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目覚めのよい朝、腸内環境、「ばかやろう」おじさん(2023年8月23日の日記)

午前6時に目覚め、きわめて目覚めのよいことにすぐに気がついた。私は元より寝起きが悪く、特にアルバイトのために早起きをしなければならない毎週日曜日は目覚めてからも「起きたくないよー! バイト行きたくないよー!」と絶叫しながら支度をすることになっていた。バイトが嫌なわけではなく、ただただ眠いのである。しかし、なんだ今日は。なんだこの目覚めのよさは。私は布団の中で「早く起きたい! 早くバイトに行きたい!」と思っている自分に違和を覚え、敢えてもう少し横になっていようかとも思ったが、横になっているこの状況を持て余しているような気分が飽和し、二足で立ち上がり、起床した。

この目覚めの良さの要因は2つあるように思う。ひとつは、昨日に大胆不敵に部屋の模様替えをしたこと。長テーブルだらけで窮屈だった部屋から長テーブルを全て搬出し、小さなスタンディングデスクを部屋の隅に設営した。これはワークスペースだ。おおよそ人には座りたい欲求があるから、スタンディングデスクをワークスペースにすることによって、早く座ってくつろぎたい衝動がワークを爆速で終わらせるのではないか、との算段だ。同じ部屋に設営したくつろぎスペースにはイケアのポエングがあり、そこに座って本を読むなりゲームをするなり動画を見るなりすることになっている。ちなみにこの原稿は酒を飲んでつまみをつまみながらスタンディングデスクで立って書かれている。つまりこれはワークであり爆速で終わらせるべきだ。部屋の模様替えをすると新しい心持ちになる。人生とは部屋のことだから、人生が新たに始まったような気分になり、目覚めがよかったと考えられる。

ふたつめは、私の腸内環境がすこぶる良い可能性だ。私は過日『「利他」の生物学 適者生存を超える進化のドラマ』(鈴木正彦、末光隆志著、中公新書)を読み、これは生物の共生について書かれた本で、その最終章では人間の腸内における人間と腸内細菌との共生関係が解説されていた。その中で、ビフィズス菌をはじめとする善玉菌と食物繊維を摂取することで腸内環境が整い、腸内環境が整うとなんやかんやですごくいいことがある、というようなことが書かれていた。私はこういうのを読んだり聞いたりすると「よし、やろう」と思うことになっているから、Amazonプライムデーで買ってそのままになっていた新ビオフェルミンSを開封し、食物繊維のサプリはそもそも飲んでいたけれど飲んだり飲まなかったりだったので、これを機に善玉菌と食物繊維を多めにサプリで摂取する、というのを続けていた。私はますます健康になった気分になった。これをプラセボ効果という。で、そのプラセボがきわまり、今朝のすこぶる良い目覚めに繋がったという可能性だ。

私は早くアルバイトに出かけたい衝動をブラックコーヒーを飲むことで落ち着かせ、ベランダの植物に水をやり、いつもは出かける前はバタバタとしているところを、本日は非常に余裕のある、どのくらい余裕があったかというと歯磨きを2回しちゃう程の余裕をもって支度し、家を出た。家の扉を開けると、「朝だ」という感じがし、「今日という日が始まる! 素晴らしい気分だ! 生きててよかった!」と思った。家を出てすぐに忘れ物をしたことに気付き、私はいつも忘れ物に気付くと「あちゃー」と思うことになっているが、今日は「部屋の模様替えをしたせいだろう、そういうこともあるあるー」と思った。

駅前の大通りを自転車に乗って横断している時、私の右から私に向かって来ていたクルマのスピードがかなり速いように思われ、違和を感じ、私の横断している信号を確認すると赤であった。私はぼんやりとしていて赤信号に気付かずに大通りに侵入していたみたいだ。気分が良すぎて自分のことしか考えていなかったのだろう。通りを横断し終え、右に曲がってすぐ、私の右側から「ばかやろう」という怒鳴り声が聞こえた。自転車を走行させながらそちらを見遣ると、先程の私の右から来ていたと思われるクルマが、そちらの道の信号は青であるにもかかわらず(なぜ青とわかるかというと、私が横断していた信号が紛れもなく赤だったからである)停止線ぴったりのところで止まり、運転席のおじさんがこちらに身を乗り出していた。このおじさんが私に「ばかやろう」と言ったのはほぼ確実な状況であった。停止線ぴったりのところで止まってわざわざこちらに何かを言ってくれるなんてずいぶん律儀なおじさんだな、と私は思うべきだったかもしれないが、発話された言葉が「ばかやろう」だったため、そのようなことを思うバッファはなかった。私はおじさんに何か応答すべきだったかもしれない。しかし、私の自転車は綺麗に整備されたアスファルトの上を滑らかに走行しており、慣性の法則というものがあるから、私はおじさんから自動的に遠ざかっていき、何も応答することはなく、駅の自転車置き場に吸い込まれていった。

私が私の不注意によって赤信号を横断したがために、たまたま走行していた一人のおじさんに「危ない!」と無駄に本能に刺激を与え、ブレーキを踏ませるという労力をかけさせ、公共の場で「ばかやろう」と怒鳴らせてしまった、という状況と考えられる。ふつう、大人は公共の場で「ばかやろう」とは怒鳴らないし、まして青信号であるにもかかわらず停止線ぴったりに止まることもないだろう。私がいなければ上述の事態は起こっておらず、今日も世界は平和だったはずだ。

おじさんは「危ない!」と思ってブレーキを踏んだと思われるが、人は「危ない!」という事態に直面した際、「戦う/逃げる」を即座に判断する脳のシステムが起動されることになっている。で、おじさんは「戦う」を選び、「ばかやろう」と私に言った。仮に私がHAMMERのでかいクルマに乗っていたり、自転車に乗っているにしても好戦的でいかつい格好をしていたら「戦う」ではなく「逃げる」が採択されていたと強く推測され、その場合、「ばかやろう」は発動されず、こっそり舌打ちするくらいで済んだだろう。人間というのは賢く、過去を顧みたり、自省したりすることができるから、おじさんはあの後、「あの青年がHAMMERのでかいクルマに乗っていたり、自転車に乗っているにしても好戦的でいかつい格好をしていたり、人の腕を50本ほど通常折れ曲がるのとは逆の方向に折って来ました、人の腕が通常折れ曲がるのとは逆の方向に折れるのは想像力が掻き立てられて素晴らしいものですね、アートですよあれは、ね、そうは思いませんか? みたいな顔つきをしていたら「戦う」ではなく「逃げる」が採択されていたかもしれない中、小生は、ただクルマに乗っていたというだけの状況から自らを格上と見做して調子に乗って「ばかやろう」という「戦う」のシステムを衝動的に発動してしまい、これは恥ずべきことであります。なぜなら小生は爬虫類ではなく、人間だからです。人間でありたい。ああ、神様」と反省しながらクルマの運転をして集中力を欠き、別の信号無視をして道路を横断していた青年2を跳ね飛ばしていたかもしれない。あの青年1がいなければ青年2は跳ね飛ばされることはなく、おじさんが交通刑務所に収監されることもなかった。つまり私は私がうっかり信号無視をしてしまったのは悪かったことを認めるものの、「ばかやろう」という怒号が飛んできたことに対しては腑に落ちておらず、私の脳内で当該おじさんを交通刑務所に収監することでようやくすっきりすることができた。

というか、よく考えてみれば、青年2の前に青年1が跳ね飛ばされていても全くおかしくはなかった事態であり、そもそもが腑に落ちるとか落ちないとかそんなものは瑣末な問題であった。「生きててよかった!」と私は思った。生きていたからこそこの文章を書くことができた。おじさんには遡って執行猶予が付与された。

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