ホモと見るハフポスト「“同性愛者を侮辱“する投稿で物議。東急ハンズの見解は?過去にも、性的マイノリティ差別的な投稿をしていた」
……いつまで経っても過去記事の再録ができませんが、今回も新規記事です。
それと『Daily WiLL Online』様で明日辺り、LGBT関連の記事が発表されます。長らく高いランキングを維持している記事の続編です。どうぞ、ご覧下さい!
・ホモ差別は何故ホモ差別なのか
さてフェミサイト、ハフホストが東急ハンズをキャンセルしようと、火を放っています。
ハンズの公式Twitterが「ゴリラゲイ雨」という言葉を使ったことが絶対に許せぬようです。どうもこの言葉が「同性愛を侮辱した」ことになっているようなんですね。
単なるアナグラムのギャグが何で侮辱になるのかわかりませんが、そうなると「阿藤快」と言った者は「加藤あい」を侮辱したとして死刑なんですかね。
それとも、ホモとゴリラの組みあわせがけしからんということでしょうか。GOGOカレーはゴリラとカレーを組みあわせてカレーを侮辱してるので、火を放つべきですかね。
今までもホモ(というよりは左派の御仁たち)は「ホモ」という言葉はホモ差別だとして、使用を禁ぜよと暴れ回ってきました。
しかし「ゲイ」というのはホモのイメージアップを図るためにホモによって半ば政治的に作られた言葉。つまりホモをよきものとする人々のための言葉であったわけです。それがギャグのネタになったからけしからぬと言われては、もう「ゲイ」という言葉を使うのを止めて、ただひたすらにホモを無視する社会にするしかありません。
これ、例えば『ちび黒サンボ』などを差別的とする三十年ほど前の運動と同じですよね。うるさく言われるならと、クリエイターたちはむしろ、黒人そのものを扱うことを止めてしまいました(もちろんそうなったらそうなったでまた黒人を出せと怒られるんですが)。
まあ、あんまりにアホらしくてつまらんギャグを書き並べてしまいましたが、もうちょっと真面目に記事に当たってみましょう。
ハフホストを覗いてみると、本当にフェミニズムだジェンダーだLGBTQだと、よくもまあここまでと感心するような電波サイト。しかしフェミ、ジェンダー推しになったのも、想像するにSDG'sだ何だと言われ出したここ数年のことではないでしょうか。
本当に、この世の中が音を立てて破壊されていく様が手に取るように感じられます。
さて、ハンズに放火したのは表題にもある通り、「“同性愛者を侮辱“する投稿で物議。東急ハンズの見解は?過去にも、性的マイノリティ差別的な投稿をしていた」との記事。
同稿では「性的マイノリティに関する情報を発信する『fair』代表理事の松岡宗嗣さん」のありがたいありがたい宣り言が紹介されています。
あ、そうですか。
ハンズのツイには「ゴリラゲイ雨が来たらちょっと困るけど」とあるのですが、これは単に雨が困ると言っているだけで、例えば「ゴリラゲイ雨なんて嫌だよな」「キモいよな」などとこの言葉にこと寄せてホモを侮蔑したという印象は、全くないのです。
やはりこうなると「ゲイ」という言葉を全面タブーにする以外、噛みつかれない方法はありません(もちろんそうなったらそうなったでアファーマティブアクション的なゴリ押しをしてくることはもう、わかりきっているのですが、ゴリラだけに)。
・ホモがホモ差別と言ったらホモ差別です
何でもハンズは2013年にも、男性同性愛者への差別用語を思わせる投稿をしているとのことですが、不思議なことにそれがどんなモノであったかは書かれていません。
まあ、「ゴリラゲイ雨」ですら差別だと言い立てる人の言うことなのだから、挙げてみればどこが差別かわからないようなものなのでしょうが。
記事は以下のようにもあります。
そんなこと言ったって、ゴリラなんて面白いに決まってるとしか。
それに刑事ドラマ『ゴリラ・警視庁捜査第8班』、レスキューチームの活躍を描くドラマ『ザ★ゴリラ7』、刑事漫画『アクション刑事ザ・ゴリラ』、アニメ『亜空大作戦スラングル』に登場する防衛チーム・ゴリラ、『ビーストウォーズ超生命体トランスフォーマー』の主役コンボイがゴリラ型ロボであるなど、必ずしもゴリラは面白いだけではなく、むしろヒーローのイメージも持っています。そこを大騒ぎするのは過剰反応という他ないし、上の「差別的投稿」の詳細が明かされないことが象徴するように「ホモ差別」など今の日本にはない、ことをこの件そのものが実証している、としかぼくには思えません。
記事には以下のようにもあります。
つまり、悪意がなくても許されないわけです。ホモのことを、ホモが望むように認識して差し上げないことそのものが、既に差別であるとのこと。なるほど、上のうわ言、否、ご高説を前提すれば「ゴリラゲイ雨」は確かにホモ差別でしょう。ホモ様が100%お気に召す表現以外の全ては、ホモ差別だと、明言されているのですから。
大変に、おぞましいですね。
はい、来ました。
来ましたよ、ホモによる大表現圧殺時代が。
ここしばらく、いわゆる「淫夢」、つまり『真夏の夜の淫夢』に端を発する、ニコニコ動画など動画コミュニティにおけるホモビデオのブームを腐すような気運が高まっています。オタク向けの画像投稿掲示板「ふたばちゃん」などにおいても、そうしたスレが立つことが多くなったように思います。
正直、この流れがこの先どうなっていくのかはわかりませんが、まずはいよいよ表現が規制されていくんだろうなあとしか、考えようがありません。
当然、BLも衰退していくのでしょうね。
・ホモを嗤った者はホモ差別ですがホモもホモ差別です
もちろんそれは好ましいことではありませんが、では「表現の自由クラスタ」のような「表現の自由」を標榜する左派陣営の人たちは、どう反応しているでしょうか。
最近、表現の自由クラスタの某氏が「淫夢はホモ差別ではない」と言っていたことがあります。
はて、一体どういうことでしょう?
要するに「淫夢」で人気なのは「こ↑こ↓」とか「まずうちさあ」といったセリフ回しの微妙さ、引いては作品としての拙さの部分である、とでもいったリクツです。
例えば『チャージマン研』もまた同じ文脈でブームとなったわけだから、そこにホモ差別を見て取る方こそが過剰なのだというわけで、これは非常に納得のいく反論です。
しかし……同時に、考えてみればこの「淫夢」、動画コメントで人気のあるフレーズには「クッソ汚い」などもあり、これはどうでしょうか。
上の某氏のリクツでこれを正当化しようとすると、「男優の汚さを嗤っただけだ」となるでしょうが、それはやはり牽強付会であり、むしろ「ホモ(という存在全体の)の汚さを嗤っている」とするのがまあ、妥当な見方ではないでしょうか。
とんねるずの持ちネタであるコント、「保毛尾田保毛男」が騒がれた時も、似たような意見が見られました。「作中で保毛尾田保毛男は他のキャラに受け入れられている、差別性はない」。ぼくはこのコントについてはよく知らんので、あまり踏み込んだことは言えませんが、確かいわゆるお姉っぽいしぐさをしていたはず。やはりこうなると疑問を覚える人も増えるのではないでしょうか。劇中のキャラはともかく、見る側がホモを滑稽だと思う感情を持っているからこそ面白がるのではないかと。
……さて、それを踏まえた上で「ゴリラゲイ雨」を思い出してください。
繰り返すように、ここから差別性を見て取るのは難しい。
しかし「保毛尾田保毛男」が劇中で嗤われなくとも観る側が滑稽さを感じていたように(あんまり観たことないけど多分、そうだったのだと思います)、「ゲイ」そのものが「滑稽さ」を内包しているがため、「嗤える」と、一応、そうしたことが言えるわけです。
もちろん、こうしてキャンセルを続けていけばこの世から「表現の自由」は一切、失われるわけで、いずれにせよハフポストの物言いに首肯するわけにはいきません。
が、以上のような視点を持った時、もう一度、件の松岡師匠の物言いを振り返ってみると、いかがでしょうか。
そう、師匠は(頭が悪いため)ホモが「嗤われる」のは「ホモネタが拡散されたから」だと思っているのです。
否、よく言うようにネット以前はむしろ漫画などでホモネタのギャグなどあったのだから、いずれにせよ当たってはいないのですが、師匠の懸念は「それが更に助長される」とでもいった辺りにあるかも知れません。
しかし、先にも既に書いたように「ホモ差別(であると、彼ら彼女らが指弾する表現)」の本質は「男性の肉体にエロティシズムを見て取ること」そのものにあり、少なくともヘテロセクシュアル男性にとってそれは非常に嫌悪感を催させるものなのです。
つまり上に書いた「ホモ」に対する「クッソ汚い」はホモそのものというよりは「男の肉体」というモノが普遍的に汚いという「一般的な感覚」が前提されており、その意味でこれをホモ差別とすることすら、本当は微妙なのです。
同時に「オカマ」が滑稽なのは、これまた「男が女性性を発揮すること」そのものが滑稽であるからです。
この地球において「ヘテロセクシャル男性」が人類の最下層にランキングされてしまってからかなりの時が経ち、おそらくホモ本人もこうした「男性の持つ嫌悪感」について無自覚になりつつありましょうが、例えばこれは女性においても、腐女子ですら本質としては変わるところがない。まず、肉体的な美という点で男性よりは女性の方が上である、といったコンセンサスは男女ともに共有しているのですから。時々書くように、ラカンは「異性愛とは女性の肉体に欲望を感じることである」と言っていますが、なればこそ女性は自身の肉体を飾ろうとするわけです。
その意味で、「ゴリラゲイ雨」という言葉を圧殺しようとする傲慢さには賛同できませんが、「そこに差別性がある」という指摘は、それこそ「淫夢」の一兆分の一くらいは当たっているかと思われます。もちろん、「淫夢」の差別性も「昔の西欧」に比べれば一京分の一くらいに過ぎないのですが。
こうした場合、よく「反・反差別」的なスタンスの人間から「差別だと思う方にこそ差別性があるのだ」といった指摘がなされますが、それはもちろん正論ではあるものの、「差別だと思った方(「ゴリラゲイ雨」に差別性を見て取った方)」は「社会のコンセンサスである、ホモの滑稽さ」を敏感に見て取ったわけであり、「差別ではないとして嗤っている方」にも「差別性」があると言うしかないんですね。
・ホモ差別がなくなる時、人類は絶滅する
――しかし、その「差別性」を消し去ることは不可能でしょう。
例えばですが、『ドラえもん』において、学校でテストの結果発表をする場面を想像してみましょう。出木杉君が100点を取り、女子が騒ぐ。しかしのび太は0点。ぎゃふん。
ここには頭の悪い者を嗤う「差別性」が僅かにでも内包されていますが、これを嗤う感性を人間からなくしてしまうことはできない。
基本的にはそれと同じです。
それをも消そうとすると、もう、成績のいい者を称揚すること自体を禁ずる他ありません。
ホモも同様で、差別をゼロにしろと言うなら女性の肉体性を賛美すること自体が、禁じられなければなりません。フェミニストたちが標榜するような「ジェンダーフリー」、史上空前絶後の人間の精神の大改造を行うしかないわけです。
そしてもちろん、「プラスサイズモデル」などを見てもわかるように、世界中が既にそちらの方向に向かいつつあるわけです。
「淫夢」が消える時、ぼくたちの心の自由もまた、失われるのです。
ここから先は
サ○の命を救ってくれなかった○モへ
えぇと、ヤバいかと伏せ字にしたのですが、そのせいでよりヤバい感じになってしまったのは何故でしょう。 実際には○の中に何が入るのか。当not…
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?