心理学ガール #35

好きな、理論

 僕は心理学部の大学4年生。ここは大学本部棟の心理学研究室。サキナさんと話をする。

僕「催眠が、”持っている物を手離したら落ちる”くらい、わかりやすいものだったら議論しなくて済むのになって思います。同じ催眠誘導でも、うまくいく場合とそうではない場合があるから、その違いを説明するために、いろんな人がいろんなことを言いますよね。また、その前提として、催眠の定義やそれに関する用語の定義を合わせようとしないから、議論も成り立たないことが多いです」

サキナ「用語の定義は問題だね。再現性の問題も含めて、今回は、行動分析による催眠の説明について話をしようか。催眠の理論の目的は、催眠という現象を説明し、かつ、その説明のとおり再現できることなんだと思う。だけど、多くの理論は説明はできるけど、それがトートロジーになっていることが問題なんだ。催眠状態理論は催眠を説明できるけど、催眠状態という概念がトートロジーになっているのが問題。社会的認知理論だとしても同じで、予期理論は催眠を説明するけど、もし予期という概念が、催眠の結果から判断される場合は、催眠状態と同くトートロジーになってしますという問題がある。そこで、行動分析という人間の行動の一般原理として既に確立された理論を使って催眠を説明すれば、催眠だけの理論の問題点をクリアすることができる」

僕「行動分析の理論はある程度知っていますが、それを催眠にどうやって適応するのか、想像がつきません。行動分析は、一般的によく言われるのは”飴と鞭”ですよね」

サキナ「そうだね。行動分析が”飴と鞭”であるというのは、わかりやすく示してくれていると思うけど、一方で、そこから詳細なところまで理解しようとする人がいないというのが残念だと思う。行動分析は、人の行動について、環境との相互作用で説明する理論だけど、その他の心理学理論と違うのは、トートロジーになることを避ける理論で、行動の記述、予測、制御ができる理論であるということ。科学的といってもいいかもしれない。また、既にある程度の研究が進んでいて、データによって実証されているし、療育では実践されて効果を上げているところがアドバンテージだね」

僕「僕は、行動分析について、飴と鞭以上に知っているつもりですけど、催眠を説明するまでの知識はありません。できるんですか」

サキナ「催眠も人の行動だから、当然できるさ」

僕「ぜひお願いします」

サキナ「行動分析によれば、人の行動は大きく二つのメカニズムで制御されている。一つは、さっきから飴と鞭といわれている、その人にとっての良いことや悪いことの出現によるもの。そして、もう一つは言葉によるものだ。前者は、随伴性形成行動といい、後者は、ルール支配行動というのだが、簡単に飴と鞭行動とルール行動といおう」

僕「知識としては知っているのですが、ルール行動は正直詳しくありません」

サキナ「そうだね。行動分析といって飴と鞭行動のことしか知らない人も多いが、人の行動を説明するためには、ルール行動が必要だ。特に催眠のようなある程度複雑な行動を説明するには必ず必要となる」

僕「飴と鞭行動は、ざっくりいえば、行動の後に飴が出ればその行動は増えて、鞭が出れば減るというものだと理解しています。それで催眠を説明できるのですか」

サキナ「もちろんさ。特に催眠誘導と呼ばれる場面では、飴と鞭で説明できることがほとんどだ。催眠誘導とは、適切な飴と鞭の出し方といっても過言ではない。君がさっき言っていた『同じ催眠誘導でも、うまくいく場合とそうではない場合』の回答もある。同じ催眠誘導とは、同じ飴と鞭の出し方といえる。しかし、甘いものが苦手な人にとって飴は鞭になるってことなんだ。だから当然、同じ催眠誘導で成功と失敗がある」

僕「飴が鞭になるというのはどういうことですか」

サキナ「行動分析を説明する”飴と鞭”ってのは、実際の飴と鞭ではなくて、概念としての飴と鞭なんだ。概念の飴とは、その人にとって好むもの。概念の鞭とは、その人にとって嫌なもの。甘いものが嫌いな人にとって、実際の飴は、概念としては鞭であるということ」

僕「なるほど。わかりました。つまり、ある催眠誘導が成功するのは、その催眠誘導で使われる概念としての飴と鞭が、掛かり手にとって実際の飴と鞭であるからということですね。逆に、概念としての飴と鞭が、掛かり手にとって飴と鞭でないのなら失敗すると」

サキナ「そうだね。具体的に考えようか。舞台で催眠をやるとして、催眠が成功すると掛り手は注目されるよね。この注目ってのは概念としては飴にもなるし鞭にもる。注目が飴になる掛り手にとっては、人前で催眠誘導をすることで催眠が成功しやすくなるだろう。注目が鞭になる掛り手にとっては、人前での催眠は失敗しやすいだろう。後者の人は、周囲に人がいない場合に成功する可能性がある。行動分析で催眠を説明するというのは、こういういことだ」

僕「催眠という行動に対して、概念としての飴を提示していくというのが行動分析の催眠ということですか」

サキナ「その理解でも間違いではないが、催眠という行動を増やしていくというのが正確だ。行動分析では、行動を増やすことを”強化”というので、催眠行動を強化するのが催眠誘導と言い換えられる。ここでいう”強化”とは専門用語としての強化であって、日常用語とは違うことに注意が必要だな。強化は、飴を与える、鞭を失くすの二つが主となる」

僕「なるほど。催眠という行動を強化するのが催眠誘導というのは、シンプルでわかりやすいです。しかし、行動分析は、既にある行動を増やしたり減らしたりする理論だと思いますが、催眠は、そもそも催眠の行動が起きないないから、増やすことができないじゃないですか」

サキナ「いい視点だね。催眠行動が既に起きてるのであれば、飴を与えるということで簡単に理解できるけど、君のいうとおり、催眠では、そもそも催眠行動が起きてないなら、どう強化していいかわからないということだよね。これには二つ回答があって、飴と鞭行動で説明するなら、催眠行動という未学習の行動に繋がる既にある行動を強化することで催眠行動を作る。そして、重要なのが、ルール行動として催眠行動を作ること。これらが既に催眠行動が起きる人以外に、催眠を成功させるために必要となる」

僕「ルール行動ってのは何なんですか」

サキナ「ルール行動ってのは、ルールによる行動で、ルールってのは少し厳密にいうと、飴と鞭行動を言葉にしたものなんだけど、わかりやすくいえば、そのことに関する知識といってもいいかもしれない。心理学をやっている人なら、認知と言い換えてもいいかもしれない。先に話が出ていた社会的認知理論である予期というのも、行動分析的に言えばルールということになる。ここでも大切なのは、ここでいうルールってのは行動分析の専門用語であって、一般で使われるルールという言葉とは違うってことね」

僕「なるほど。催眠行動は、知識によってその行動が学習されると」

サキナ「そうだね。君が言う『同じ催眠誘導でも、うまくいく場合とそうではない場合がある』に対するもう一つの回答は、催眠行動に関するルール、知識が人によって違うからといえる」

僕「じゃあ、催眠とは、既にある催眠行動を強化するのが原則なんだけど、催眠行動がない場合、催眠行動につながる行動を強化することで催眠行動を作るのと、ルール行動によって催眠行動を作るという二つが必要であると」

サキナ「原理原則としてはそのとおりだね。この原理原則で、既存の催眠誘導のコツは説明できる。これで説明できないものは不要な方法である可能性が高い」

僕「そうねんですね。ところで、行動分析は、神経科学に対してはどう説明するんですか」

サキナ「行動分析は、行動に焦点を当てることで、人の行動の記述、予測、制御を可能にしているから、行動として扱えないものは論じない。もう少しいえば、行動のバックグラウンドに生理的神経的なものはあるだろうと仮定しているが、それは現時点で直接扱うことができないから扱わないというスタンスかな。それらが”ない”とは言わない。詳しくないけど、データとして測定できて予測に使えるなら生理的神経的なものも扱うかもしれないな。あとは、過去の学習の結果を重視する。だから、催眠に掛かりやすい人とそうでない人がいるのは、行動分析的に説明すると、過去の学習の履歴が違うからとなる」

僕「なるほど。生理的神経的なものは扱わないで、行動に焦点を当てて制御する。そうですよね、臨床心理学的なことを言えば、神経的なことが分からなくたって、実際に行動が制御できればそれでいいですもんね。催眠も、もちろんその生理的神経的なメカニズムを明らかにするということも必要だし大切だけど、催眠を実践する場合は、それよりも、上手く制御できる理論のほうが大切ですよね」

サキナ「行動分析は理論ではあるけど、実学的な側面も強い。科学的な理論であり、現実を実際に制御できるというのが行動分析。そういう意味でも、催眠の説明に行動分析を利用するのは、催眠を実践しようとする人にとっては役に立つだろうと思ってる」

僕「そのとおりですね。なんか、すごくワクワクしてきました。ここまでは、概要ですよね。ここから、より具体的に催眠を説明していくと」

サキナ「概要にまで至ってないくらいだけど、それでも、催眠を催眠の理論じゃなくて、既に実証されている別の心理学理論で説明することのおもしろさや、行動分析のシンプルさや強力さがなんとなく伝わったんじゃないかな。今度は、行動分析の各トピックを、催眠を題材に理解していくとおもしろいかもしれないね」

僕「それ、絶対やりましょう。今日はありがとうございました!」

 僕はサキナさんと別れて学生会館へ向かった。