兵頭新児のレッドデータコンテンツ図鑑②『キカイダー』シリーズ 長坂秀佳――ホモソーシャルの作家
まずはちょっとお報せを。
『WiLL online』様でジャニーズ関連(コラボ関連でもある)記事が掲載されています。
掲載後一日で早くもランキング一位!!
より以上の応援をよろしくお願いいたします。
それともう一つ。
先日、評論家の小浜逸郎さんが亡くなられました。
フェミニズム、ポリコレを鋭く批判した、ぼくたちの大先輩とも言うべき人物で、兵頭新児も小浜さんの主催する日曜会に出席させていただいておりました。
来月、その日曜会で小浜さんの遺作となってしまった『ポリコレ過剰社会』が扱われます。
ご興味のある方は、ご来場ください。
詳しくは以下を!
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さて、シン企画第二弾は『キカイダー』です。
少し前、You Tubeの配信で『人造人間キカイダー』をやっていたので、ちょっと語っておきたかったんですね。
細かい設定などは折に触れ最低限説明するに留めますが、最初に言っておくと本作は1972年に放送開始した特撮ヒーロー番組。ロボットのキカイダー・ジローが悪と戦う物語です。
久し振りの視聴だったのですが、今回、「やたら女が出てくるなあ」との感想を持ちました。本作は夜八時からの放映であったため、お父さん向けの要素を多くしたのではと思われます。
この時期のこの種の番組、普通であればジジイの博士が敵に狙われるというのが定番の展開です。ジジイが古典的物語の「お姫さま」の立ち位置にいるわけですが、これは丁度博士の頭脳、科学こそが地球の命運を左右するという高度経済成長期的世界観の反映だったと言え、そんなところからも特撮ヒーローものは男の世界だと言えるわけです(バリアントとして、今回語るように博士の秘密を託された男の子が「お姫さま」というパターンもあるわけですが……)。
しかし本作ではやたらと若い美貌の女性科学者、或いは自然保護活動家が狙われることとなります(悪の組織ダークはやたら自然保護活動家を狙います。まさに公害などが悪の代表として認識されていた時代だったわけです)。
またそもそも、作品テーマ自体が「世界の平和を守る」ことと共に「父親捜し」というパーソナルなものであるのも、本作の特徴です。キカイダーを作った光明寺博士が記憶喪失でさまよっており、それを博士の子供であるミツ子、マサルの姉弟と共に探すことがジローの目的であり、毎回のエンディングナレーションにも謳われていました。
ミツ子は博士譲りのメカニックとしての腕の主で、ジローを助けると共に、一人の男性として愛してもいる。いつも泣いているような表情の幸薄そうな美女がミニスカートで常に苦難に耐える、そしてジローに助けられるがジロー自身は(ロボットと人間という「身分」の違いも理由ですが、同時に)悪の怪人と戦う使命を優先させ、これまた常に苦悩の表情で彼女につれなくする。
女は男をケアし、求愛するが男は使命(≒仕事)に夢中というのはこの頃(高度経済成長期)のドラマによく見られたもので、男女ジェンダーを考えた時、ある意味健全なあり方だなあとも思います。
さて、この『キカイダー』、当初は『仮面ライダー』のメインライターを務めていた伊上勝がやはりメインで書いていました。それは『ライダー』の同工異曲でやや平板……というのがマニアの間で囁かれる通説で、それも間違いではないのですが、見ているとそれなりに「大人向け」の作劇がされていることがわかります。
ただ、途中参加し、後半のメインを務めた長坂秀佳という脚本家の仕事があまりにも印象深く、それで「後半は神だが前半は今一」との世評を形作っているのでしょう。
そう、前回「ホモソーシャルの作家」と評した脚本家です。
その、ハカイダーを中心に据えた後半戦が名作であることは論を待ちませんが、ここで語りたいのは作風のホモソーシャリティ。いえ、「ホモソーシャル」というフェミ用語は「悪いこと」として価値づけられており、あまり使いたくないのですが、「友情」とも「父子愛」とも呼びがたい微妙な関係が長坂作品では描かれることになるので、ここでは敢えてこの言葉を使うことにします。
ハカイダー・サブローの出現と共に、ジローは光明寺博士を殺した犯人として疑われることになります。官憲にも追われるとあって、ミツ子、マサルの心中も穏やかではありません。ミツ子はとにもかくにもジローへの愛でその無実を妄信し続けますが、マサルはついにジローは犯人だと信じるようになります。
敵は博士の偽死体まで用意しており、またそもそもジローは不完全な良心回路の弱点を突かれ、実際に博士を襲ってしまっており、疑うのが自然という状況。ただ妄信するミツ子よりも、葛藤に葛藤を重ね、父の敵ジローを破壊しようと決意するマサルの方がむしろ複雑な心境であったことでしょう。何しろマサルは小学校高学年くらいの年齢で、ジローは頼もしいアニキ代わりでした。
ジローは赤いギターにジージャンジーパンといった、明らかに当時の反体制的な若者のファッションを意識したスタイル。即ち「(流行の文化の最先端をいく)格好いいアニキ」といった存在だったのです。ぼくは時々サブカルをホモっぽいと罵りますが、それは逆に言えばこの当時はそうした「格好いい、憧れの青年文化」というものがリアルに存在していた(サブカル君は今もそうだと勘違いしている)からこそなわけですね。
さて、そのマサルの下へと現れたのがサブロー。正体は敵であるハカイダーなのですが、それを隠し、「自分はジローが壊れたことを察知して、身代わりとしてマサルたちを守るために現れたのだ」と語り、マサルの歓心を買います。ハカイダー自身は卑劣な手を嫌うキャラなのですが、何故だかマサルには嘘をついてまで近づこうとするのです。
ただ、マサルの主観で考えれば、ジローが頼りにならない時に現れたサブローは頼もしい存在として映ったはずです。それがまた、ジローとは少し違った不良っぽい格好よさを持ったタイプであり、それが妙に自分には優しくしてくれる。池田憲章(という、最近物故した特撮評論家)の文章では、サブローの頭部には光明寺博士の頭脳が埋め込まれており、意識などは直接反映されていないはずですが、どこかでその影響があったのではないか……といった指摘もなされています。
自分の潔白を証明しようとマサルに訴えるジローの前にサブローが現れ「マサル君には手出しさせん」と啖呵を切るシーンもあり、まさにこれはマサルという少年を中央に据えた三角関係。今なら間違いなくミツ子を巡っての争いになるでしょうが、別に性的、BL的な意味ではなく「憧れるような格好いいお兄さんに優しくされる」という男の子の欲求を、本作は見事に満たすもので(あり、それは同時に先に述べたようなミツ子の「妄信」ではなくいたいけに「葛藤」を重ねたマサルへのご褒美といった側面も)あったように思います。
さて、そんな葛藤の末、マサルはゲストの少年に「君、本当はジローが好きなんだろ」と見抜かれ、またジローにも「君に疑われてまで生きていたくない」と、生死を委ねられ(「自分が信じられないなら、サブローを呼んで俺を破壊してくれ」)最終的にジローを信じるように。
それ以降もハカイダーとの勝負、光明寺博士の復活、ダークとの決戦といくつも波乱がありますが、最終回はジローが(マサルというより)ミツ子の下を去るという、どちらかと言えば男女のドラマが中心。
とはいえ、「女を捨てても使命に身を委ねるのが男」という男のドラマを、長坂は最後まで描いてみせたわけです(ジローが去っていく時、ミツ子たちには何も言わず、光明寺博士とまるで父子のような会話を交わすのも象徴的です)。
――さて、一人旅立ったジローですが、半月くらいで帰ってきます。
そう、次週からは『キカイダー01』が始まり、助っ人としてすぐに再登場するんですね。
ただ、さすがにあくまで主役はキカイダー01・イチローにバトンタッチしているので、ジローについて書くことは多くありません。
それでも、敵に狙われる少年アキラが逃亡生活に疲れた、悪の組織の手の届かない世界に連れて行ってくれとジローに泣きつくシーンは印象的です(16話「恐怖!ミイラ男のニトロ爆弾」)。先に助っ人と書いたものの、ジローがそれを超えるような比重で同作に登場していた証拠と言えましょう(もっともこの話、脚本は長坂ではありません)。
イチローは体育会系的で悩むことのないキャラ。だから上のシーンもナイーブなジローに甘えた方が気持ちをわかってくれると、アキラなりの計算もあったのかも知れません。実際に役者さんもジローが寺山修司か何かの劇団にいた文芸畑の人なのに対し、イチローは殺陣師の息子さんで、言わば藤岡弘型です。ともあれ戦隊などと違い、ピンでも充分活躍できるヒーローがタッグを組む、しかもそれが兄弟というのは他に例がなく、男の子の心を掴むに充分。
他にも本作の初期設定ではホモソーシャリティを象徴するような作劇が考えられていました。そもそもアキラが敵に狙われるのは、最終兵器の設計図を身体に隠し持っているから。そんな彼を狙う悪の組織と彼を守護するイチローとのバトル。ここまでなら普通なのですがそこに謎の美女が絡み、イチローとの対立が描かれます。
この謎の美女、リエコは隙あらばイチローからアキラを奪取しようとする第三勢力。或いは敵のスパイかと思いきや、実はアキラは前作の悪の組織ダークの首領の遺児であり、だからこそ最終兵器の秘密を託されており、そのダークの養育係であったリエコは(ダーク壊滅後でもあり)純粋なアキラへの愛情から、彼を保護しようとしていたことがわかります。
対立時にはイチローへと「人間の子供は人間が育てるべきだと思います」とアキラの養育権を主張し、これは要するに「子供をどちらが引き取るかの両親の争い」、男の子を巡っての成人男性と成人女性の争いなのですが、同時に男の子と共に戦場に身を置こうとする男性(≒息子を厳しく鍛えようとする父親)と、庇護しようとする母性の対立とも言える。
この時期は『仮面ライダー』でも『ウルトラマン』でも怪獣や悪の組織を信じない「教育ママ」と子供、ヒーローの対立という図式がしばしば描かれました。この怪獣や悪の組織は女性が認めたがらない戦いの世界(男社会)をこそ象徴し、ヒーローは男の子を母親の引力圏からさらって、そこへと連れて行ってくれる王子様だったとも言えましょう。
何しろ核家族化が進む一方、お父さんは会社に時間を取られ、子供を世話するのは専らお母さんの役目。母親の情熱と時間の多くは子供への教育へと注がれた時代で、それこそそうした過剰な母性を持つ母親を揶揄し、「ママゴン」と怪獣呼ばわりすることも当時、流行っていたのです。
このリエコは企画書では「次第にイチローを愛し始める」とあり、愛憎劇も予定されていたのでしょうが、途中で大幅な路線変更があり、あえなく「実はロボットだった」として爆死する運命を迎えます(まさに人間側を象徴するキャラがロボットだったとオチをつけたのですから、長坂も結構路線変更に対してヤケになっていたというか、あまり快く思ってはいなかったのでしょう)。
それ以降はむしろファンの間では評価の高いロボット同士の人間ドラマが描かれ、もちろんぼくも評価するに吝かではないのですが、女性ロボットビジンダーの比重が高くなるなど、今回のテーマからは外れていくこととなります。
これは随分前にツイッターでも書いたのですが、同作の後期では80年代の戦隊を作り上げた曽田博久がデビューしてもいます。曽田の評価は不当に低く思え、いつか採り挙げたいという思いもあるのですが、このもう一人の特撮界の帝王のデビュー作は人魚姫ロボットという女怪人の話(28話「狂った町 恐怖の人魚姫大逆襲」)。この話で悪の組織は人間社会の価値観を逆転させるという作戦を敢行し、大人と子供の対立、おまわりさんが横暴になるといった描写がなされます。要は曽田がものすごい左寄りの人であり、価値観の転換というのをやりたくて仕方がなかったのでしょう。
ここでは同時に「ロボットは善と悪が、美と醜が逆に感じられる」という今まで聞いたこともない設定が唐突に登場し、「じゃあ01は主観では悪のために戦っていたのか!?」とのこちらも疑問もスルーして、ハカイダーが人魚姫ロボットに恋をしてしまいます。醜悪なロボットがハカイダーには美女に見えるということなのですが、もう一つ特筆すべきは人魚姫ロボットがヒーロー側をも手玉に取ること。彼女の催眠攻撃でイチローも惑わされ、アキラの首を絞めてしまいます。さすがに性的なニュアンスは(イチロー側には)ないのですが、完全無欠のヒーローであるイチローが子供を襲うのは衝撃的で(良心回路が麻痺した時のジローの振る舞いに似せたのかも知れませんが)、これは人魚姫ロボットからイチローへの、「私といっしょになりたいならば、その子供は邪魔よね?」とのメッセージであるわけです。
ともあれ、本作では正義と悪の逆転を書いた後、そのいずれをも女が掻き回すという図式が成立しているのです。だからこそハカイダーもいかに弱体化したとはいえ、ヒーロー打倒という彼なりの「悪の正義」に忠実だったはずが、「愛する人魚姫のために」戦うようになってしまったわけです。
ともあれ、この時期は(視聴率対策でしょうか)やたらとお色気描写が多くなった時期でもあります。人魚姫ロボットもイチローを惑わす時は美女(……???)の人間体となりますし。
他にも『エクソシスト』か何かをモチーフにした「女子学生の血液でロボを作る」話も登場します(21話「吸血の館 美人女子寮の恐怖!!」)人間の血でロボットができるのかと問われても、実際に劇中でできてるんだから仕方がありません。
冒頭ではハカイダーたちが夜の街で女性を襲っては合格だ不合格だと言っており、また女子学生たちを救おうと女子寮に潜り込んだ主人公たちに文句をつけるお堅い(いかにもオールドミスの)寮長も、敵に捕まり血を吸われてロボットを誕生させてしまう様がコミカルに描かれます。
つまりこれ、言葉としては当然出てこないけど、「ロボット誕生には処女の血でなくてはならない」「寮長でもオッケーでした」というお父さんにだけわかるギャグなのですな。
ともあれ、そうした話を消化しつつ、本作後期には先にも述べたビジンダーが登場します。彼女もまた随分といやらしい設定を配したお色気要員であると共に(ご存じない方は調べてみてください)、何しろ志穂美悦子ですから、男勝りのアクションを披露します。
ぼくもヒロインとしては彼女が一番好きなのですが、同時に彼女は言わばミツ子という「守られ、耐えるヒロイン」に始まった『キカイダー』が「ジェンダーフリー化」してしまったことを象徴するキャラでもありました。もちろんお色気描写含め、ビジンダーもまた「男社会の紅一点」であり、作品の「男の世界」度は今からでは想像もできないほどに高いのですが。
ともあれ、「男の世界」としての『キカイダー』は、そうした「女性の社会進出」に伴い縮小していったのです。先の「人魚姫ロボット」はその転換期に登場し、そんな作品世界の変質を哀れんで、嘲って、皮肉って、予言してみせたのだと言えます。
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