番組「姿勢」に賛成であった。
ずっと前の記事にも音楽・美術にかかわらず触れたが、とくにジョンケージあたりからシュトックハウゼンなどのああした破壊的ともいえる試みでクラシック音楽がおおむね自壊(自滅)したと思っていて——私自身は、あまり彼らに対し寛大でない。過去の(けして「等身大」などではない)遺産に対し攻撃的乃至退嬰的な表現と表現者。こうした産物や傾向に対する 物わかりのよさ を拒否するタイプである——自己崩壊音楽と心の中でも呼んでいる。
で、プログレに興味が行ったのも、だったらそちらのほうがむしろ音楽の尊厳を担保することに成功し尊敬できると思ったのである。
調性の拡張〜崩壊期間にかけては、作曲家や作品にもよるが、クラシックという分野にそのまましがみついた人々や作品より得てしてプログレの方が表現として成功しているとも思える。
調性問題の移行と、プログレの(変拍子など多用するリズム等を含めた)表現形式、「斬新さ」の意味性——attitude——が合っていると思う。
もし(ドイツの)プログレがシュトックハウゼンみたいな試みをしたら、私としてはプログレにも失望してしまったと思う。
彼らはそれはしなかった、できないと思ったので、ドイツ外域のプログレよりある意味(生)真面目なまま停滞したのでは、とも思える。
がもともとの原因は、さらにもっと前に遡ると思え、それを書き足したい。
この記事の中でも、タラレバ的にヴァーグナーを——事実存在していたにも拘らず無き者のように扱っているのも、言いたいことと関係がある。 まあ実際には存在した人だし、居たからにはそれなりの影響力を事実与えたので、無視などできないのだが、それにしてもヴァーグナーに関しては周りの捉え方が過剰かもしくは好意的に迎えすぎ洗脳されすぎたと正直思う。
(こうした点は、哲学・政治、色々な問題が不可分に、表現と表現者の質の判定・価値づけとして関わってきてしまうところなのと、通常のクラシックファンにはとても言いにくいことがたくさんである 笑)が、ヴァーグナー以降えてして構成的にも表現のありようとしても、冗長な音楽が肯定されてきた。
(同じ尺度でいえば、やれ構築性に問題があるだの構成的才能に欠けるだのといった、シューベルトやシューマンに対し、まま厳しく当て嵌められた尺度は、調性逸脱-無調-崩壊を辿った人々には当て嵌められずにいるが、それでいいのか?という問題も不問に付されたまま。)
そしてその構成上の「冗長さ」が退嬰性と絡みやすい(思うに、これは至当な問題である)のは、類的な音楽(個と同時に人間性全般の尊厳について真摯に向き合っている質のもの)というより、個人的な栄誉や野心、逃避願望等々といった自我(といってもselfというべきものとエゴというべきものがあるが、まま後者に陥りやすいもの)の充足・発散が表現され、作品となっている、と判断される。この質の低落が、調性拡張-崩壊を辿る時期のクラシック音楽のattitudeや質(にも拘わらず彼らはクラシックという旧来のジャンルにしがみついているのである!)より、ここから脱したプログレのほうが、まま、意識が高いと感じざるを得ない所でもある。
他者の問題を放棄した自己の延長へと終始しがちな音楽と、調性崩壊問題とのつながり—— 一言でいうのは難しいが、あえて言うと、(何らか和声上の)「解決」をみようとしない姿勢、むしろいかに解決せず放置・延長するかという、*,**表現における(逆説的)形式主義——内的必然からでなく戦術至上主義、手法の自己目的化——謂わば未到未決イデオロギーに走った結果であるといえるのではないかと思う。別な観点からいえば音楽美至上主義ともいえようが、犠牲にしたものは人間性であったりHonestyであったりするだろう。よってそれはほとんど必ず、社会的位相においては倫理的な退廃だの権力不感症(不耐性)、といった問題にも通じてしまう。
*...機能和声上の解決放置、を表現上始めたのはシューマンによるところが大きいが、彼の場合は、その象った形式が内的必然に合致していた、これに徹したといえるのではないだろうか。未解決型和声は、これが登場する場合、自分の魂にとりこの問題(憧憬なり苦悩なり)が未決のままであることの赤裸々な表現に過ぎなかったのである。言ってみればそこが、表現の力量における決定的な差異なのではないかと思っているし、そうした点にこそ芸術の「質」の問題が横たわっているであろう。
**...形式のイデオロギー化という点では、ずいぶん前にグールドの題目でだったか、十二音技法についても触れたことがある。
例えばこんな言い方がよくあると思われるが、「十二音技法は理詰めだったために大衆に理解されなかった」それで、別な作曲家らが試みたのには(たとえばヒンデミットとかコルンゴルトというところになろうか)、「受けが良いように上手に調整した」云々。
しかし、この捉え方に終始しないほうがよいだろう。それと引き換えに寧ろ後者の彼らが音楽に「息」を吹き替えさせたのならそれがなぜか、ということを考えたほうがいいだろう。理詰め?だったことそれ自身より、理詰めのありよう(裏を返せば自発性とは何か、自律運動性とその機能(発揮・回復)可能性の裏付けや土台とは何か、その相関関係とはいかなるメカニズムに基づくかetcetc...)についてもう少しよく考えたほうが良いと思う。
[付記。尤も、秘密の多い社会に生きることを強いられる場合、芸術表現がある種の窒息的形態—— 一見無秩序に見えるパターナリズム?——に陥らざるを得ないという面を、私自身、昔ほど理解できない訳でもないのだが。死んだ呼吸を生きなければならないのである。]
ヴァーグナーに聞きとれる野心の拡張、逆にリヒャルトシュトラウスに聞きとれてしまうある種の逃避願望、(これらの一見真逆な問題はけして偏倚的ではなくむしろ交錯的な問題でもあると思うが)といったものの、調性拡張-崩壊問題としての現れ方...。
こうした、ドイツはもちろんだろうが、西洋全体を覆った問題に、クラシック界はもう少し取り組んだ方がよいのではないか?
典型的にはナチズムを台頭/到来させたこと。ひいてはこれに対する長い敗北感(台頭させてしまったことに対し、どう反省・再生したら良いのかわからない)が、芸術界・哲学界、色々な分野の文化人にとって重荷となりすぎ、遣り切れなくなっていった。
こうした精神的に自暴自棄な姿勢が、哲学的にはポストモダンのように犬儒的もしくはニヒリスティックな形で現れるし、音楽表現、絵画表現にも退嬰的 乃至 破壊的に現れていると私は思う。
しかしその際言っておきたいのは、ナチズムが、ベートーヴェン(における自己の拡張)を利用したのは「誤解」に基づいているが、ヴァーグナーを利用したのは誤解だったのか?! こうした点にもきちんと射程してほしいものである。
※このことは、サンサーンスの音楽的保守主義(対ヴァーグナー路線としての)という姿勢のもつ、当時としては精一杯のある種の倫理観にも通じるだろう
機能和声と近代の意味
ハイドン (1732-1809)トランペット協奏曲 変ホ長調 Hob.VIIe-1 Trumpet Concerto Es-dur Hob.
宮廷を降りて小市民化したヘンデル、とでもいうように聞こえた。
バロックだったがヘンデルの時期からここにつながる機能和声が確立した。
ではハイドン・モーツァルトの音楽が、地上的になったとか小市民的になったとかと、自分がたいていいつも思うのは、どうしてかと思うのだけど、
背後に広い意味での《経済活動》を背後に感じる。
もちろんまだ実体経済であって金融資本主義的な意味ではないのだけれど。
そしてその中の階級社会を感じる。
もちろん階級は古代からあったのだが、
教会音楽・宮廷音楽の中には、教会もしくは宮廷の外の「押し潰された階級」は入り込まないたてまえで成り立っていた。
しかしここ(ハイドン、モーツァルトの時代)には、入り込んでくるからねぇ‥。
マロの Josef Joachim Raff――木下君との会話
2023年8月末
木下「とびきりの名演。おれのマロ、といえば、これに始まりこれに尽きる(笑)」
レイ「おお~。すごい表現力だね!ねえねえヨアキムて生前シューベルトもよく弾いてた?」
木下「たしか...」
レイ「いいねぇ〜。‥‥なんでヨアキムなの?」
木下「なんとなく、シューマンよりも間口が広いような気がしたんだ。」
レイ「間口が広い、ねぇ‥‥。たしかに、間口広いよね 間口かぁ~」
木下「だろ」
レイ「聞いてるとなんかメンデルスゾーンがだいたいの立て付けになってるから たしかにそうなりやすいよ。ブラームスにもシューマンにもシューベルトにも この時代の周辺と、次世代にも、行きやすい」
木下「うん、そのへんから語りたい」
内的必然性と時代性/超時代性
cf) 機能和声→内声部充溢化→和声変化の問題(近代の意味)
レイ「メンさまがベートーヴェン後期から出発しようとしてたから、もちろんそのモデルも、ヨアキムにもあるし、間口の広い能弁さと――あ、作品の出来と言ってもいいかもよね、――そして、個性としての熟達さ。つまり、もうひとつの意味での作品の出来 というか、作曲家としての統合性、みたいなものについて、これ聞きながら考えてた。作曲家の内的必然性ともいうべき? 統合性‥。
いまさあ 間口が広いの類義語、調べてた。‥多様な ・ 汎用性のある ・ 多目的 ・ 各方面 ・ 多用途 ・ 広い ...。だって。汎用性、多用途かぁ。。。。」
木下「そこ語ってみよう。」
レイ「ちょっとメモる‥笑。
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マロのヨアキムから雑感。
旋律・和声の制法〜時代性の超越ーー内的必然性
内的必然性とは――
パラレルワールド(別可能態)を感じさせない、深度-絶対性/感じさせる間口の広さ=汎用性、すなわち 聞きながら惹起される、可塑性・多様体。他の旋律展開・他の作曲家の作品部分への交代可能性。
マロのヨアキム
いわゆる木下君の言う「間口の広さ」――旋律と旋律展開の ”汎用性” に関連して
シューマン以外に、ロマン派でそうそう内声部を――ロマン派型対位法として――充実させている作曲家は案外居ない。その代わり、他作曲家のほうがメロディーラインそのものの美としては完結している。完結するほど、アウトプットとしての画一性も増してしまう。
室内楽では、メンデルスゾーンもショパン(チェロソナタop65だったかな)も、べートーヴェン後期SQのようにmodalな対位法を確立しているが
器楽曲(ピアノ)になるととたんに 多層の装飾美に満ちた(これは内声部なのかというと、そうではない)メロディと、多飾な伴奏部との、二項様式となる。
そして旋律的にもアウトプットはほぼ類似形を帯びる(パターナリズム)=曲展開としての多様性・必然性に欠ける。
しかしこのように旋律線が一様ないし交換可能態であることが、かえって間口を広くもさせている 同時代のすぐれた作曲家へのパラレルワールドから、引用可能な多様性を担保出来るようにもなっている。
内声部を充実させる形式が、独自性をつらぬくか内的必然性を帯びているほど、その作曲家によるアウトプットは、彼の音楽性――旋律展開の可塑という意味でも、内声部そのものの充溢といった意味でも――「導出(あぶりだし)と錯綜」といった様相を帯びる――すなわち、その作品のもつ内的必然性(ある種のこれ以外にどうしようもなさ)に即することになる。
この動きはしかし、内的必然性の発露=遡行=未決型和声の多用(シューマンは内的必然性から)→これの様式化(「未解決のまま放置」という装置の社会化――ヴァーグナー 上記)→調性の逸脱-拡大-崩壊という路線を作り出しえた。
シューマンは、ある節度以上を出ようとしなかった(この姿勢は、サンサーンスに受け継がれる。ベートーヴェンの意志を継ぐものといえよう)=この、節度の意味は、告白性――個的次元での発露という領域――の外に出ない。
その節度超越、未決性の意味変移は もはや音楽という域を越え社会的政治的でもあったがゆえ。