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思い出が捨てられない

 数年前から「ミニマリスト」や「断捨離」という言葉をよく耳にするようになった。今や「お片づけ」のプロまで現れ、自身のていねいな暮らしぶりや住まいのこだわりをSNSで発信する人も多く見られるようになり、自分も彼らのフォロワーの1人である。が、自分自身はミニマリストとは程遠い人間である。

 引越しというものは自分の所有物を全て把握するのに良い機会である。人生初の引越しは、高校卒業後、進学のための上京であった。叔父の運転するワゴン車に、必要最低限の家財道具(母の知人の息子が手放したおひとりさまセットを一式頂いた)と、長年使っていた祖母お手製の座布団、CD、漫画など手放せないものを少し積み、それらと一緒に自分も荷台に揺られて、はるばる数時間かけて大移動した。すでにこの時点で必要最小限ではない。
 悲願の一人暮らしスタートから、人生様々な帰路を経て、合計4回の引越しを経験した。所有物は住まいを変えるたびに少しずつ膨れ上がり、4回目の引越しはとんでもない荷物の量になっていた。六畳一間に住んでいたにも関わらず引越し業者の2tトラック1台では積み切れず、手持ちで何往復もしたほどだった。

 パンデミック以降、働き方も変化し、家にいる時間が増えたことで、心地よい住まい空間を求める人が増え、恥ずかしながら自分もその一人だった。忙しさにかまけて、見て見ぬ振りをしてきた「ちょっと気になっている」ところを少しずつ改善していこう計画がスタートした。
 やはりまずは物量を減らすところからである。この機会にフリマアプリを始めてみた。服、本、押入れで眠っているものを出品し、不要な品のうち半分くらいは手放せただろうか。しかしそこで最大の難所が発覚した。自分の持ち物のすべてにおいて「不要」と判断できるものがものすごく限られていることだった。
 「これは捨てよう」「これは売ろう」と決心してゴミ袋やダンボールへ仕分けても、結局惜しくなって取り出してしまう。例えば、服を着替えるとき、この服にはあれを合わせよう、と考えていると、そういえばあれは「捨てる」袋へ仕分けしてしまってた、いやいやまだ着れるではないか、と引っ張り出し、着るのである。そして、あー、これも手放せなかったか、と落胆する。なぜ自分はこうなのか、しばし考え、友人と買い物をした日を思い出した。

 その日はたしか、友人と会い、カフェでお茶をしながら散々世間話をした後、行きつけのセレクトショップに入った。そうしたら、運悪く、歳末で値引きセールをしていたのだった。「買わないぞ」と財布の紐を固く締め、いつぞやのCMのように「見てるだけ〜」と心の中で呟きながら店内を見て回った。一通り目を通し、念のため、店を出る前にもう一度セール品を見ておくか、とハンガーラックに手をかけると、素敵なコートを発見してしまった。しかも表示価格より30%OFFではないか。少し財布と相談していると、友人が声をかけてきた。「それいいね!」そして悩む自分に対し「いいなって思うものってなかなか出会わないんだから」と言った。
 それ以降、さまざまな買い物をするたびにこの言葉がよぎるようになった。確かに、自分が良いと思うものは世の中にそんなに多くはない。むしろ少ないほうかもしれない。せっかくの出会い、これを逃すともう出会えないかもしれないと考える、そして、ついに購入した品はそれを見るたびに購入時の思いが思い出となって付随しているのである。
 おかげさまで、この出来事は買い物をするたびに有難く付きまとい、挙句の言い訳となってこれまで様々なものを生活に取り込んだ。それらは年々出番は減っていくものの、未だ手放すことはできずに長年我が家の押入れを温めている。

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