在日朝鮮人はいつから、なぜ日本にいるのか?(第一回)
はじめに
現在日本には特別永住者と呼ばれる在日韓国朝鮮人が約28万人居住しています。日本の国籍を持たずに何故これほどの外国籍の人々が居住しているのでしょうか?
1945年、大東亜戦争で日本が敗戦国となった時、約200万人の在日朝鮮人がいました。
その後、GHQによる送還事業が始まり140万人が朝鮮半島へ帰還する一方、当時の朝鮮は政治・経済共に混乱を極めており、その上コレラも流行していたため、帰還事業は事実上ストップ。約60万人が日本に残りました。
また、一旦帰国した朝鮮人も母国の余りの酷さに戻ってくる現象も見られました。密航による不法入国が横行したのです。その際、「不法入国者」として検挙された者は17,733名にものぼったという記録もあります。
『佐世保引揚援護局史(下巻)』(1951 年)に以下のように記されています。
「不正入国者の大半は、戦前に日本に居住し、当時は生活の安定を得ていた 者であり、終戦後、独立国になった故国に帰ってみたものの経済状態も治安も予想外に悪いので、再び 日本に安住の地を求めんとしているのであった。また終戦の直前、直後、混乱状態にある日本を脱して朝鮮に渡った婦女子が、親、兄弟、夫の許に戻ろうとして密航する者も少くない。・・・・また向学心に燃えた青年が日本の学校に入るため不法入国をあえてする場合もある。徴兵を嫌って朝鮮から逃げだす者もいる。
変な話しだと思いませんか?「強制徴用」されて、奴隷のように扱われた国に戻ってきたいと思うでしょうか?
終戦まで朝鮮人は日本国の臣民でした。日韓併合時、列強の一員となった一等国の日本の国民になれて、朝鮮人は喜んでいたのです。
問題は戦後です。
戦後、朝鮮人の処遇を曖昧にしたのは日本ではありません。
GHQです。
れいわ新選組の山本太郎は、戦後、朝鮮人は日本から一方的に日本国籍を剥奪されたかのように吹聴していますが、全くの出鱈目です。事実ではありません。
アメリカ軍の上陸約二カ月後の 1945 年 11 月 1 日に連合国軍最高司令官に出された「初期の基本的指令」には、在日朝鮮人は台湾人とともに、「軍事上の安全が許す限り「解放人民」として処遇すべきで ある」と記載されています。
※以下抜粋です。
8-(に)
捕虜、連合國人、中立國人、その他の者
貴官は、中國人たる臺灣人及び朝鮮人を、軍事上の安全の許す限り解放国民として取り扱う。彼らは、この指令に使用されている「日本人」という語には含まれないが、彼らは、日本臣民であつたものであり、必要の場合には、貴官によつて敵國人として取り扱われることができる。彼らは、もし希望するならば、貴官の定める規則によつて送還されることができる。しかしながら、連合國人の送還に優先權が與えられる。
日本がアメリカに敗れると、朝鮮人は、GHQより与えられた「解放国民」の名の下に、掌を返すように戦勝国側にたち、あたかも勝利者のようにふるまいました。
これはアメリカによる占領政策の誤りでもありました。
GHQは当初、日本国民の抵抗を予測し、ある程度長期に跨る占領期間を想定していました。
そこで、在日朝鮮人を「第三国人」として味方につけようとしたのです。
ところが予想は外れ、日本は短期間で平和的に占領を受け入れます。
朝鮮人には「第三国人」としての特権だけが残り、正に敗戦利得者となりました。
今日、在日朝鮮人は、日本人と同様の権利をよこせと言いますが、それは虫が良すぎます。日本が豊かになり南北朝鮮と経済格差が出来たので、日本国籍を取得した方が得だと考えるようになっただけです。南北朝鮮が日本より豊かな国になっていたのなら、とっとと帰国しているはずです。
敗戦当時、敗戦国である日本の国籍など維持したい朝鮮人などいませんでした。
残った朝鮮人は、GHQにより与えられた「第三国人」という立場を利用し、敗戦で困窮する日本人を尻目に経済活動を行い、戦後の混乱に乗じて駅前の一等地に縄を張り巡らせ自分の土地にしてしまうなど横暴の限りを尽くしました。いまでも駅前にパチンコ屋が乱立しているのはそのためです。
第三国人となった朝鮮人は、戦後すぐに在日本朝鮮人連盟(朝連)を結成し、保安隊、警備隊等といった疑似警察権力を用いて、集団強盗、略奪、強姦、殴打暴行、破壊、占拠監禁などをおこないました。
直江津事件 では、朝鮮人3名により日本人男性がリンチ殺人されましたが、逮捕後、逃走し行方不明になったため、司法で裁かれることはありませんでした。
また、「朝鮮進駐軍」を名乗り、各地で不法占拠、闇市掌握、暴動、警察署などへの襲撃事件を繰り返し、社会問題となりました。
生田警察署襲撃事件、富坂警察署襲撃、長崎警察署襲撃事件、富山駅前派出所襲撃事件、坂町事件、新潟日報社襲撃事件、尾花沢派出所襲撃事件 などなど。
GHQの担当官として終戦直後の日本に駐留し、後にハーバード大学教授となったエドワード・W・ワグナーは、『日本における朝鮮少数民族』という論文で次のように記しています。リンクを貼っておきますので是非ご一読下さい。
『戦後の日本においては、朝鮮人少数民族は、いつも刺戟的な勢力であった。数においては大いに減ったものの、朝鮮人は、依然として実に口喧しい、感情的・徒党的集団である。かれらは絶対に敗戦者の日本人には加担しようとせず、かえって戦勝国民の仲間入りをしようとした。朝鮮人は、一般に、日本の法律はかれらに適用され得ないものとし、アメリカ占領軍の指令も同じようにほとんど意に介しなかった。そのため、国内に非常な混乱をおこした。』
このnote記事では、出来るだけ簡潔に、平易な言葉で、資料を添付しながら事実を列挙し、現在の日本における在日韓国・朝鮮人問題の本質を手探りで掘り進めてゆきたいと思います。
この記事は決して朝鮮民族に対する差別を助長するものではありません。
差別とは、何ら根拠なく肌の色や国籍で人を侮蔑したり蔑視したりすることです。
差別とならないよう、感情を排し、事実を淡々と列挙して行きたいと思います。
なにぶん素人によるものですのでお手柔らかにお付き合いください。
第一回目の今回は、日韓併合前の記録に残っている最初の在日朝鮮人と、最初の朝鮮人労働者について簡単に記します。
1.在日朝鮮人の定義
在日朝鮮人とは、明治時代以降に朝鮮半島から日本に渡ってきて一定期間居住するようになった人々のことを指す。
朝鮮半島からは、古代から多くの人々が渡ってきたが、それら渡来人の子孫として日本に同化した者は「在日朝鮮人」の範疇には含まれない。
2.最初の在日朝鮮人
内閣統計局が発行する「日本帝国統計年鑑」による朝鮮人在留者数
日本の記録によると1882年に渡ってきた4名が最初の在日朝鮮人ということになる。
1882年(明治15年):4名
1883年(明治16年):16名
以降1896年までは二桁にとどまっている。
1897年には、155名に急増したが、これは前年に朝鮮政府が慶應義塾に100名以上の留学生を送ったためである。
※この書籍はかなり朝鮮サイドに偏った論調につきお勧めはしない
3.朝鮮人労働者導入の始まり
1897年(明治30年)佐賀県西松浦郡(現・伊万里市)の長者炭鉱の経営者が230名ほどの朝鮮労働者を受け入れたことが始まり。
リンクの論文、或いその他の論文にも記載されており、また前述の参考文献とも符合するので、間違いはないだろう。
【論文】明治期,日本における最初の朝鮮人労働者 一一佐賀県長者炭坑の炭坑夫一一
第二回に続く