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牛角炎上問題は小山田圭吾炎上問題である――『小山田圭吾冤罪の「嘘」』を読む

 というわけでみなさん、ワタクシがマジメに小山田圭吾の問題についてガンバっている間にも牛角を炎上させてますな。
 古くからのぼくの読者の方は何とはなしにでもおわかりかも知れませんが、ぼくはあまり、この問題そのものについては興味がありません。
 女性専用車両の頃から、ぼくのこの種の問題に対しての熱量は微妙なものでした。例えば十年ほど前にも、ラーメン屋の女性百円値引きサービスが男性差別だとして炎上したことがありました。フェミ騎士がそれを「女性は経済的劣位者なのだからその程度で怒るな」と(嘘を根拠に)批判したのですが、ぼくの論調は「百円値引きなど、取るに足りない。男性はそもそも人間として扱われていないのだから『ハエ差別』という言葉がないのと同様、『男性差別』という言葉はない」とまあ、何かそんなでした。
 もちろん、今回の牛角について、いろんな論点で切り込むことは可能です。
 古くからこの業界にいる者にとって、「むしろ以前にこそ(女性優遇サービスが露骨だったこともあるからではあれ)憤る声は多かったじゃないか」とも言える。しかし同時に「いや、ここまで声が大きくなったのは(声が受け容れられたのは)時代の変遷を感じる」とも反論し得る。正直、どちらが正しいのか、ぼくには判断しかねるのですが。

 ――と、ここまではマクラ。
 本稿の主旨は先の動画でも扱った小山田圭吾炎上問題について、電八郎の電子書籍『小山田圭吾冤罪の「嘘」』について語るところにあります。
 本書について、何にせよ今なら格安でゲットできるはずなので、まずは一読して欲しいところですが、実のところ電氏にはやはり同問題を扱った前著、『小山田圭吾はなぜ障害者をいじめなかったのか』があり、ここではむしろ、(ぼくが動画でも問題にした)根本敬の同問題への影響についてにページが割かれています。
 翻って本書では「悪趣味・鬼畜AV」についての言及が多い。つまり電氏のスタンスは小山田事件も当時のサブカルの悪趣味・鬼畜ブームの一端でしかない、というぼくに近いものであるわけです。

 さて……そんなわけで本来ならば、同書が丹念に調査した当時の「悪趣味・鬼畜AV」の愚劣さ、悪辣さをご紹介したいところなのですが、それは次回に譲ることにして、ここでは同書の「松江哲明『童貞。をプロデュース』と『童貞の教室』」という項について語りたいと思います。
 ここでは松江というAV監督が「童貞をプロデュース」するという意図のドキュメンタリーAVを撮った、ところがその(童貞として出演した)男性K氏が、松江から性的暴行を受けたと訴えた、という事件が語られます。
 このエピソード自体、読むだけでも精神的ダメージを受けるような無残で悪質なAVについて並べられた、その最後の一例として挙げられており、身体に障害を負った女性などに比べればまだしもソフトなものなのですが、ともあれK氏はAV撮影の現場に引っ張り出され、その場のムードに逆らえず(否、早くしろと声を荒げられ、恫喝を受けて)、フェラチオを強要(……などとあるのでペニスをくわえさせられたのかと思ったのですが、要はAV女優からフェラチオ)されたというわけです。

 ――ここまででみなさん、どう思われたでしょう。
「なあんだ」と思った方もいれば「得したじゃん」といった温度の方もいらっしゃるでしょう。「しかし望まぬ行為なのだからレイプにも等しい」と考える人もいましょう。
 ただいずれにせよぼくが今回、牛角炎上問題と本件とを並べた意図は、ここでおわかりいただけるでしょうか。
 それはつまり「あぁ、男もそういうことを言うご時世なんだ」とでもいったことです。
 一昔前ならば、これらはいずれも「男たるもの、そんなことを気にするモンじゃない」で一蹴された問題です。
 いずれの問題に対しても、「いや、男性も自らの権利に対してようやっと目覚めたのだ」とも言え、それはそれで完全に正論であり、ぼくも否定しません。ただ、もうちょっと大きな枠組みで、これら問題を捉え直す必要もまた、あるのではないでしょうか。
 何でもこの松江、K氏に許可も得ず彼の主演作を全国上映や海外の映画祭での上映、DVDの発売までも無断で行い、支払われるべきギャラも払っていないとかで、(それが嘘でない限りは)いずれにせよ論外です。
 が、電氏は松江の著作とK氏のブログの記述とを並べ、両者の食い違いを比較検討しているのですが、そのどちらが正しいかについて、第三者がジャッジすることは難しいのではないでしょうか。
 例えば松江はK氏が風俗やAVを「汚い職業」と見下していたとしますが、K氏は(現場でムリヤリ言わされたが)そんなことは考えていないとしています。
 どちらが正しいか、第三者には判断のしようもないことですが、それでも敢えて言うなら、「確かにK氏はそう明言してはいなかったが、態度からそのように感じられた。松江がそれを言語化させた」といった辺りが真相ではないかという気がします。もちろん、松江の感じ方も正しいのか、それとも被害妄想の部分があるのか、そこは微妙なところですが。
 松江はK氏に対し、以下のように述べます。

 僕は、彼にも「己の小ささを知る」という経験をしてほしい。
 みずからの童貞は平気でカミングアウトするかわりに、何かを必死で隠しているような彼を見て、そう思った。
 隠すよりも、堂々と、セキララな自分で勝負をかけろ。二十歳を超えた男子なら、みずからに対して、強硬手段を仕掛けるべきだ。
(『童貞の教室』47~48p)

 要するにある種、AVを見下し、「セックスには純愛が必要だ」といった理想主義から抜け出せず、セックスに向きあえないK氏に現実を突きつけ、「男にしてやる」というのが、松江の描いているストーリーなのです。
 電氏はこれを「むちゃくちゃな理屈」と一蹴しますが、北方謙三の人生相談コーナーにも似たようなことが書かれていそうです。
 松江は本件を自著で以下のように締めています。

 片思いの彼女という、男にとっては世の中でもっとも「他者」な存在に対して、関係性を作ることを拒否していた彼が一歩を踏み出すまでの記録。
 この一歩があればきっと彼はだいじょうぶ。そう思えた瞬間が、撮れた。
(前掲書、61~62p)

 何だか感動的ですが、実際問題として松江が「K氏のため」と信じて行った諸々はK氏から恨まれているのだし、いずれにせよその思惑は外したということは紛れもない事実でしょう。
 いかにもな体育会系の松江はもちろん、ぼくも一番嫌悪感を感じるタイプの人物です。サブカルは基本、体育会系なんですね。いえ、厳密に言えば「自分をナイーブな文学青年だと思い込んでいる、一般体育会系」でしょうか。
 ただ、しかし「男なんだからグダグダ言ってないで積極的に行け」というのはある種の正論ではあります。仮にですが、K氏から相談されたら、誰しもその程度のことしか言えないのではないでしょうか。

 またちょっと話が変わりますが、実のところ(これはまた次回に詳しくお伝えしたいのですが)電氏の論調はある種、「小山田の行為は障害者差別」といったトーンが強く、そこはあまり賛成できません。
「悪趣味・鬼畜AV」について語る箇所では(ぱっぷす副理事長で、バリバリのドウォーキン主義者である)中里見博師匠の著書が盛んに引用されます。電氏自身もまたそれらを「女性差別」であるとの世界観を共有しているのですが、それはちょっとどうなんだという感じです。
 例えばですが、レイプは「女性差別」でしょうか。フェミニズムは「差別」とすることで、自分たちの正義を根拠づけています。しかし「許せない犯罪だが別にそれは差別とは関係ない」といった辺りが一般的な感覚ではないでしょうか。フェミの思い込みとは異なり、レイプの多くは性欲による衝動的な犯罪(或いは女性とのディスコミュニケーションが生んだ悲劇)だからです。
 先の悪趣味・鬼畜AV、本当に本書で概要を読むだけで気分の悪くなる陰惨なものですが、これもそれ自体は「女性差別」ではない。
 例えばレディスコミックがレイプ描写で溢れているように、セックスにおいて男性は能動性、女性は受動性の発揮を期待されるという男女ジェンダーの特性は、それ自体はどうしようもない宿命的なものです。
 悪趣味・鬼畜AVについても、一番重要なのはそれがフィクションか否か、言い換えれば女優の合意が取れていたか、またリスクについての充分なマネジメントがあったかでしょうが、本書を(ないし本書で引用される中里見師匠の主張を)読む限り、そこがどうも不明瞭です。
 それもこれも本書における悪趣味・鬼畜AV批判が「表現そのものが悪い、何となれば差別だから」というスタンスに立っているせいであり、そこはやはり、頷けない。
 だってこれが仮に正しいならば、言うまでもなくレイプ物のAVは製造販売を禁止せねばならない。架空の表現でもNGなのだから、言うまでもなくエロ漫画もしかりであり、そこにはBLもレディスコミックも当然、含まれます。
 いえ、先にも中里見師匠をドウォーキン主義者と書いたように、フェミ的には「あらゆるセックスはレイプ」なのだから、それは全て禁止されるべき、となってしまう。
 いつも言うように、これは「ジェンダーフリー」の罠です。フェミニズムとは「男女ジェンダーの様々な立ち現れの中から恣意的にネガティブなものだけをすくい上げ、悪しきものだから全面禁止せよとする思想」であり、それは角を矯めてウシを殺す行為です。フェミニズムの言う通りにすればあらゆるセックス、恋愛、それにまつわる文化(AVから恋愛映画に至るまで)を徹底的に破壊し、言うまでもなくセックスも禁じなくてはならなくなり、人類は絶滅するしかない、フェミはそうした途方もないカルトなのです。
 そして電氏もまた、その罠にハマってしまっているとしか、言いようがないのです。

 実際のレイプやあまりに危険なAVは禁じられるべきでも、普通の性行為やAVは禁じられるべきではない。
 ただ、そのボーダーは曖昧であり、セクハラやいじめのボーダーもまた、同様でしょう。
 その意味で上の松江とK氏のいさかいも(金銭問題は例外として)必ずしもK氏だけが被害者かとなると、第三者としては判断しづらい。
 ここまで来れば、大体わかってきたかと思います。
 牛角炎上問題の本質もまた、そこと同じなのです。
 本件で、むしろ左派寄りの御仁が以下のようなことを言っていました。

焼肉食べ放題女性半額の話
強者男性「妻とか娘の分が浮くな、家族サービスしよ」
弱者男性「男性差別ダー、ぎゃおおおおん!」
ガチでこんな感じになってるのキツい。
やっぱ強者は強者たる理由があって、弱者は弱者たる理由があるってわざわざ自ら証明しに行くのマゾなんかな?
https://x.com/tacowasa2nd/status/1830987115020329289)

 これは「ある意味では」正論であり、ぼくたちが怒るべきなのはフェミが男女ジェンダーを否定したがため、「大いに稼ぎ、女へおごってやる」という男の甲斐性を発揮することができなくなったという事態に対して、なのです。
 その意味で、上の御仁が「だから女の社会進出を推進することはないのだ、男に稼がせるべきなのだ」と主張するのであれば、ぼくは同意します。

 さて、これと近しい構造は、小山田問題そのものにも実のところ、横たわっています。
 動画でも片岡大右『小山田圭吾の「いじめ」はいかにつくられたか』について厳しく批判しました。
 が、実のところ同書も四章についてだけは、一部ですが傾聴に値する箇所があると感じました。
 教育学者やら何やらのいじめ論についてつらつら述べられているのですが、要するに八〇年代にいじめによる自殺など悲惨な事件が頻発したがため、言語空間でいじめが自殺と直結されることになってしまった、しかし子供の自殺の原因として、いじめは比率が低い、といったような話が続くのです。
 要するに片岡はここで、イジメというものの相対化をしようと言っているのです。いじめと言ってもいろいろで、大したことがない場合もある、と。
 そう、実のところこれは(圧殺されがちですが)絶対に忘れてはならない論点で、「いじめ」って「セクハラ」とほぼ同義なんですね。
 愛ある「いじり」と「いじめ」の差異は曖昧です。
 セクハラがそうであるように、その愛ある「いじり」を後になって実は嫌だったのだとするような論調、世間では溢れかえっていることでしょう。
「いじめ絶対許すまじ」というのは否定のできない正論ですが、それを錦の御旗として振りかざすことで、各々のケースの個別性を蔑ろにすることは、あってはならないのです。
 もちろん、そうした個別性を検討した上でも、『クイック・ジャパン』を見る限り小山田の行為は常軌を逸したものであり、小山田擁護としては、先の言説は成り立ってはいないのですが、ともあれ片岡の主張は、この箇所については一般論としては、正しいわけです。
 翻って電氏の著作では中井久夫『いじめの政治学』から引用し、いじめかいじめでないかの基準はそこに相互性があるかどうかであると述べます。これは要するに両者のスタンスが交換可能かどうかと問うているわけで、しかしこれもやっぱりおかしい。例えば、夫婦関係も親子関係も互いの立ち位置は交換可能ではないけれども(だからこそそれ故の問題が起こる可能性もあるけれども)だからけしからぬということにはならない。
 ぼくは以前、赤田佑一が小山田を『花のよたろう』に準えてわけのわからない擁護をしていたことを批判しました。
 よたろうはタア坊という自分を慕ってつきまとってくる子供を子分のようにこき使いつつ、可愛がってもいる。これは下町のガキ大将と子分のような関係で、そうした麗しい関係性というのもあり得るかとは思います。
 もっとも小山田と障害児の間に『よたろう』的な「善き上下関係」が成り立っていたとはとても言えず、いずれにせよ赤田の言は苦し紛れの域を出ないのですが。
 また、そもそも学校社会というもの自体が子供を学年で峻別し、同じ学年の者は先生というリーダーの下、平等なのだという物語を根底に置いているわけで、こうした関係は成り立ちにくい。言うならば子供を平等に扱うという理念の上に、いきなり「障害者をも包摂せよ」とのDEI的理念を木に竹をつないだように持ち出したことこそが(つまり障害者と健常者の差異を認めず、雑に同じ場に放り込んではい、終わりとしたことが)、小山田問題の発端です。
 即ちそうしたDEI的理念こそがそうした「善き上下関係」を真っ向から否定するものである以上、小山田擁護に『よたろう』を持ち出すこと自体が筋違いであり、赤田も片岡も何重にも間違いを犯しているとしか、結局は言いようがないのですが。
 しかしそれでも、子供同士が絶対的に対等な関係性を構築しなければならないというのも、よたろうとタア坊の関係を「いじめだ」と決めつける偏った、言うならSMプレイを、レイプAVを「女性差別だ」と決めつける価値観と同じであるわけです。

 ――というわけで、少々、電氏自身へも忌憚のない文句をつける内容となってしまいましたが、結局この問題が「サブカル」の愚劣で悪辣な露悪趣味に端を発するものであるという視点は、絶対的に正しいというしかない。
 次回は、その辺りをもう少し深掘りできればと思っております。

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