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内声部とは何か?雑記帖
昨年ツインフレームの 音楽コラムニスト、木下智夫君とやりとりしていきながらまとめた部分。一年越しのまとめ
【内声部とは何か】
ジャーナリスティックで内向的
掘り下げ掘り起こすー彫り出すー浮かび上がらせる
明るみに出すー照射したら、少しずれた別な視座や角度・土俵・位相から眺める=関係性を 潜象-現象 潜勢-現勢 原因-付帯状況 支配-被支配 内と外etc... スタティックよりはむしろ運動のさなかで組みなおす
実験精神=ヒューマニズム(精神病者の=芸術家の=表現者の倫理)である
【内声部の意味理解】
《対位法から捉え直すと(対位法と)どう違うか》
ルネサンス~バロック、殊にバッハ‥‥機能和声前夜
機能和声期=古典~ロマン派
両者に於ける、変遷の意味/意味の変遷
神(創造主)と被造物(第二の創造主)との関係‥‥芸術とはー創造の真似事
”あたかもそのもののように” 現出せしむる
ルネサンス――神の存在やそこからみた世界の見え方成り立ち方が投影されている音楽=対位法
バロック――人としての生き様実存が潜在的に対位法の中に投影されている=対位法
機能和声前夜――
機能和声期古典――上の描出無しに?独立性や自立(自律)性が自由闊達化
ロマン派――救われる様相の描出と救われなさの描出・浮上(主題化)
後期ロマン派――機能和声の解体・調性逸脱→現代音楽――退嬰的に対位法的or退嬰的にmodal・爛熟的な救われなさ(含:静謐さ)の描出
《作曲家の立ち位置スタンスから見た内声部》
内声部という言い方 いつから アフターベートーヴェン~シューマンの頃?シューマンの音楽から?
※ベートーヴェン後期SQなどは先駆的。ただ、彼後期の複声部の音楽でさえ、対位法と内声部の間的な存在意義ではないだろうか?
ひょっとすると後にも先にもシューマンの音楽にのみ存在したというのか
cf) ブラームス後期との対比 調性の逸脱~拡張に至ってしまうと、内声部ではなくなるのかも知れないという問い
※音楽の質について‥Honestyとか倫理的というのは何か?
旋律-副旋律 役割:交代可能性の検証or実験
交代‥「何を」?
機能和声の固定化した主従支配-被支配の関係を
→それは救済である or 救われなさの炙り出しとしての救済である
→反発を喰らう側面――闇に葬り去ろうとされやすい音楽――だが、世が「より深刻化」すると漸く市民権を得る→内声部の「浮彫」をすることの重要性
※潜在意識に這入り込みやすい性質の音楽・芸術(人間・生き様)としての意義
→孤独に探索的でジャーナリスティックな性質を帯びる
cf)声なき声→ なき とは
《内声部の位置》
準-浮かび上がらせる のところ
無意識-潜在意識 → 顕在意識 審級・浮上
境位(精神分析用語)境域 境相 素地と装飾
→内声部とは‥
表に起こす態度=審級の運動体・形勢体である(精神分析学的)
防衛規制=潜在意識下にとどめる〜音楽的運動として描出(心理学的)
→内声部の性質とは‥
傾聴 聴取 カウンセリング的
クライエント カウンセラーの両義性
告白者と導出者の両義性(煽り出し・炙り出し=ひとりヒプノセラピ)= 自ら告白し、聞き届ける作業=表現のリアリティ
執行者と目撃者(聞き逃さない人=言質をとる人と証言者)の両義性 於:実験・死刑
《内声部を操るとは》
於)作曲 及び 演奏
執行権限と執行可能性と了解可能性 委譲
有機体の取り扱い注意――honestyの問題
誰の声 の問題
旋律線の特質‥‥偏りの作為 周縁――「偏り」への自発的・内発的参与
《シューマンの内声部》
層が一本でない
主旋律と副旋律も癒着しているところがある=働く場所‥無(潜在)意識と顕在意識の緩衝地帯
いたづらに錯綜しているところがある(いたづらに、なのか?)――「厚み」=旋律と非旋律の境界・役割が曖昧 / 運動(役割転換)の複雑さ=アラベスク
→暗示性(潜と顕の両義性・可塑性=潜から顕へのうごめきの語り)→詩性
外と内‥どう組み込む 旋律線に聞こえるもの 演奏家・聞き手に任されている部分・往還
図と地‥地(背景沈黙)に徹せられていたものが浮上ー主旋律化したがるのを聴取する・主役が地に埋没――「副旋律/従旋律」化 ――したがるのを聴取し、保留する=交代作用の全容を傾注する
パフォーマンス性との関係‥‥外向的襞性と無関係でない 装飾音符トリル付点etc (ドゥルーズ的に言えば)
内声部の炙り出しーこういう行為をやる人は「異形」⁉︎
大事な媒介=身体(性)を忘れていた
身体性。。。これが、暗示性と運動・うごめきの物語の要諦、そして起点(基点)となるのだから。よく見え、見えざるもの。問いかけと応答、やってくるもの(到来)・届かぬもの(未到―宙づり)・把捉・見送るものと消失してゆくもの etcetc...、つまり内声部とは何か?にも。。。
身体が無いと、状況も状況論も蘇生されない。
シューマンの(内声部作りに於ける)身体性。演奏家のそれ。その身体(主体)は誰のもの?
これはすなわち内向性と同時にパフォーマンス性であるところのものである。
身体性とはすなわち暗示性であり秘匿-暴露性である。
風景を己という身体から切り離さない(ガルディ論)/運動を己という身体から切り離さない(シューマン論)――厚みと奥行きの顕現(これらは一切、身体性を通すことなしに実現しない)=詩性=現象学。現象学的弁証法の冒険
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ひとつの内声部演習例
ユジャのクライスレリアーナに関しては想像していたより案外おとなしく、けしかけるということを意外にせず挑発的でなかった。むしろ坦々としてスポーティ。あくまで内密的で秘匿的な進行と不意打ちの曝露、とかそういう対比感があまりなかった
[木下氏との話のとっかかり]
シューマンの音楽とその内声部
暗示性:秘匿性と曝露性の目眩く交替劇
その視点からすると案外ユジャは...的な開始
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視点1
ユジャのパフォーマンス性はその内面性にとっても矛盾がないという木下さんの感想
内向(内攻/内交)性と外向(外交)性はある生きざまにとって一つのことである 内声部が出来上がっていくあるいはその「意味作用」性でもある
視点2
シューマン(作曲家)とクライスレリアーナ(曲)の内向性とユジャ(or演奏家)の演奏 の親和性という視点→演奏家の資質と数ぶんだけその人ならではの内声部作りが成就する 《べき音楽論/ノウハウ演奏論》よりはカウンセリングぽい視点
→ここから
内声部とは何か そのものの 表現化(自分なり)
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ルネサンス(後期パレストリーナ1525-1594/後期ラッスス1532-1594)
(特異点ージェズアルド)
バロック1600年〜1750年
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