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春一番 日本一の認知の歪み祭り!――「小児性愛」という病

※この記事は、およそ17分で読めます※

 どうも、『#KuToo』についての動画は見ていただいたでしょうか。
 この本、著者である石川優実師匠の文章の占める割が大変低く、ありがちな、編集者主導の企画本(内容よりは著者の知名度などで売ろうとする本)という印象の強いものでした。しかし実のところその文章すらも、元は師匠のブログ記事で、それを改訂したものなのですが、文中で頻出する「性役割」「性差異」といったフレーズ、ブログの方を検索した限りでは見つけることができませんでした。要するに、本に仕立て上げる過程でつけ足されたわけです。
 石川師匠は傀儡で、編集者に操られている存在だということがよくわかりますね。
 言ってみれば、「パンプスが窮屈だ」というそれ自体は素朴な気持ちが、「何か、人間のネガティブな精神エネルギーに反応し、それを取り込む悪者」に利用された――という図式です。
 さて、今回ご紹介するのはソーシャルワーカーの斉藤章佳師匠による、ペドフィリアについての著作。最初に書いておくと、本書もまた、というのがぶっちゃけ本稿の結論でありますが――。

・ペドフィリアの認知の歪み

 本書の存在、確かぼくはツイッターで知ったように思います。
 表現の自由クラスタが、ヘイト本とか何とか悪口を書いていたように記憶していますが、当ブログを永らくお読みいただいている方は周知かと思いますが、ぼくは基本、ペドフィリアに対して同情的ではありません。一つに、表現の自由クラスタの本丸が明らかにオタクではなくペドフィリアを守ることにあるからだし――というのはまた、いつもの憎まれ口ですが、しかし彼らがペドフィリアを運動に取り込もうとしているのは、間違いないのではないでしょうか。これについては次回詳述します――もう一つに、ペドフィリアは「認知の歪み」を抱え、「子供とセックスしてもいいのだ、子供との間にも純愛が成り立つのだ」と主張する傾向があるからです。
 それは本書でも、繰り返し語られます。本当、ページを開く度に「認知の歪み」という言葉が目に飛び込んでくるくらい。
 ちょっと、尼の「内容紹介」から引用してみましょう。

「そりゃセックスもしましたよ。恋人同士ですもん。それを周りの人たちが、ぶち壊したんです。 私がロリコンで、Yちゃんは被害者だといって引き離したんです。
私はそんな人達によって犯罪者にさせられました。おかしいのはどっちだっていいたいです…」
これは、12歳の少女に性加害をした49歳の男性のケースです。
女子児童の側には、交際しているという認識はありません。怒ると声を荒げる男が怖くて、言われるがままになっていたのだとわかっています。
(中略)
しかし、彼が見ていたのは、「子どもから求めていた」「子どもはよろこんでいた」という光景。事実とは、正反対です。
クリニックで子どもの性加害経験者からヒアリングしていると、これは性加害をする者なら誰もが持っている、特有の思考の歪みだと実感します。

 以上は本書の15pにある記述の抜粋(少々内容の変更がありますが……)です。これについて、ぼくは全く反対するところがありません。
 ただし、敢えて言えば12歳ともなるとそこそこ大人ですし、「合意の上で関係を持つ」ことは不可能ではないでしょう(ただしイケメンに限る)。相手は子供なのだから、「合意でもダメ」と考えるべきではありますが、こうしたケースの場合、必ずしも加害者が脅して……というものばかりではないと思います。
 また、本書では「児童ポルノ」の被害は自撮りによるものが多いと言及されており、しかし、高校生くらいが「被害者」の場合、性交可能年齢であることを考えると、やはり絶対的な被害者と決め込んでいいのか、被害者側の意識を全く不問にするのもどうかと思います。つまり、この辺はぼくの意見も表現の自由クラスタに近しい、ということになりますが。
 ただ、もちろん、だから斉藤師匠の主張が間違いだ、というわけではありません。以前にも書きましたが、欧米では少年愛者協会NAMBLAを始めとして、「子供とのセックスを合法化せよ!」という運動をする組織がいくつもあるのです。
 これは結局、フェミニズムを含むリベラル思想の行き着く先であり、事実、フェミニストの中には自分たちと少女との、少年愛者と少年とのセックスを肯定する連中がいます。フェミニストの先兵であったジョン・マネー(今ではインチキがバレたが、一時期、ジェンダーフリーの論拠となる実験をしたとして、カリスマとされていた人)も子供とのセックスを肯定していました。
 フェミニズムがそうであるように、結局リベラルとは「自分の自由のために他人の自由を侵害する人」でしかないのですね。
 また、実のところ本書で多くページが割かれているのは実際の臨床、子供に性被害を及ぼしたペド犯罪者たちのカウンセリング(そのような言葉は使われていませんが、ここはわかりやすい言葉を使うことにします)の様子に関して。それについてはぼくも知識がありませんし、まあ、「なるほどなるほど」と素直に読んでおりました。
 が!!
 ――いえ、ビックリマークを二つつけるほどのことではないのですが、後半に至るに、本書はおかしな方向に暴走を始めるのです――いえ、それもまた想定の範囲内だったのですが――。

・斉藤師匠の認知の歪み

 本書が本格的におかしくなるのは、第8章からです。本章のタイトルは「支配感情――救われたい男たち」。この段階で既にヤバい匂いがぷんぷんしますが、節タイトルを見ていくと「ジェンダーギャップ・ニッポン!」「“女尊男卑”だとする認知の歪み」「「未熟=かわいい」という価値観」。おいおい、また「認知の歪み」かよw
 結局、ペドフィリアの「認知の歪み」を舌鋒鋭く斬りまくっていた斉藤師匠もまた、「フェミニズムは正しい」という重篤な「認知の歪み」を抱えていた、という腰砕けなオチ。
 ペドフィリア関連については貴重な記述の多いのですが、肝心の理念の部分は凡百のフェミ本と変わらないのです。
 本章の一番最初では

すべての性暴力は、根底に男尊女卑的な思考パターンがあります。
(236p)

 とぶち上げます。
 しかし、具体的にその「男尊女卑的な思考パターン」というものが何なのか、今一判然としません。師匠はカウンセリング中のペド犯罪者たちに対して「日本は男尊女卑社会だ」と訴えても、ぽかんとしているのみであることに嘆いてみせます。しかしこれは、今のネット世論がそうであるように、一般的な人々にもそうした言説が受け容れられなくなりつつある、ということでしかないと思うのですが。
 いえ、だからこそ、師匠はペド犯罪者も一般人も変わることがない、というリクツをぶつのですが、それは単にフェミニズムに洗脳された師匠が「認知の歪み」を抱えているだけのハナシでしょう。これは幼い子供を誘導して性的関係へと持ち込みつつ、「二人の間には純愛があったのだ」と信じ込むペドフィリアたちと美しいまでに見事な線対称をなしています
 そう、師匠の「認知の歪み」が、せっかくのペドフィリアに対する重要な指摘を、台なしにしてしまっているのです。
 これは、学問の世界がフェミニズムに牛耳られているがための弊害としか言いようがありません。社会学がいかに狂った学問かは近年、知られるようになってきましたが、こうした近隣ジャンルにまで、フェミニズムは甚大な「精神汚染」を広げているのです。

 師匠は典型的なメディア影響論者で、「日本の男たちはテレビから男尊女卑の考えを学んだ(249p・大意)」などと言っているのですが、ぼくはテレビが男尊女卑的な考えを流しているところを、ただの一度も見たことがありません。テレビはメインの視聴者層を女性であるとターゲティングしていますし、また、日本女性は世界でもトップのテレビのお得意さんでもあり(視聴時間が世界中でぶっちぎりトップだそうです)、少なくとも日本のテレビは女性に快い情報以外は流しません。時々名前を出すアメリカの男性解放論の名著『正しいオトコのやり方』には「テレビはフェミニストのサーカスとなった」との一文がありましたが、これは日本においても同様でしょう。
 何しろ本書は前書きの時点で以下のような具合です。

 子どもへの性加害、つまり小児性愛障害は、社会のなかで学習された行動です。大げさかもしれませんが、いまの日本社会が「ペドフィリア」を生み出し続けているといっても過言ではありません。
(7p)

 また、以下のような記述も。

 子どもへの性加害は、社会のなかで学習された行動だとお話ししました。だからこそ、治療教育を通して学習し直すことでやめ続けることができるという考えに基づいています。
(195p)

 はて、今の日本でペドフィリアを肯定するようなムードが(ツイッターや『薔薇族』を除いて)あるか……?
 第6章「再犯防止」においては、ペド犯罪者に対するカウンセリングの現実が述べられているのですが、そこでではペド犯罪者が他の受刑者に自分のしたことを知られることを恐れ、なかなかカウンセリングができないこと、またグループカウンセリングは様々な罪を犯した受刑者が共に罪を告白しあうものだが、ペド犯罪者は他の受刑者から差別を受けるため、仲間同士だけで集まるようにした、などと書かれている場もあるのだから、師匠の主張は完全に矛盾しているのです(欧米でもペド犯罪者は他の受刑者からいじめを受けることが多いそうです。そんなの、人類普遍に決まってるんですね)。
 そうした現実を、身をもって体験していながら、日本の社会はペドを肯定しているのだと繰り返す師匠。はて、どういう了見なのだろう……? と思いつつ読み進めていると、先にも挙げた「「未熟=かわいい」という価値観」の節で、以下のような記述にぶち当たるのです。

 もう一点、ほとんどの男性が子どもを性対象とする男性と実は地続きではないかと思わされることがあります。それは、未熟で自分たちより劣っている女性をよしとする文化です。
(253p)

 ここで師匠は秋元康が作詞したHKT48の「アインシュタインよりディアナ・アグロン」の歌詞を得意げに引用します(曲名、歌手名などはどういうわけかぼかしています)。

 いや、PC的には過激な歌詞ではあるけれども(そう、まさに今時公言できない、仮に政治家が公言したらたちどころに地位を失うような発言を、まさに女の子だからこそまだしも許される発言を挑発的にさせた、というのがこの歌詞の本質であり、そこに「それ見ろ!」とダボハゼのように飛びついている斉藤師匠はどうかとしか思えません)、こういうのは女の子自身の本音なんじゃないでしょうか。アイドルについては全く知らんのですが、秋元はこうした女の子の自己愛を前面に押し出した作詞家ではなかったでしょうかね。

 女性アイドルが歌っていますが、これは明らかに男性側が固執している価値観です。
(254p)

 あっ、はい。
 この論調は、言うまでもなく本書の全編を貫くものになっています。
 これが、露出が際どい、幼い少女を性的に消費しているからけしからぬというのであれば一応は理解できるのですが(HKTは恐らくハイティーンくらいでしょうから、ペドとは関係がないと思いますが、その辺はオマケしてあげるとして)、そうではなく「バカで可愛い」と感じることがけしからぬ、ということなのだから、こうなると、弱い者を可愛いと感じることそのものが全否定されるべきと考えているという他ありません。人間が子供を(一応、性的な文脈ではなく)可愛いと感じることは普遍的であるはずですが、それも師匠には許してもらえないというリクツになります。
 師匠は

 子どもへの性加害をする者とそうでない者が地続きにある社会、それによって子どもへの性加害行為が後押しされる社会を、私は「ペドフィリア傾向社会」と呼ぶことにしています。
(259p)

 などと絶叫します。しかしぼくには、フェミニズムの歪んだ野望を達成するために、師匠が関係ないものを地続きであると強弁しているようにしか見えないのですが。

・フェミニズムの認知の歪み

 フェミニズムの誤謬の中で最大のものは、師匠の振る舞いを見てもわかるように、女性の主体的判断を決して認めようとしないところにあります。
 時々例に出しますが、『レディース・コミックの女性学』という本があります。バブル期、レディースコミックが巨大な市場を形成し、フェミニストたちは大いに困りました。何しろ、ポルノは男が女を搾取するために作り上げた絶対悪であったはずなのに、女性作家たちが男性向けのポルノと全く構造を同じくする漫画を嬉々として描き、それを女性の読者が貪るように読んでいるのですから。
 そこで若手のフェミ学者が上の本を出したのですが、それが「レディコミ誌の編集長が男であった」というだけのことを論拠に、「男が女に自分の価値観を押しつけ、描かせているのだ、そうに決まっているのだ!!」と泣きじゃくる、というもの。もちろん、レディコミ誌の編集部にそこまで独裁体制が敷かれているのかについては、一切の言及がありません。
 斉藤師匠の(そしてその他のあらゆるフェミニストの)言も、これと全く同じです。
 上のような歌を歌っているHKTの女の子たちは当然、全員秋元の毒電波に操られているのです。おそらく、こうしたアイドルのファンには相当数の女性が含まれていることでしょうが、彼女らも当然、毒電波で操られているのです。
 レディースコミック(や、萌え系の漫画)を描く女流漫画家もアイドルも、全ては男に操られている被害者であり、その選択は、決して認められてはならないものなのです。
 ジェンダーというものは全て男が女へと押しつけたというのが、彼ら彼女らの妄念です。大変残念なことに、その押しつけた証拠というものが今まで一度も発見されたことがなく、そして一兆歩譲ってそれが事実としても「ぼくたち個々の男」はその押しつけをした覚えはない。しかしお前らは男らしさで得をしているのだから責任があるのだ、というのがフェミニズムです。どんな得があるのか。言うまでもなく男は女よりも遥かに多く自殺に、病死に、殺人事件の被害者に、過労死に、ホームレスに追い込まれることができるという、「絶対の優遇」があるのです。

 上に挙げた「ジェンダーギャップ・ニッポン!」では聞き飽きたジェンダーギャップ指数が話題になります。世界経済フォーラムによって18年に発表された「ジェンダー・ギャップ指数」において、日本が149ヶ国中110位であったとの話題ですが、この指数がとてもまともに相手にするに足りないものであることは、ネットではかなり知られてきていますよね。例えばスウェーデンなど北欧は女性の社会進出が進んでいて素晴らしく、(18年の)「ジェンダー・ギャップ指数」は世界第三位なのですが、何と、白人国家の中で一番のレイプ大国で、そちらでも第三位を獲得しているというクソさ*1。レイプ発生率は日本の七十倍近い、という指摘もあります。こうなると「性犯罪などどうでもいい、女性の社会進出だけがジェンダーフリーの基準なのだ」というのが斉藤師匠の考えである、とする他はないでしょう。師匠、他にも痴漢に対する著作があるなど、性犯罪の専門家なのですけれどもね。
 こうした「妄念と認知の歪みの極致」であり、「この世の全てへの憎悪と呪いの思想」がフェミニズムであり、それが「性犯罪者から子供を救おう」という純粋な理想に燃えていた(であろうと、信じたい)斉藤師匠にも悪影響を及ぼし、その高邁な理念を無残に歪めてしまったのです。
 師匠の主張を推し進めれば、女性を「可愛い」と思うこと、「可愛い女性」を好ましいとすることを、即ち普遍的な男性、そして女性のセクシュアリティを、ジェンダー観を「ジェンダーフリー」によって完全にリセットする他ない。
「ジェンダーフリー」後の社会ではもちろん、性犯罪はゼロである。
 しかし、その社会では恋愛も結婚も萌えも全てが消え果ている。
 いつも言っている通りです。
 フェミニズムの主張は「地球環境を守るためには人類を絶滅させるしかない」との90年代のアニメの悪役がよく唱えていた、純理論的には極めて正しいが絶対に唱和できない主張と全く同じなのです。

*1「「北欧ゴリ押し」ウォッチ フェミニスト国家なのにレイプ大国になったスウェーデン その1」などが参考になります。

 本書においてペド犯罪者はトラウマを抱え、自己評価の低い者が多く、そのため自分より弱い者を性の対象にするのだとの指摘が繰り返されます。ぼくはそうした観念的な言説を、子供への欲情という下半身的即物的な現象と過度に結びつけるのはどうかと思いますが(ペドが弱い者に欲情しているのであれば、幼女ではなく怪我をした女性、障害を持つ女性、綾波レイでも代替できるはずではないか?)、しかしある程度は正しいはずです。
 男には、力が求められるのだから。
 経済力のない男と結婚しようという女がいないことは、もうわかりきっているのだから。
「女の子はバカでいい」は明らかに女の子自身にも共有されている価値観です。頭脳明晰なブスとバカな美少女と、彼女らがどちらになりたがるのかを考えた時、それは言うまでもないのです。
 それを(何の根拠もなく)男が仕組んだことだから、全責任は男に、何ら力がなかろうとも、男に生まれた者にはその責任があるのだ、と言い続けてきたのがフェミニズムです。
 もし、仮にペド犯罪者に対する治療法があるとしたら、「そんな自己評価の低い男性に自尊心を取り戻させる」方向に進むしかないはずです。自己評価が低い者にまで「威張るな」というのは逆効果でしかないでしょう。しかし、フェミ信者である師匠はそこを逆走し続けるのです。これでは問題は永久に解決しないでしょう。
 ――いえ。しかし天才であらせられる斉藤師匠は、ここに実に巧妙な抜け道を見つけ出しました。
 本書の最後には、フロクとして元・ペド犯罪者との対談が掲載されています。そこでその元ペドさんは「小児性愛は先天的なものでは」との考えを語りつつも、大学生時代、「成人男性が思春期前の少年を性的虐待するコミック*2」を読んだことが決定打になった、としています(この人は、男の子を好むタイプです)。斉藤師匠はすかさず「いわゆる児童ポルノですね。」と合いの手を入れ、「つまり小児性愛障害は、社会のなかで学習された行動だと。」と語り、元ペドさんに頷かせています(264p-)。
 実はぼくもかつて、元・ペド犯罪者が、フェミニズムを語るところを見たことがあります。しかし、これはものすごくまずい。
 男性がフェミニズムを学ぶということは、選民意識にまみれた、他の男性への見下しを学ぶということでしかないのですから。
 だって師匠のロジックは一般の、その辺にいる善良な男性も「お前もペド犯罪者と連帯責任だ!」と噛みついてるのといっしょなんだから、むしろ元ペドは「俺は一般の男どもよりマシ」との勘違いしきった自尊心を得ることになる。彼らは「過ちを犯したが、生まれ変わり、愚民どもには理解できぬ真理に到達した自分」という物語を紡ぎ上げることになるでしょう(上の元ペドさんにはそうした傲慢な勘違いは、全然感じないのですが)。
 治療効果は期待できないし、悪影響は甚大、と考える他はありません。
 本書ではカウンセリングでペド犯罪者にフェミを注入するという記述があります。女性スタッフと対等に接する様子を彼らに見せることで、男女平等意識を学び取ってもらうのだそうです(250p)。
 何だそりゃ。
 その一方で「ペドは(大人の)女が怖いのだ」というのだから、もう滅茶苦茶。まあ、師匠の中では辻褄があっているんだろうなあ、という感じはひしひしとするのですが。
 こうした倒錯した「治療法」は師匠がフェミニズムの偏向にどっぷりと浸かっているがために生まれたものですが、大変残念なことにこれは、問題のピントをボケさせることにしかならないのです。

*2 ただ、この記述は少々不自然という気もします。というのもこの元ペドさんは現在、五十代後半だそうで、大学生の頃は八十年代後半のはず。その頃、いわゆる「ショタ」系のエロ漫画というのはゼロではありませんが、ほとんどありませんでした。BLの中にそうした描写があったのかと思いますが、BL雑誌自体が非常に少なかったし、今、BLと聞いて想像するような「萌え絵」でも「エロ」でもありませんでした。仮に嘘ではないなら、下手すっとこれ、『風と木の詩』みたいのじゃないかなあ……。

 ――さて、結構なページを費やしてしまいましたが、「認知の歪み」はまだまだ続きます。
 今回は斉藤師匠の「認知の歪み」はどこから由来するものかを考え、それが全てフェミニズムからの直輸入であることを明らかにしました。
 ぼくたちは子供たちを守るために、一刻も早くフェミニズムの危険性を世間に周知させねばなりません。
 次回はもうちょっと斉藤師匠の言説に耳を傾け、「表現の自由クラスタ」との比較検討を行ってみましょう。いや、そこでやはり表現の自由クラスタの「認知の歪み」がフェミニズムからの直輸入であることが明らかになり、ぼくたちは子供たちを守るために、一刻も早くフェミニズムの危険性を世間に周知させねばならないという結論が出ることはもう、わかっているのですが……。

続編をうpしました!


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