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言葉にしなければいけない

 「言葉にできない」と歌うように、映像や音、ダンス、絵など、言語がされない表現が世の中にはたくさんあり、受ける自分は少しでも自分の感度を上げて、作者が言わんとすることをインプットしようと試みる。体感とはよくいったもので、頭だけではなく体の五感を全て使って楽しみ受け取ると、脳みそまで至らぬ刺激は「なんだか〇〇だった」という感覚で身体に止まってしまう。その、まだ咀嚼し自分の腑に落とせていない段階が実は一番熱量があり、これをわざわざ自分の拙いボキャブラリィから似ている言葉を引っ張りだして置き換えなくても良いのではないか、むしろそうすることで語弊が生まれるのではないか、と考え、これまでは、その熱量をそのまま持ち帰って、しばらくのあいだ温め、落ち着いてきたら日常に戻るということを繰り返していた。

 ふと、会社の上司と面談をした時のことを思い出した。その上司はこれまで内向的な自分があまり接してこなかったいわるゆパリピ?陽キャ?タイプの人間で、意思疎通に少し苦労していた。
 彼はよく「言ってくれなきゃ、わかんないよ。」と言っていた。自分は言っているつもりだったが、なぜこうも伝わらないのか、不思議だったが、面談や打ち合わせを重ねるごとに、自分は10あるうちの8を自分の頭の中にしまっておいて、2くらいの必要最低限しかきっと言語化していないことに気が付いた。つまり1から10の全てを順序立てて全て伝えないと伝わらないのだった。「新入社員かよ」とツッコミたくなる気持ちを抑えて、相手に洞察を委ねることはよろしくないと自戒した。その時に改めて自分は言語化が苦手な人間だったのだと悟った。

 瞬発力は特に乏しい。例えば口喧嘩になってしまったら、その場は確実に負けるだろう。毎度、しばらく時間が経過した後ようやく理解が追い付き、あそこでああ言えばよかったと後悔と怒りがふつふつと再燃してくるのである。とはいえ、今更掘り返しても、と結局言葉にはできず、所謂「ストレス」というものになって腹の奥底に埋めてしまうのである。もちろん腹にもキャパシティはあるので一定のラインを超えると大爆発を起こすこともある。これを1〜2年に1回くらい繰り替えしてこれまで生きてきたかと思うと人間の成長が亀の歩みで泣けてくるものである。

 そう考え込んでいるうちに冒頭に戻ると、これまで敢えて言語化を避けてきた代償なのではと思うようになった。もちろん言語化できない部分を作品に落とし込むのが作者の醍醐味であると感じる(キャプションや作者のコメントはほどほどにしておきたい、野暮なことな言うんでない)が、それではインプットは完了できていなかったのではないか。自分の言語に置き換えてこそ、ようやく腑に落ちるのではないか。せっかくこちらのnoteという機能があるのだから、色々としたためて、発言力を身につけていこうではないかと思う。

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