男性権力の神話 《男性差別》の可視化と撤廃のための学問(再)
松本人志氏の『文春』訴訟、松本氏側は訴状で記事に登場する「A子」「B子」の特定を要求しました。
メディアは相手方弁護士の「こんなこと初めて」との「困惑」と「怒り」を報じていますが、原告の情報を伏せるというメチャクチャな制度、そりゃ本年三月に始まったばかりなのだから「こんなの初めて」でしょう。
パオロ・マッツァリーノにも劣らない卑劣な誘導記事です。
と言うわけで、未見の方は以下の記事を是非。
さて、今回の再録はアメリカの男性解放論者のモノ。
初出は2014年6月6日、文中に「二十年前の本」とありますが、当然、既に「三十年前の本」になってしまっています。
それがいまだ新鮮味を持って迫ってくることが、哀しいですが。
長い長いものなので、ポイントの冤罪についての箇所だけを読むのでも結構です。
その場合は「一方、「女災」、即ち女性が「被害者として振る舞うことで加害者性を発揮すること」に対しても、ファレルは鋭いメスを入れていきます。」という文章以降を読んでください。
では、そういうことで……。
* * *
著者のワレン・ファレルは全米女性機構(NOW)に参加した初の男性学者であり、元はフェミニストだったそうです。
ところがやがて「男性差別問題」に開眼し、モノしたのが本書。
1993年(二十年前!)の著書であり、累計三十万部のベストセラーということなので、この分野の古典的名著、と呼んでいいでしょう。
が、邦訳は長らくされることがなく、ぼくも今回、初めて目を通しました。
同時期の類書に『正しいオトコのやり方』があり、これもまた大変にラディカルなモノだったのですが、こうしてみるとその「二十年前の著作」がいまだ全然古びていないことに慄然とせざるを得ません。
想像するにアメリカでも、そして言うまでもなく日本でも、男性の置かれた状況はいよいよ凄惨なモノになっているばかりなのですから。
今回、本書についてレビューすると言うよりは、気になったところの引用が主になると思いますが、それは本書が評論と言うよりは資料中心であるためで、ご容赦いただきたいと思います。
さて、ぼくは時々、こんなことを言っていたかと思います。
また、(文章化したことはなかったと思いますが)以下のようなことも言っていました。
そしてこれらのフレーズは、奇しくも本書の主張を、極めて端的に言い表しているように思います。
本書では「ステージⅠ/ステージⅡ」という言葉が頻出します。これは
といった言葉が象徴するように、わかりやすく言い換えれば
ステージⅠ=生存欲
ステージⅡ=自己実現欲
とでもいったことです。
今まで男性は「食うために、そしてまた女性や子供を食わせるために」仕事をしてきた。
その結果、社会が豊かになったため女性は「社会進出」し、「自己実現のために」仕事をするようになった、ということです。
いまだ男性は「食うため、食わせるために」仕事をしており、そこには(以下に引用するように)しばしば非常な危険が伴う。
それらのリスクは男性に負わせ、「自己実現」というゲインだけを得よう。それが、フェミニズムの本質だったのです。
本書ではフェミニズムの欺瞞が、男性の凄惨な実態がこれでもかと、読んでいて気が滅入るくらいに執拗に指摘されていきます。
近代化に伴い女性が危険から守られ、長命化したことを指して、ファレルはこう言います。
もっとも、こうなると男女の寿命の差は医学的な理由に還元し得るかも知れません。
それをもってファレルは
と言います。近代医学の発達の前には女性の寿命の方が短かったこと、また「女性の社会進出」の進んだ近年では僅かながら男女の寿命の差が再び縮まり、ささやかではあるもののフェミニズムの「成果」として「男女平等」に近づきつつあることなどは拙著にも書きましたので参照してください。
しかし、男性が女性に尽くしたのは医療面に留まりません。生活の全場面においてそれは言えるのです。
『タイム』誌が銃の被害者について特集した時、
と書き、女性だけを採り挙げたが、事実として被害者の多くは(上に挙げたような弱者属性を持つ)男性たちでした。
しかしこの裁判は性犯罪者としての男性のイメージを強めるばかりで、救済者としての男性のイメージを強めることはありませんでした。
身の回りを見ると、昨今はブルーカラーにも女性は増えているような気がします。が、これは単純に不況のせいでホワイトカラーにしか目を向けないフェミニズムの「成果」では、恐らくない。そろそろフェミはそうした女性に恨まれ、と言って今更「女性を危険な目に遭わせるな、専業主婦を増やせ」とも言えず、本格的に支持を失うのではないでしょうか。
一方、犯罪を犯してしまった場合にも、女性は守られ続けて来ました。
正直、「常に女性」というのは信じにくいのですが、しかし同性愛者の男児への性的虐待にすら、頑なに目を背け続けてきたフェミニズムが、女性の男児への虐待に目を向けるはずもありません。教育や福祉の分野から一刻も早くフェミニズムを一掃せねば、男児への被害は永久に救済されることはありません。
最後の例は象徴的です。
「内面」とは「女性」だけが有している。それがこの近代社会のコンセンサスであり、フェミニズムはそうした歪みが生んだ思想なのです。
このジェンダーバイアス委員会はまた、女性刑務所の数が少ないことを理由に、慰問に行きにくい、女性差別だとも言いがかりをつけます。むろん、そもそも女性受刑者は(女性に甘い司法のおかげで)絶対数が少なく、男性受刑者の倍の予算が投じられ、設備も天国のようなものなのですが。
興味深い……というか、近代的人権観の根本に抵触する、極めてデリケートな問題として、PMS(月経前症候群)があります。生理中や更年期の女性ホルモンが女性の意志決定に与える有害な影響のことを言うのですが、それを唱えたエドガー・バーマン医師は案の定、フェミニストたちのバッシングに遭いました。
それにより(というか、PMSの症状を抑える注射を打っていたというだけの理由で)、実際に複数の女性殺人犯が執行猶予の判決を受けました。
しかしファレルの主張が秀逸なのは、女性の殺人すらもがPMSバイアスによってこんなにも正当化されるのならば、男性もTPバイアス(テストステロン中毒)を用いることを許されるのではないか、としているところです。
そう、フェミニストは今まで攻撃性を司るとされる男性のテストステロンを、半狂乱で憎悪し続けてきました。しかし女性側のホルモンについてはそれが殺人を引き起こそうと正当化するのです。彼女らの、テストステロンを持っていないにも関わらず発揮される攻撃性には、いつもいつも慄然とさせられます。
――いや、しかしそれにしても女性は被害者となることが多い。まずその原因である男性の攻撃性をこそ矯正せよ。
そうでしょうか?
一方、「女災」、即ち女性が「被害者として振る舞うことで加害者性を発揮すること」に対しても、ファレルは鋭いメスを入れていきます。
この「デート詐欺」は要するに上のような女性の、「口頭での発言とボディランゲージの矛盾」を指す、「デートレイプ」に対応する概念です。ファレルはこの後、女性向けのロマンス小説の多くが「強姦者との結婚」というモチーフを持っていることを指摘します。
また、男性だって望まぬ性行為をしていることにも言及。その比率は九四%とも、六三%とも言われ、後者の調査では男性の比率が女性のそれを大きく上回っています。
しかもデートレイプについては(男性の方がより被害に遭っている、との調査すらあるのに)男性にだけ適用されるのです。
そしてファレルはいよいよタブー中のタブーへと足を踏み入れます。
六〇%という数字はつまり、その結果、出たものです。
調査者のマクドウェル博士は、いや、これは空軍だけの特殊事情では……と考え、中西部と南西部の主な都市の警察のファイルについても調査したのですが……やはり結果として出てきたのは六〇%(は虚偽の告発である)という数字でした。
メリーランド州のプリンスジョージとバージニア州のフェアファックスにおいても、それぞれ三〇%と四〇%の虚偽、または「根拠なし」の事例を記録していたと言います。
本書には虚偽の報告をする女性たちの動機についても表が作られており、妊娠したことの社会への言い訳がその主要な理由の一つであるとわかります。ファレルはこれを
と表現しています。
そして言うまでもないことですが、女性は経済的にも、圧倒的な優遇措置を、今まで受け続けてきました。
むろん、女性世帯主は絶対数が少ないじゃないか、という反論が予想されますが、世帯主でない女性の多くは、男性に食べさせてもらっているわけです。男性を食べさせている女性世帯主の数は、極めて少ないでしょう。
また、それにも関わらず、家庭という社会では母親が専ら権力を握ってきたことは、日米共通の事実です。日本においてはのみならず、女性が財布を握っていることをも、ファレルは指摘します。
本書の第三部は「夫の代わりとしての政府」と題されています。
ということで、これは保守派が「フェミニズムは共産主義のバリアントである」と指摘するのと、意を同じくしています。ある程度裕福な男性は女性を主婦にも労働者にもすることができますが、貧困層の男性にはそれができないので、
というわけです。ぼくは
と主張してきました。ファレルもこれと同様のことを言っています。
法が整備され差別がなくなったにも関わらず、女性の社会進出がはかどらないことを、フェミニストは「ガラスの天井」のせいだとします。「女性は見えないバリアに阻まれているのだ」との言い分であり、こうなると「証拠を出せ」と言われても「見えない」と返せば済むのですから、もう無敵の理論です。
が、ファレルはこれに「ガラスの地下室」という言葉で返します。男性は見えないバリアによって、地下室に閉じ込められているのです。
もっとも、この「ガラス」の正体を「ジェンダー規範」と解釈するならば、(「ガラスの地下室」が実在する程度には)「ガラスの天井」もまた実在するのだ、とは言えます。しかしその場合もこの「ジェンダー規範」は、男性側の責がゼロとは言わないものの、主婦志向に象徴されるように選択肢を与えられた女性側の主体的自己決定の結果である、と考えざるを得ないでしょう。
――いかがでしょう。
みなさんいい加減、ウンザリ来ているのではないでしょうか。
ぼくもウンザリ来ています。
本書は400pを超える大著であり、ファレルの粘り強い調査には脱帽せざるを得ません。
しかし彼の能力の高さは、調査能力にばかり特化しているわけではないのです。
細かい考察は次回に譲りますが、最後にちょっとだけ予告代わりに、まとめめいたことを書いておきましょう。
ファレルはゴミ清掃業者、現金輸送のガードマンなど、危険な職業に就く男性たちの惨憺たる状況について、心を痛めます。男性がただ、女性の愛を得るために危険な職業に就くこと、その逆は決してないことを、彼は繰り返し指摘します。
本書を見ていくと愛が、結婚が、家庭が男を殺したのだということがわかります。
翻って現代の日本。ここでは既に草食系男子たちが結婚という選択を捨て始めています。ぼくたちは女性に気に入られることがコストに見あわないと見抜き、金銭的なメリットを捨てました。
男は愛に、結婚に、家庭に、女に三行半を突きつけたのです。
しかし両者はそれで、本当に幸福になれたのでしょうか?
これから、ぼくたちの女災社会はどうなるのでしょうか……?
* * *
――以上です。
さて、本稿には後編もあるのですが、今回はあくまで冤罪についての記事の再録なので、そっちは省略します。
興味の湧いた方は、過去記事をお読みいただければ幸いです。
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平気で濡れ衣を着せる人たち
フェミニスト、ないし女性たちによって男性たちに仕掛けられたステキな冤罪を説明した、素晴らしい記事をまとめています。
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