見出し画像

大きいものへの憧れ

 初めて飛行機に乗ったのは中学2年生、オーストラリアの田舎にある、母校が定提携している姉妹校へ交換留学に行ったときだったが、オーストラリアでの思い出が色濃く、空港や飛行機内のことはあまり覚えていない。2回目は高校の修学旅行で沖縄へ行ったとき。この時も那覇空港で中尾彬さんをお見かけしたこと以外あまり覚えていない。大学に入り、友人とタイへ旅行に行ったときは飛行機がとても揺れて怖かったな。それから3年のとき夏期休暇を利用してカナダ、モントリオールへ留学したときは、隣にとても大柄な男性が座っていたのだが、前も左右も私でさえ窮屈に感じる座席がたいそう辛そうで、度々ため息をつき、無理やり寝てみたり、立ったり座ったりと落ち着かない様子でとても気の毒だった。バンクーバーで乗り換えた後、機内食が出ないことに乗ってから気がつき、勇気を出して機内でサンドイッチを注文したことは当時の自分にとっては大きな経験だった。

 大学卒業後は、当時活動していたバンドの遠征で数回飛行機に乗ったのだが、空港に着きチェックインを済ませ、搭乗口付近のベンチまで来たとき、前方の窓から離着陸する飛行機を見て、心の底から格好良いと思ってしまった。前述の通り初めて飛行機に乗るわけではないのに、初めて感じる気持ちだった。何故、突然これほど魅力的に見えたのかを考えた。一番はその巨大さだと思った。幼少期は自分の体が小さい分、周囲の人やものが大きく見えるはずだが、精神面が自分本位であり周囲があまり気にならなかったのだろう。20代後半に差し掛かり、ようやく自分の位置と大きさを認識したことで、それに対する飛行機の巨大さ、偉大さに感動したのである。自分も少しは大人になっていたのだなと嬉しくもなった。

 そうすると、富士山をはじめとする山岳信仰もその類だろうか。うちの実家は山の方で、庭のすぐ後ろに裏山があるし、目の前には近辺で一番大きい山がそびえ立っている。仰向けになった人の横顔に見えるときがあって「ガリ子さん」と名付けた小学生の自分は何にも感じていなかったが、20代、30代になり、実家に帰省をするとずっとその山を眺めてしまう。最近、弟夫婦が同居するために母屋の一部をリフォームしたのだが、広めのリビングダイニングキッチンには、その山を大画面で切り取るよう大きな窓が三面ついていた。言わずもがな眺めは格別で、朝、窓を開け縁側に座って、山を見ながらコーヒーを飲む、何物にも代えがたい至高のひとときであった。

 はたまた、小さい頃から恐竜が好きだった。しかし連れて行ってもらった恐竜博物館の記憶はあまりなく、だいたいは図鑑の中の世界だった。これも20代、30代になり、足を運んだ博物館ではそのスケールに興奮し、最新の科学で再現されるリアルな世界ではその場にいる自分を想像した。

 思い起こせば「好きな動物は?」という質問にはキリンやゾウと答えるし、「アラスカンマラミュート」というハスキーに似た大型犬を飼いたいという夢がある。旅行で行った瀬戸内の穏やかで広い海に、島々を巡るフェリーに乗るのがとても好きだと思った。スペインで訪れたサグラダ・ファミリアは圧巻だった。

 物理的に大きいというだけで「穏やかさ」「寛容さ」を勝手に感じ、包み込まれるような感覚、もう自分自身では何も制御することができず、信頼して身を委ねるしかないと思えてくる。そして同時に恐怖もある。荒れ狂う海、火山の噴火、天災には敵わない。宇宙は未知であるが故に憧れと恐怖が混在する。「おそれる(恐れる・怖れる・畏れる)」とはさすが日本語はよく出来ているなと思った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?